保健室のトゲと、廊下の光
中学2年生のこの頃、ひかるの胸の中にあったのは「ここを出て、外の高校に行きたい」という強い切望だった。
結果としてその未来が叶うことはなかったとしても、当時のひかるにとっては、それが唯一の希望の光だったのだ。
学園で生活する子どもたちの姿は、大きく三つに分かれていた。
どんな作業も指示通りに真面目にこなす子。
影で愚痴や文句を叩きながらも、世話係に怒られないラインを見極めて要領よく立ち回る子。
そして、うまく目を盗んでは作業をサボる子。
ひかるはそのどれでもなく、ただただ「要領が悪い子」だった。
例えば、廊下や部屋の床を雑巾で拭く作業ひとつをとっても、他の子のように要領よく素早く終わらせることができない。
丁寧にはやっているつもりなのに、周りの子からは「ひかるちゃん、そこはそうじゃなくて、こうやってやって」と要領の悪さを指摘されてしまう。
畑作業や毎日の作業でも、幼い頃から村で育った生粋の「村の子」たちの手つきは無駄がなく、圧倒的に早かった。
手に職も知識もない自分は動きがどんくさく、何をやっても一歩遅れてしまう。
(私……みんなの役に立ってないんじゃないかな)
作業の手を止め、器用に作業を進める周りの子たちを見つめながら、そんな無力感が胸を締め付けた。
自分は、ハキハキと自分の意見を言えるタイプではない。
みんなを笑わせるような面白いことが言えるわけでもない。
主張しないひかるの存在感はいつも薄く、集団の中に静かに没入しているだけだった。
(みんなから、私なんて好かれていないかもしれない……)
「無所有」や「共有」を掲げ、個人の所有物を奪っていくこの村の中で、ひかるは自分自身の内面さえも空っぽに思えて仕方がなかった。
確固たる主張ができるわけでもなく、作業を完璧にこなせる要領の良さもない。
特徴も個性もない自分に嫌気がさしながらも、ひとり作業の手を動かしていると、家庭研鑽で母親から投げかけられたあの言葉が、苦々しく蘇ってくる。
『高校へ行って、何かやりたいことがあるの? 目的をはっきりさせなさい』
(高校でやりたいことって、なんだろう……)
雑巾を絞りながら、ひかるは何度も心の中で問いかけた。
部活動に打ち込みたいのか、何か専門的な勉強がしたいのか。
けれど、外の世界の高校生活を知らないひかるには、具体的なイメージなど湧いてくるはずもなかった。
ただ「ここから出たい」「普通になりたい」という切望ばかりが膨らみ、肝心の「その先」が見えない自分がもどかしかった。
そんな息苦しい学園の日常の一方で、地元の公立中学校へ通う日常の中には、ほんの少しずつ変化があった。
進級してクラス替えがあり、周りの環境が少し変わったのだ。
ある日、授業中に猛烈な頭痛に襲われたひかるは、保健室に行ってしばらく休ませてもらうことにした。
静かなベッドで横になっていると、保健の先生がそっと近寄り、声をかけてきた。
「ひかるちゃん……カワギシの子でしょう?」
先生は周りを気にするように声をひそめ、真剣な眼差しでひかるを見つめた。
「もしね、中等部のうちに親元へ帰りたくなったり、学園を出たくなったりしたら、先生が手助けしてあげるからね。いつでも相談して」
そう言ってくれた先生の言葉には、どこか学園そのものに対する強い批判や嫌悪感が滲み出ていた。
学園の異質さを敵視するようなトゲを感じて、ひかるの胸には言いようのないざらついた不快感が残った。
(手助けしてくれるって言ってくれているんだから、良い人なんだろうか……。でも、なんか嫌だな……)
救いの手を差し伸べられているはずなのに、素直に頷くことができなかった。
学園の息苦しさは嫌いだったけれど、外の大人から「かわいそうな被害者」として決めつけられ、自分の暮らす場所を頭ごなしに否定されることには、どうしても強い抵抗があったのだ。
「……あ、大丈夫です。ありがとうございます」
結局、ひかるは小さく首を横に振り、その申し出を断るしかなかった。
けれど、学校の大人全員がそんな偏った目で見ているわけではなかった。
また別の日、放課後清掃の時間にひかるが黙々と床を拭いていた時のことだ。
「ひかるさん、いつもすごく丁寧に掃除をしてくれてありがとうね。感心しているよ」
通りかかった別のクラスの担任の先生が、足を止めて優しく声をかけてくれたのだ。
学園の子だからと一括りにするのではなく、自分という一人の人間の行動をちゃんと見て、評価してくれている。
その当たり前の温かさに触れた時、ひかるの心はすっと救われる心地がした。
さらに、同級生との関係にも小さな光が差した。
ある日の休み時間、廊下を歩いていると、新しいクラスメイトの女の子が気さくに声をかけてきてくれたのだ。
「ひかるちゃん! よかったら、もっと私と仲良くなってね。いつでも気軽にはなしかけて!」
ニコッと笑ってそう言ってくれた彼女の言葉には、学園の子だからという壁や偏見は一切なかった。
村の大人たちや、外の「かわいそう」と憐れんでくる大人たちの視線とも違う、ただの同級生としての純粋な優しさ。
ハキハキ喋れず、これといった特徴もない自分に対して、そんな風に真っ直ぐ手を差し伸べてくれる人が外の世界にはいる。
(私なんかとでも、仲良くなりたいって思ってくれる人がいるんだ……)
自分の存在をまるごと肯定してもらえたような嬉しさに、ひかるの胸の奥がじんわりと温かくなった。
外の世界へ出たいという気持ちの先に、ほんの少しだけ明るい光が差し込んだ瞬間だった。
けれど、外へ出るための具体的な道のりは相変わらず見えないままだった。
塾に通うことも許されず、参考書を自分で買うお金もないひかるにできることといえば、毎日学校から出される宿題を精一杯こなすことくらいだった。
「外の世界へ行きたい」という切実な願いと、「何をどうすればいいのか分からない」という無力感。
そして、周りの大人たちの複雑な視線や小さな優しさに挟まれながら、ひかるの中学2年目の日々は静かに過ぎていった。




