第二十六話:紅蓮の降臨
レヴィアは、古城を発ってから一刻も休まずに飛び続けていた。
シエルから届いた暗号通信の内容は、簡潔だった。
『護送は今夜。東方山道。従者リリア・シャイニングが動く』
それだけで十分だった。
人型のまま岩陰に身を潜め、断崖の上空から山道を見下ろす。冷たい雨が紅い髪を叩きつけ、視界を奪おうとする。だが竜の瞳は闇を貫く。
——いた。
山道の先、崖際に追い詰められた二つの影。一つは痩せた青年。もう一つは、小柄な少女。
ヒカル・クレイヴ。
12年ぶりに見るその姿に、レヴィアの呼吸が止まった。
——あんなに、痩せて。
頬はこけ、手首には枷の痕が残り、足元は覚束ない。あの聡明な瞳から光が消えている。8歳の時、傷ついた自分に水と薬草を差し出してくれた、あの真っ直ぐな目が——
胸が、引き裂かれるように痛んだ。
10年間以上、待った。シエルの計算に従い、あの人が教団に絶望する瞬間を、歯を食いしばって待ち続けた。1,600の同胞の命を背負い、自分の感情を押し殺して。今日この日のために。
だが現実は、シエルの計画とはあまりにも違っていた。
騎士団が包囲を完成させていく。甲冑の擦れる音が雨音に混じる。騎士隊長代理の男が剣の柄に手をかけ、ヒカルを見下ろしている。
レヴィアの爪が岩に食い込んだ。
——今すぐ降りて、全員焼き払えば済む。
だが、動けなかった。ここで竜化すれば古王に所在が知られる。1,600の同胞が危険に晒される。シエルが6年かけて構築した情報網が崩壊する。頭ではわかっている。
わかっている。
騎士隊長代理の男の声が、風に乗って届いた。
『貴様の才能は妬まれ、貴様の優しさこそが嘲笑されたのだ』
レヴィアの全身が震えた。怒りではない。悲しみだ。あの人の優しさを嘲笑う世界が、どうしようもなく悲しかった。
あの優しさに救われたのは、我なのに……。
『貴様には、死をもって償ってもらう』
騎士が剣を振り上げた瞬間、レヴィアの身体が動きかけた。だがその刹那——
ヒカルの腕の中から、小さな影が飛び出した。リリア・シャイニングだ。
レヴィアは、シエルの報告書でその名を知っていた。ヒカル・クレイヴの幼馴染にして専属メイド。教団内部で唯一、最後までヒカルを裏切らなかった人間。
その小さな身体が、騎士団の群れに斬りかかっていく。
『貴方の目指した世界は間違いなんかじゃありません!』
雨の中に響いた叫びは、レヴィアの胸を貫いた。
——この娘は。
剣が折れた。騎士たちが嘲笑う。それでもリリアは立ち上がり、最も近くの騎士に抱きついた。
レヴィアは、その瞬間に全てを理解した。
——まさか。
リリアが一瞬だけヒカルを振り返った。小さく、笑った。
そして、騎士を道連れに、崖から身を投げた。
『ヒカル様、生きて——』
最後の言葉は、雨と風に千切れて消えた。
レヴィアの視界が歪んだ。
それは涙だった。
竜姫は泣かない。6年間、一度も泣かなかった。シエルの冷徹な計算を聞いても、フレアの厳しい訓練で身体が砕けても、あの人に会えない夜が何百回続いても、泣かなかった。
だが今、涙が止まらなかった。
あの小さなメイドは、命を捨てた。ヒカルのために。竜の力も、魔法も、何も持たない人間の少女が、ただ愛だけで、崖から飛んだ。
——我は12年も待ったのに、あの娘は一瞬で命を差し出した。
レヴィアの拳が震えた。
——敵わぬ。あの覚悟には、竜姫の矜持をもってしても、敵わぬ。
崖の下で、ヒカルが崩れ落ちるのが見えた。膝から力が抜け、雨に打たれながら、動かなくなった。
騎士隊長代理の男が、再び剣を構える。
『さあ、貴様も終わりだ』
ヒカルは抵抗しなかった。目を閉じ、死を受け入れようとしていた。
——ヒカル。
レヴィアの中で、何かが砕けた。
計算も、計画も、同胞の命も、古王の脅威も——全てが、どうでもよくなった。
