第三話 幕が上がる
いよいよ本番、脚本通りに参りますわ。
「お嬢様、お支度が整いました」
アンナの声に、リゼットは鏡から視線を上げた。いよいよ、本番の夜だった。
夜会の会場は、王城の中庭に面した大広間だった。天井から吊るされた無数の燭台が、床に敷かれた深紅の絨毯を淡く照らし出している。着飾った貴族たちの談笑が、楽団の演奏に混じって、広間全体を華やかな熱気で満たしていた。
リゼットは、あらかじめ計算しておいた位置――中庭に面した大きな窓の近くに、さりげなく立っていた。証人として選んだ貴族たちも、それぞれ台本通りの位置に、自然な素振りで配置についている。楽団の演奏が、まるで幕開けを告げる序曲のように、広間全体を包んでいた。
(あとは、ユリウス様が予定通りの時刻に、ミア様を伴ってここにいらっしゃれば……)
これほど大掛かりな仕込みは、前世でも滅多に無かった。だからこそ、リゼットの指先は、演目の初日特有の高揚感でかすかに冷えていた。
時計塔の鐘が鳴る。予定の時刻だった。
「――リゼット嬢」
振り返ると、そこにユリウスが立っていた。彼の隣には、緊張した面持ちのミアもいる。
(――来ましたわね)
リゼットは、内心で小さく頷いた。心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速い。前世、初日の幕が上がる直前に感じたのと同じ緊張感だった。
「殿下、ミア様。ご機嫌よう」
優雅に一礼するリゼットに、ユリウスは硬い表情で口を開いた。
「単刀直入に言う。――君との婚約について、話がある」
「……はい」
周囲の貴族たちが、さりげなくこちらへ視線を向け始める。リゼットが事前に根回ししておいた『証人』たちだ。予定通りの反応だった――だが、示し合わせたように一斉にこちらを見るその視線の動きは、傍から見ればいっそ不自然なほど揃っていた。
「私は、ミアと――」
ユリウスがそこまで言いかけた、その時。
リゼットは、あらかじめ用意していた台詞を、機先を制するように口にした。
「――殿下。その先は、わたくしから申し上げても?」
突然の申し出に、ユリウスが虚を突かれたような顔をする。
「わたくし、殿下との婚約に、もう耐えられませんの」
周囲がざわめく。リゼットは、扇を握る手にわずかに力を込めながら、続けた。
「殿下のお心が、とうにミア様にあることは、存じ上げておりました。それでも、婚約者としての体面を保つため、ずっと苦しい思いをしておりましたの」
演技であることを、リゼット自身は知っている。だが、周囲にはそう見えない。声を震わせ、目元をわずかに赤らめる――前世で数え切れないほど演出してきた「傷ついた女」の型を、寸分違わずなぞってみせる。
「ですから、この場でお願いいたしますわ。――どうか、婚約を解消してくださいませ」
証人たちの間に、驚きと同情の入り混じったざわめきが広がる。クレイン子爵夫人が扇の下で小さく囁くのが見えた。予定通りの反応だ。
だが一瞬、ベルダン伯爵が困惑したように眉をひそめ、口を開きかけたのをリゼットは見逃さなかった。台本にない反応をされては困る。リゼットは、ほんのわずかに視線をベルダン伯爵へ向け、扇の陰でそっと頷いてみせた。――大丈夫、このまま静観していてください、と。伯爵は、その意図を汲み取ったのか、小さく頷き返し、再び口を閉ざした。
(――ここまでは、台本通り。あとはユリウス様が、この流れを引き継いでくださればよろしいのですが)
リゼットは、内心で次の展開を待った。演目の折り返し。ここから先は、ユリウスが「戸惑いながらも受け入れる」という筋書きになっているはずだった。
だが。
「――待て」
ユリウスの声が、予想外に鋭かった。
「今の話、本当か」
「もちろんですわ。わたくしの本心――」
「では、なぜ私の目を見ない」
その一言に、リゼットの視線が、一瞬だけ泳いだ。前世で数え切れないほど演じてきたはずの「傷ついた女」の型が、初めて綻びを見せた瞬間だった。
「嘘だな」
その一言に、リゼットの背筋が凍った。
「――何を、おっしゃいますの」
「君は今、この状況を作るために、随分と手の込んだ準備をしてきただろう」
ユリウスは、静かに、しかしはっきりとそう言った。周囲の貴族たちも、異変を察知したのか、ざわめきが徐々に静まっていく。
「庭園で見た紙。招待客の妙な配置。君を見ていた証人たちの、あまりに自然すぎる視線の動き。――全部、君が仕組んだことじゃないのか」
周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。楽団の演奏さえ、いつの間にか止んでいるように感じられた。
台本にない台詞。台本にない展開。
ミアは、状況が飲み込めないまま、ユリウスとリゼットの顔を交互に見比べている。
「殿下、それは一体……」
「ミア、少し待っていてくれ。これは、リゼット嬢と私の問題だ」
ユリウスの声には、有無を言わせぬ強さがあった。周囲の証人たちも、もはや台本通りに振る舞うべきかどうか判断がつかず、互いに顔を見合わせるばかりだった。
リゼットは、初めて、自分の脚本が誰かに読み切られたことを悟った。前世でも今世でも、これほど完璧に見破られたことは一度も無かった。扇を握る手の中で、心臓が早鐘のように鳴っている。
(――ここから先の展開は、わたくしにも読めませんわ)
台本を失った脚本家として、リゼットはこの後どう振る舞うべきか、初めて何も浮かばなかった。
誰もがこの後の展開を固唾を呑んで見守っている。楽団は、いつの間にか演奏を止め、広間全体が奇妙な静寂に包まれていた。
それでも、リゼットは背筋だけは伸ばし続けた。舞台の上で立ち尽くすことだけは、演出家としての矜持が許さなかった。
第三話、いかがだったでしょうか。
いよいよ本番を迎えましたが、まさかの展開でユリウスに全て見抜かれてしまいました。次話、彼の本心が明かされます。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




