正解のないルーズリーフ
学園へと戻ったひかるの日常は、すっかり壊れてしまっていた。
何ひとつ解決せず、実家からも「ここはもうあなたの家ではない」と拒絶された心の傷は深く、身体は悲鳴を上げ続けていた。毎朝、重く冷たい現実が押し寄せてくる。
朝、奇跡的に起き上がれる日は、這うようにして朝の奉仕作業へ向かい、そのまま地元の公立中学校へと登校した。
しかし、身体が鉛のように重く、布団から指一本動かせない日は、朝の作業も、学校の授業も、すべてを休むしかなかった。
作業を休みがちになってから、周りの子からは「あいつ、サボっている」という冷ややかな視線を向けられるようになった。
要領が悪くどんくさい上に、日課の作業すら来なくなるひかる。
自分でもどうして起き上がれないのか、どうしたら以前のように動けるようになるのか分からず、ただただ悔しくて悲しかった。
けれど、いくら心の中で申し訳ないと焦っても、体がどうしても言うことを聞かないのだった。
2学期の間は、まだなんとか踏みとどまり、休む日よりも出席する日の方が多かった。
けれど、心が完全に摩耗しきった3学期に入る頃には、ついにその均衡が崩れた。
学校へ行く日よりも、部屋で一人、動かない身体を抱えて休む日の方が多くなっていったのだ。
外の高校へ行きたいという強い願いも、欠席日数という逃れようのない数値によって、静かに押し潰されようとしていた。
この学園には、毎日ではないが、大きな行事があった時や心に溜め込んだものがある時に、考えたことや思ったことをルーズリーフに書き綴り、「赤ペン先生」と呼ばれる村の大人に読んでもらうという仕組みがあった。
藁にもすがる思いで、ひかるは素直な胸の内をルーズリーフに書き殴った。
『時々、わけもなく涙が出てくる時がある。辛い。作業に行こうと思っても、朝起きれない。』
自分の力ではどうにもできない苦しみとSOSを、そのまま紙に託した。
しかし、後日戻ってきたルーズリーフを開いて、ひかるは絶望した。
赤ペンで書かれていた返答は、あまりにも冷たく、突き放したものだった。
『何で辛いと思うのかな? 朝起きれない理由も考えてみよう』
問いかけの形をした、ただの丸投げだった。苦しみの渦中にいる子どもに寄り添うわけでもなく、具体的な解決策を示すわけでもない。
ただ「自分で理由を考えろ」という無責任な言葉に、ひかるはそっとルーズリーフを閉じた。
ひかるが朝の作業を休みがちになった当初、世話係は一度だけ「ひかるちゃん、ちゃんと起きようね」と声をかけてきた。
けれど、それ以降は完全に放置だった。
心配して病状を聞いてくるわけでも、怒りつけて起こすわけでもなく、ただ存在しないものとして扱われるようになった。
朝起きられない日は、世話係の去った静まり返った部屋で、そのまま泥のように眠り続けた。
昼になると、配給されたお弁当を静かに食べ、また横になって眠った。
夜の夕食は「愛和館」と呼ばれる大きな食堂まで歩いて行かなければ食べられなかったが、そこまで足を運ぶ気力すら湧かず、夕食は食べないまま過ごす日がほとんどだった。
お風呂も毎日入れるわけではなく、奇跡的に身体が動いて起き上がれた日にだけ、重い足取りで浴場へ向かった。
生きているのか死んでいるのかも分からないような自堕落で孤立した生活。
それでも体は沈み込み、気力は削がれていくばかりだった。
そんな満身創痍の状態で迎えた中学3年生の冬、学園の行事として「特別講習研鑽会」への参加が義務付けられた。
中等部女子部3年生の生徒全員が強制的に参加させられる、7泊8日におよぶ密室の思想研修だった。
その研鑽会自体は、意外なほど規則正しい寝食のもとで進められた。
だが、そこで行われたプログラムは、ひかるの心と思考をじわじわと追い詰めていくものだった。
最初の3日間ほどは、「怒り研鑽会」と呼ばれるセッションだった。
「どうしてあなたは腹が立つのですか?」
「何に対して怒りを感じているのか、徹底的に考えなさい」
大人たちは参加者たちにそう問いかけ続け、朝から晩まで「怒り」について考えさせられた。
両親への絶望や学園への不満など、胸の奥にある感情を掘り返されて思考がショートしそうになった頃、「じゃあ腹が立つって本当は無いのかもしれない」とやんわりと思い込ませる誘導が始まる。
続く2日間ほどは、嫌いなものを全員で言い合う研鑽だった。
出揃った嫌いなものに対して「それは本当に嫌いなものですか?」と何度も問いかけられ、まるで禅問答のように自分の「嫌い」という感覚そのものを否定し、考え続けさせられた。
そして講習の終盤、村人の住まいに一人で入るマンツーマン生活を経て、最後のプログラムが用意されていた。
大人たちは「生涯に一回しか見せられない」と厳かな口調で言い、2枚の絵を提示した。1枚は、苦痛と混沌が蠢く恐ろしい「地獄絵図」のような絵。
もう1枚は、平和で穏やかな光に満ちた「天国」のような絵だった。
「どちらの世界で生きていきたいですか?」
「カワギシはどちらの世界だと思いますか?」
極限まで感情を揺さぶられ、麻痺させられた子どもたちの前にその二択を突きつけ、どちらが正しい道なのかを語り合わせるのだ。
恐怖と理想を極端な形で対比させられ、学園こそが天国なのだと思い込ませる仕掛けだった。
7泊8日の過酷な研鑽会を終え、心も体もすっかり疲れ果てて学園の部屋へと戻ってきたひかるのもとに、思いがけないものが届いていた。
かつて突然姿を消し、この村を去っていった親友・紬からの手紙だった。
差出人の名を見た瞬間、思考を麻痺させられていたひかるの胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
村の大人たちによってネームプレートがあっさりと外され、まるで最初から存在しなかったかのように処理された紬。
その彼女が、今、外の世界で確かに生きているという証だった。