いや、違う。どうでもよくなったのではない。
この瞬間、あの人を見殺しにして守れる未来など、我にはいらぬ。
レヴィアは涙を拭わなかった。拭う必要がなかった。次の瞬間には、涙ごと蒸発するのだから。
「——リリアとやら」
レヴィアは呟いた。崖下に消えた小さなメイドへ向けて。
「お前の覚悟、我が継ぐ。この男は、我の命に代えても守り抜く。——それが、お前への手向けだわ」
全身の鱗が発光した。人型の皮膚が裂け、内側から灼熱の光が溢れ出す。
レヴィアは翼を広げ、断崖へと身を投じた。
雨が蒸発した。暗雲が裂けた。月光が一本の柱となって断崖に降り注いだ。
紅蓮の炎竜が、ヒカルの前に降り立った。
レヴィアは騎士たちを一瞥した。ヒカルを追い詰め、嘲笑い、剣を振り上げた者たち。12年前、あの優しい少年の手から水を受け取った竜姫にとって、彼らは塵にすら値しなかった。
有無を言わさず彼女はブレスを放った。一瞬で、断崖の騎士団は灰燼と化した。
あえて一人だけ生かした。意図的に、だ。あの下級騎士が震えながら逃げていくのを、竜の瞳で見届けた。
——世界に伝えよ。この男に手を出せば、何が起こるかを。
レヴィアが人型に戻る。炎の粒子が収束し、紅い髪と金の瞳が月光の下に現れる。
ヒカルが、その目の前にいた。
12年ぶりの、再会。
——ああ。
やっと、会えた。
ヒカルの目に光がない。絶望と虚無だけが、そこにあった。レヴィアの胸が痛んだ。本当は、ただ抱きしめたかった。「会いたかった」と、それだけ言いたかった。
だが、今のヒカルに必要なのは、優しさではない。
この世界で生きる理由なのだ。
レヴィアは竜姫の面を被った。12年の想いを全て呑み込み、傲慢で圧倒的な炎の姫として、ヒカルの顔を持ち上げた。
「我が名は、紅蓮の激情竜姫レヴィア、レヴィア・フレイムハート」
声は震えなかった。震えさせなかった。
「我の夫となれ。そして、我ら六龍の王となれ。さすれば、お前を二度と、あんな醜い人間たちに裏切らせない」
唇を奪った。強制契約の魔力がヒカルに流れ込む。
その瞬間、「絆の共感者」の回路が開き、ヒカルの感情がレヴィアに逆流してきた。
絶望。虚無。リリアを失った慟哭。自分は何も守れなかったという、底なしの自己否定。
——こんなにも、壊れておったのか。
レヴィアの目の奥が熱くなる。だが涙は流さない。もう流した。あのメイドが崖から飛んだ時に、竜姫としての最後の涙は使い果たした。
ここからは、守る番だ。
ヒカルの意識が途絶えた。契約の衝撃に、限界を超えていた身体が耐えきれなかったのだ。崩れ落ちるヒカルを抱きとめ、ゆっくりと地面に降ろす。
右腕に巻かれた赤い布が目に入った。
12年前、洞窟で彼が彼女に渡したもの。ボロボロだった。何度も洗い、何度も巻き直した跡がある。意味も知らぬまま、10年間以上、捨てずに持ち続けていた。だが、そのことをヒカルは完全には理解できなかった。記憶が混濁しているのだ。
指先で赤い布にそっと触れた。
「……馬鹿者め」
声が、少しだけ震えた。
レヴィアはヒカルを抱え上げ、炎の翼を広げた。東の空がわずかに白み始めている。古城の方角に、フレアと手勢30名が待っている。
飛び立つ直前、一度だけ崖の縁を振り返った。リリアが落ちていった、あの闇の底を。
「——待っておれ。お前が守った命、我が必ず花開かせる」
レヴィアは翼に力を込め、夜明けの空へ駆け上がった。
腕の中のヒカルの体温は微かだったが、確かにそこにあった。12年間追い求めた温もりが、やっと、ここにある。
古城が近づいてくる。新しい朝が、始まろうとしていた。
── Erta Chronicle Prelude「断罪のプレリュード」完 ──
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