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第二十五話:リリアの犠牲、谷底への祈り

 山道が途切れた。


 森を抜け、岩場を登り続けた先に待っていたのは、切り立った断崖絶壁だった。眼下には激流が轟音を立てて流れ、足元はどこまでも鋭い岩肌が続いている。


 逃げ場は、もうどこにもなかった。


 ヒカルは膝をついた。3日間の絶食と拘束、そして全力の逃走で、身体がもう限界だった。肺が軋むような咳が込み上げ、雨に打たれた外套が重く身体に張りついている。


「ハァッ、ハァッ…………リリア、大丈夫か?」

「ハァッ、ハァッ…………はい、ヒカル様、もう少しです!」


 リリアも限界を超えていた。小さな革靴は泥に埋もれ、黒く染め直したメイド服は雨で重く、疲労で引きずる足音が規則的に泥の中で鳴る。それでも彼女は、決してヒカルの手を離さなかった。


 背後から、甲冑の擦れる音と水しぶきを上げる足音が近づいてくる。騎士団が包囲網を完成させていく。グレイズは剣の柄に手をかけ、ヒカルを見下すように立った。


「元・天才軍師殿よ。無駄な足掻きご苦労だったな。貴様が目指した『優しさの秩序』など、この王国の規律を乱す毒でしかない。貴様の才能は妬まれ、貴様の優しさこそが嘲笑されたのだ」


 男の冷たい言葉は、ヒカルの胸に深く突き刺さった。ヒカルは力が抜けていくのを感じた。


(なぜ……なぜ、こんなことに。俺が信じた道は、この腐敗した世界ではただの悪意にしかならないというのか……)


