村の子と一般の子と、引き出しの奥の消えた甘さ
村で生まれ育った子どもたちと、ひかるのように外の世界からやってきた子どもたちの間には、言葉にはされないけれど重く分厚い「知恵の差」と「感覚の溝」が存在していた。
村の子たちにとって、幼い頃から叩き込まれてきた「無所有」は当たり前の空気のようなものだ。
「みんなのものは自分のもの、自分のものはみんなのもの」
その思想は綺麗事ではなく、彼らの日常そのものとして骨の芯まで染み込んでいた。
一方で、外から来た子どもたちにとって、それは自分の聖域を足蹴にされるような、耐えがたい侵犯でしかなかった。
その決定的なズレをひかるが思い知らされたのは、ある日曜日の自由時間のことだった。
「共有で使う辞書、読みにくいから、ひかるちゃんの辞書貸して。」
そう言って部屋にやってきたのは、村出身で一年生の沙知だった。
「あ、うん。いいよ」
今この瞬間、ちょっと調べるだけだろうと思い、ひかるは自宅から持ってきていた国語辞典を差し出した。
辞書はすぐに返ってきたものの、個人の所有物として分厚い辞書を棚に置いていること自体、この学園ではかなり珍しいことらしかった。
それ以来、噂を聞きつけた他の子たちからも「辞書貸して」と声をかけられるようになった。
貸せばきちんと返してはくれるものの、ひかるの心にはどこか小さな引っかかりが残っていた。
そして、ある日のこと。
ひかるがいつものように勉強をしようと自分の棚に手を伸ばすと、あるはずの場所に辞書がなかった。
(えっ……嘘でしょ?)
血の気が引くのを感じながら、ひかるは棚の近くを探し回った。
あちこちを必死で探し、辿り着いたのは一年生が勉強に使う部屋だった。
そこにあった机の上に、ひかるの辞書は無造作に放り出されていた。
表紙は少し捲れ、誰かが雑に扱った痕跡を残したまま。
(……なんで? 人の物なのに、なんで勝手に持っていくの?)
怒りと不快感で胸が押し潰されそうになりながら辞書を抱きかかえて立っていると、通りかかった子が不思議そうな顔でひかるを見た。
「何怒ってるの? それって、みんなで使う共有の辞書じゃなかったの?」
悪気のない、純粋な疑問の眼差し。その言葉に、ひかるは言葉を失った。
彼女たちにとっては「あるものを必要な人が使う」のが正義なのだ。
個人で所有し、大切に保管することの方が、この村では異質な「わがまま」として処理されてしまう。
話し合っても噛み合うはずのない圧倒的な価値観の溝に、ひかるは眩暈を覚えた。
(駄目だ。ここでは、私の大事なものは自分で守らなきゃいけない)
部屋に戻ったひかるは、誰にも見つからないよう、棚のいちばん深い奥へと辞書をそっと押し込んだ。
自分の持ち物を隠さなければならない生活。楽園と呼ばれる場所で、ひかるは少し孤独になっていく気がした。
その日の夕食後、世話係の女性スタッフがひかるの元へ歩み寄ってきた。
「ひかるちゃん、おうちから荷物が届いてるわよ。あとで世話係の部屋まで取りに来なさいね」
「……はい」
母が送ってくれたと言っていた、あの宅急便だ。
買ってもらった新しい服や、選んでもらったお菓子。
外の世界の匂いが詰まったその箱が届いたという知らせに、ひかるの胸はかすかに弾んだ。
けれど同時に、隠した辞書の重みが、棚の奥から静かにひかるの心を引っ張っていた。
世話係の部屋で段ボール箱を受け取り、ひかるは「寝る部屋」へ持ち帰った。
「寝る部屋」とは、中等部の1年生から3年生までが混ざって暮らす「6人部屋」だ。
テープを剥がして箱を開けると、外の世界の空気がふっと鼻をくすぐった。
一番上には、母と街で選んだ新しい季節の洋服がきれいに畳まれて並んでいた。
その下をガサゴソと探ると、頼んでおいたお菓子の袋がいくつか顔を出した。
「わあ、お菓子だ……」
村では市販のお菓子を口にする機会はほとんどない。
甘いスナックのパッケージを見るだけで、ひかるの胸は跳ねた。
部屋にいた他の子たちの視線が、自然と箱の中に集まってくる。
一人でコソコソ食べるのも気が引けたひかるは、「これ、みんなで食べよう」と声をかけた。
「えっ、いいの!? ありがとう!」
歓声が上がり、同じ部屋の数人で分け合ってお菓子を口に運んだ。
サクサクとした歯ごたえと、濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。
ほんの数分の出来事だったけれど、部屋の中にはパッと華やかな空気が流れた。
みんなで分け終えた後も、手元にはまだひかるの分のお菓子が少しだけ残っていた。
(これは、後で少しずつ大事に食べよう)
ひかるは残ったお菓子を小さな袋にまとめると、誰にも見られないように更衣室へ向かった。
そして、自分に割り当てられている引き出しの奥深くへ、そっとお菓子を忍ばせたのだった。
数日後、楽しみを胸に更衣室へ向かい、こっそり自分の引き出しを開けた。
しかし、奥に隠しておいたはずの袋がない。
手を入れて奥まで探ぐってみても、指先に触れるのは冷たい引き出しの底だけだった。
(えっ……なんで? ない……)
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
間違いなくここに入れたはずだった。誰かが勝手に開けて、持って行ってしまったのだ。
パニックになりかけたひかるは、更衣室の近くにいた子に、縋るような思いで声をかけた。
「ねえ……ここに置いてあった私のお菓子、見なかった? 引き出しに入れたはずなんだけど……」
泣きそうになりながら尋ねたひかるに対し、その子は驚く風でもなく、拍子抜けするほど淡々とした声で言い放った。
「そんなの、置いておく方が悪いよ。見つからないようにしなきゃ。盗られたんじゃない」
慰めるわけではなく、むしろひかるの軽率さを諫めるかのような冷ややかな言葉。
その一言が、鋭いトゲとなってひかるの胸に突き刺さった。
「盗られたんじゃない」という不気味な論理。
奪われたのではなく、見つかる場所に置いていたから「自然と誰かの手へ渡った」のだと言わんばかりの態度。
共有と無所有を掲げるこの村の裏側に潜むのは、綺麗な理想などではなく、ただの狡猾さと無神経さだった。
辞書を勝手に持っていかれた時の不快感とはまた違う、深い悲しみがじんわりと心に広がっていく。
お菓子そのものが惜しかったのではない。
自分の手元に残された数少ない「外の世界との繋がり」をあっさりと踏みにじられたこと、そして、それを誰もおかしいと思っていないという事実に、ひかるはただ黙って立ち尽くすしかなかった。




