中3進路希望の紙
中学3年への進級という季節の移り変わりは、外の世界と同級生たちにとって「未来」へと踏み出す前向きなカウントダウンの始まりを意味していた。
しかし、ひかるにとっては、逃げ場のない檻の格子がゆっくりと狭まっていくような、重苦しい焦燥感の始まりでしかなかった。
その重苦しさをさらに強固にしたのは、他でもない家庭の環境だった。
春先、父親が「特別講習研鑽会」と呼ばれる村の集中思想セミナーから戻ってきたのだ。
数日間の研鑽を経て戻った父親の瞳には、以前にも増してどこか浮世離れした冷たい熱が宿っていた。
口を開けば学園の理念や「無所有」「一体化」の素晴らしさを説き、家庭内の空気はこれまで以上にカワギシの思想で塗りつぶされていった。
自分たちの過去の選択は棚に上げ、ひかるには完璧な「村の子」としての自覚を求める。
外の世界へ出たいというひかるの小さな願望は、父親の強化された思想の壁によって、完全に遮断されたも同然だった。
そんな息苦しさを抱えたまま迎えた新学期、地元の公立中学校の教室で、一枚の紙が配られた。「進路希望調査票」――。
周りのクラスメイトたちが「〇〇高校を受ける」「〇〇女子高のオープンキャンパスに行く」と賑やかに話し合いながら鉛筆を走らせる中、ひかるの指先はぴたりと止まっていた。
白紙の紙を見つめながら、いくら頭を巡らせても、書き込める現実的な選択肢など存在しなかった。
外の高校へ行きたい。
けれど、塾にも通えず、参考書も買えず、やりたい目的すら問われて言葉に詰まる自分が、どこを受験できるというのだろう。
結局、ひかるは葛藤の末に、志望校欄へ『考え中』とだけ小さく書き込んで提出した。
放課後、誰もいなくなった教室で、担任の先生に呼び出された。
先生はひかるの調査票を手元に置き、心配そうな目を向けた。
「ひかるさん、志望校のところが『考え中』になっているけれど……何か悩みでもあるの?」
ひかるは視線を落とし、握りしめた制服のスカートの裾を固く絞りあげた。
先生に本当の気持ちを伝える勇気は出なかった。
学園への反発や、外へ出たいけれど何も手立てがない無力さを暴露するのが怖かったのだ。
「……親からは、学園の高等部に行くように勧められていて……。私、勉強も全然できないし、受験のこともよく分からないから、外の高校には行けないかもしれなくて……。だから、高等部に行くことになるかもしれません」
消え入るような声でそう答えるのが精一杯だった。
本当は外へ行きたいのに、口から出るのは諦めの言葉ばかりだった。
先生はひかるの言葉を静かに受け止め、少しだけ複雑な表情を浮かべた後、優しく、けれどどこか通り一遍のトーンでこう言った。
「そうか……。でも、自分の進路だからね。しっかりと親御さんと話し合いなさい。後悔のないようにね」
(話し合いなさい、か……)
先生の言葉が虚しく胸の奥で響いた。
普通の世界の親子なら「話し合い」が成り立つのかもしれない。
けれど、強固な思想に身を投じた両親と、無力な自分との間に「対等な話し合い」など存在しないのだということを、外の先生は知らない。
救いを求めることすら諦めざるを得ない孤独感が、ひかるの胸を深く抉った。
さらに、ひかるの心を追い詰める出来事が訪れる。
中学3年生になって間もなく、学園で「高等部生とのマンツーマン体験」という2泊3日の行事が組み込まれたのだ。
中等部の生徒一人に対し、高等部の先輩が一人ついて、寝食や作業を共にしながら過ごすというイベントだった。
ひかるを担当することになった高等部の先輩は、どこまでも澄んだ明るい瞳で学園の楽しさを熱く語る人だった。
「私たちが目指しているのは、誰もが争わず、所有に縛られない本当の幸福なんだよ」
昼の作業中も、夜の寝室でも、先輩は朗々と学園の素晴らしさを説き続けた。
そして、ひかるが言葉少なに俯いていると、先輩は親身になって問いかけてきた。
「ひかるちゃんは、何か悩んでいることはない? どんなことでも話してごらん」
誰にも言えなかった胸の内を、ひかるはぽつりぽつりと漏らしてしまった。
ハキハキ喋れず、内気な性格であること。その性格を両親から「治しなさい」と責められ、どうしていいか分からないこと。
「そうだったんだ……辛かったね。でもね、ひかるちゃん。その内気な自分を治したいと思うことも、学園でみんなと何でも思ったことを話して出し合っていけば、きっと乗り越えられるよ」
先輩は優しく微笑み、ひかるの悩みすらも学園の思想の中へとやんわりと取り込んでいった。
一見すると味方になって悩みを聞いてくれているようだったが、その根底にあるのは「学園の思想こそが正解である」という揺るぎない前提だった。
(何でも話せない、出し合えない自分がダメなんだ)
どこへ行っても、誰と話しても、ヤマギシの網からは逃れられない。
優しさに包まれた洗脳のような時間が、ひかるの精神をじわじわと削削っていった。
その頃から、ひかるの身体と心に異変が表れ始めた。
何の前触れもなく、学校の授業中や廊下を歩いている最中に、急に目頭が熱くなり、涙がぽろぽろとこぼれ落ちるようになったのだ。
悲しい出来事があったわけでも、誰かに叱られたわけでもない。
ただ、なんでもない日常の瞬間に、理由のわからない涙が勝手に頬を伝う。
慌てて手で拭うものの、止まらない涙に自分自身でも恐怖を覚えた。
さらに、寝坊や起き上がることさえままならない日が増えるようになった。
学園の朝は早い。毎朝決まった時間に起きて、全員で清掃や作業に当たることが義務付けられていた。
これまで要領が悪いなりに真面目に参加してきたひかるだったが、ある朝、目覚ましが鳴っても体がまるで鉛のように重く、布団から指一本動かすことができなくなった。
世話係が部屋に入ってきて声をかけても、返事すらまともにできない。
怠けているわけではないのに、頭が痺れたように重く、意識が泥の中に沈んでいくようだった。
「ひかるちゃん、どうしたの? 早く起きなさい」
世話係の困惑した声が遠くで聞こえる。
限界だった。
「外の高校に行きたい」という強烈な望みと、それを阻む父親の強化された思想。
何ひとつ具体的に動けない自分への不甲斐なさと、学校の先生からの無理解な助言。
そして、逃げ場なく押し寄せる学園の理想郷という名の圧力。
目指すべき未来の光は見えず、かといって現在の檻を受け入れることもできない。
出口を完全に塞がれたひかるの心は、自分でも気づかないうちに巨大なストレスの悲鳴を上げ、悲鳴の代わりに静かな涙と動かない身体となって、過酷なSOSを発していたのだった。