「貴様には、死をもって償ってもらう」


 グレイズが剣を振り上げる。ヒカルはリリアを抱き寄せ、せめて彼女だけでも守ろうと目を瞑った。




 その瞬間、ヒカルの腕の中からリリアが飛び出した。


「リリア! 何を……!」

「ヒカル様!」


 リリアは短剣を構え、騎士団の群れへと果敢に斬りかかった。


「貴方の目指した世界は間違いなんかじゃありません!」


 彼女の叫びは、ヒカルへの絶対的な愛と信頼に満ちていた。


 しかし、武力差は歴然だった。リリアは騎士たちに弄ばれ、騎士の一撃が彼女の短剣を打ち据える。鋭い金属音と共に、刃は中央から折れた。


「諦めおったか。抵抗するのも終わりか、メイド」


 騎士たちが下卑た笑いを浮かべ、無防備になったリリアに近づく。


 その時、リリアは最後の力を振り絞り、折れた剣の残骸を捨てて、最も近くにいた騎士の1人に抱きついた。

 グレイズは、その行動を見て舌打ちした。


「とことん非合理的な奴め! 最後の最後まで無駄な感情に縋りつくか!」

「うるさい!! 本当の裏切り者もわからぬ愚かどもめ!!」


 リリアは、そう言い放って、一瞬だけヒカルを振り返った。


 小さく、笑った。


 雨に濡れた亜麻色の髪。泥と血にまみれた頬。だがその目だけは——10年前から変わらない、温かな光を湛えていた。


「ヒカル様、生きて……っ! さよな……」

「リ、リリア。何をする気だ! や、やめろ!!」


 しかし、時すでに遅し。


 リリアが1人の騎士の膝にしがみつき、そのまま勢いを使って押し込んだ。騎士は、メイドごときがこのような行動に出るとは完全に油断していた。それが命取りになった。


 リリアは1人の騎士を道連れに、その小さな身体に似合わない力で、断崖絶壁を飛び降りた。


 ヒカルの耳に届いたのは、リリアの、愛と絶望の入り混じった最後の言葉と、騎士の絶叫だった。


「リリアァアアア!!」


 ヒカルは手を伸ばした。指先が、雨の中に消えていくリリアの指をかすめた。




 届かなかった。



 リリアの姿は、暗い闇と雨の中に吸い込まれていった。





 ヒカルは膝から崩れ落ちた。


 彼はまた、何も守れなかった。リリアの最後の愛と信頼を、無力な絶望で迎えることしかできなかった。


 グレイズは冷たく顔を歪めた。


「ちっ、悪あがきしおって……。とにかく、不愉快だ」


 騎士の剣が、ヒカルの頭上で鈍い光を放つ。ヒカルは、もう抵抗する気力すら湧かなかった。


「さあ、貴様も終わりだ。地獄であのメイドと貴様の非合理的な理想を語り合うがいい」


(俺は、愛するリリアすらも護れなかった……。ああ、これで、全てが終わるのか……。まぁ、それもいいかもしれない……。どうでもよくなった……。どうせ俺の価値なんてそんなものだからな……)


 一瞬、脳裏を過ぎる、遠い日の、朧げな記憶。


 傷ついた少女に、水と薬草を渡した。ただそれだけの、純粋な行為。

 その記憶の底から、誓いの言葉が、彼の心臓を貫いた。


『……忘れない。この恩義。あなたの優しさが、すべてを救う唯一の力だと、命をかけて証明するわ』


 それが、ヒカルが最後に聞いた、優しさの残光だった。


 グレイズの剣が振り下ろされる——








 その直前。


 それまで辺りを叩きつけていた激しい雨が、文字通り蒸発したかのようにピタリと止んだ。


 分厚い暗雲は、巨大な意志に切り裂かれたかのように割れ、闇夜の断崖に神々しいまでの月光が、1本の光の柱となって降り注ぐ。


 周囲の空気が一気に乾燥し、灼熱の熱波がヒカルの肌を焼いた。


 グレイズは異常な熱波に顔を歪め、思わず剣の動きを止めた。


 その刹那——


 天空から、一条の紅炎が降った。

 音もなく。いや、音すらも焼き尽くすほどの圧倒的な熱量が、断崖を包んだ。


 グレイズが立っていた場所には、巨大な竜の爪跡と、地面に生々しく焦げ付いた甲冑の残骸だけが残された。


 騎士たちの恐怖の叫びが上がった。


「ひ、ひぃいっ! 化け物があああ!」


 月光の中に、巨大な紅蓮の炎竜が姿を現した。


 全身の鱗は月光を反射して灼熱のルビーのように煌めき、甲冑のように硬質な鱗の隙間からは、内部のマグマのような光が漏れ出している。その翼は断崖の闇を全て覆い尽くすほど巨大で、その影は騎士たちに原初的な恐怖を刻み込んだ。


 竜の喉奥から凄まじい熱量が凝縮される音が響き、夜空を切り裂く轟音と共に、紅蓮のブレスが放たれた。


 騎士たちは、それが何であるかを理解する暇もなく、断崖から蒸発した。


 ただ1人、ブレスの端を浴びた下級騎士の1人だけが、全身を焦がされながらも生き残った。彼は、ヒカルの「裏切り者」の物語を、「炎の竜に愛された王」という新たな恐怖として世界に伝える、生き証人となったんだった。





 ヒカルは、その圧倒的すぎる力を前に、身体が硬直していた。


(次は、俺がこの力の標的になるのか……)


 目を閉じた。せめて自らの意志で最期を受け入れようとした。

 しかし、その時はいくら経っても訪れなかった。


 巨大な竜体が、紅い炎の粒子となって分解し、月光を浴びながら収束していく。


 炎の粒子の中心から、1人の女が姿を現した。


 燃えるような紅の巻き髪。金色の瞳。かつての少女の面影を残しながらも、圧倒的な威厳と美しさを纏った炎の竜姫。


 彼女はヒカルの前に降り立ち、その顔を優しく、しかし有無を言わせぬ力で持ち上げた。



 泥にまみれた少年と、月光に照らされた竜姫の瞳が——10年ぶりに、交差した。



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