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第二十三話:死の宣告と、リリアの決意

 人間界。教団本部、地下独房。


 石壁に染み込んだ湿気が、鉄格子の向こうから冷たい空気を運んでくる。


 ヒカル・クレイヴ(18歳)は、壁に鎖で繋がれたまま、目を開けていた。眠れないのではない。眠る意味を見失っていた。


 拘束されてから3日が経っていた。


 軍法会議は開かれなかった。弁明の機会も与えられなかった。教団の上層部はカインが捏造した証拠を精査するまでもなく、「大逆罪人ヒカル・クレイヴ」の処分を決定した。形式的な裁判すら不要だと判断されたのだ。それほどまでに、教団はヒカルを排除したがっていた。


 竜を殺さない軍師。教団にとって、それは存在してはならない矛盾だった。


 独房の天井を見つめながら、ヒカルは思考を巡らせていた。だが、いつもの冷静な分析は機能しなかった。代わりに浮かぶのは、1つの問いだけだった。


(——俺が信じてきた正義とは、一体何だったのか)


 犠牲を出さない作戦。誰も死なせない戦術。それを10年間追い求めてきた。味方のためにも、竜のためにも。だがその結果がこれだ。内通者の汚名。家族の破滅。独房の鎖。


 身体の痛みは耐えられた。拘束時に受けた打撲も、食事を与えられない空腹も。だが、人間という種族そのものへの失望が、ヒカルの魂を削っていた。


 信じた道は間違いだったのか。優しさは、この世界ではただの弱さなのか。


 鉄格子の向こうから、足音が近づいてきた。

 松明の光が揺れ、カインの顔が闇の中に浮かぶ。


「眠れないか、ヒカル」


 かつての師の声。だがそこに温もりはなかった。


「……何の用だ」

「伝えに来た。明日の夜明け前、お前の処刑を執行する」


 ヒカルの表情は変わらなかった。予想していた。


「軍法会議は?」

「そんなもの不要だ。お前の罪は明白だからな。——民衆に知られると厄介でね。英雄を処刑したとなれば、教団への信頼が揺らぐ。だから、秘密裏に処理する。お前は脱走中に事故死した、ということになる」


 カインは鉄格子に手をかけ、ヒカルの顔を覗き込んだ。


「最後に1つ聞いてやろう。後悔しているか? 竜を殺さなかったことを」


 ヒカルは沈黙した。




 長い間。



 そして、静かに答えた。


「……していない」


 カインの目が細まった。


「そうか。ならば、その信念と共に死ぬがよい。誰にも知られず、誰にも悼まれず」


 足音が遠ざかっていく。松明の光が消え、独房に闇が戻った。


 ヒカルは鎖に繋がれたまま、目を閉じた。


 脳裏に浮かぶのは——赤い色。10年間消えなかった、あの残像。


(……結局、最後まで分からなかったな。お前が、誰なのか)





 廊下を歩くカインの口元に、薄い笑みが浮かんでいた。


(さて、あのメイドが動くか……)


 カインは3日前から、リリアの行動を把握していた。監視下に置きながら、わざと隙を作った。執務室の鍵の管理をわずかに緩め、移送計画書を机の引き出しに「置き忘れた」。


 独房でヒカルを殺せば、それで終わる。だがそれでは足りない。


(脱走未遂中の事故死。それが最も都合がいい。逃げようとして死んだ裏切り者——民衆もそれなら納得する)


 リリアがヒカルを連れ出し、山道で追い詰め、2人まとめて始末する。英雄の死に同情する者が出ないよう、「逃亡中の抵抗」という名目をつける。完璧な筋書きだった。


 カインが計算していなかったものは、1つだけあった。

 だがそれは、人間の想像力の外にある存在だった。





 教団本部、士官街区。

 深夜。


 リリア・シャイニングは、闇の中を走っていた。


 明るい亜麻色のショートカット。小柄で華奢な体躯。メイド服の下に暗器を隠した、ヒカルの幼馴染にして専属メイド。教団の中で、ヒカルの無実を信じる最後の1人。


 ヒカルが拘束された日、リリアも監視下に置かれた。大逆罪人の従者として、行動を制限された。だがリリアは3日間、従順な振りをしながら、カインの動向を観察し続けていた。


 今夜、カインが独房に向かったのを確認した。処刑の宣告に行ったのだと、すぐに分かった。


 残された時間は、夜明けまで。


 リリアはメイドとしての立場を利用し、士官街区の裏口からカインの執務室に忍び込んだ。合鍵は3日前に作ってある。カインの机の引き出しから、ヒカルの移送計画書を見つけるまでに、2分もかからなかった。


(——簡単すぎる)


 リリアの指先が、一瞬だけ止まった。カインほどの男が、こんな杜撰な管理をするだろうか。罠かもしれない。だが、罠であろうとなかろうと、他に手段はなかった。


 移送ルート。時間。護衛の人数。

 すべてが記されている。


(罠なら罠で構いません。ヒカル様を助けられるなら、私の命ごと使い潰せばいい)


 リリアは計画書を懐に入れ、窓から外に出た。

 屋根を伝い、街区の外壁を越え、教団の敷地を抜ける。メイド服の下の暗器が、月明かりに鈍く光った。


 走りながら、リリアは10年前のことを思い出していた。


 あの日、8歳のヒカルが、境界の村で傷ついた竜の少女に水と薬草を渡した。リリアはそれを見ていた。ヒカルのすぐ傍で、ずっと見ていた。


 あの優しさが、ヒカルを天才軍師にした。竜を殺せない戦術を生んだ。そして——その優しさが、今、ヒカルを殺そうとしている。


(ヒカル様。あの日、貴方が竜の少女を助けたこと、私は知っています。あの優しさが貴方を追い詰めたことも。——でも、貴方は間違っていない。間違っていないから、私は——)


 リリアは走り続けた。


(今度は私が、貴方をこの地獄から救い出します)





 竜の国、北方。

 氷の隠れ里。


 シエル(24歳)の情報室に、ゼファーからの続報が届いていた。


「処刑は明日の夜明け前。秘密裏に執行。移送中に事故死として処理する計画」


 シエルは眼鏡を押し上げ、アクアを見た。


「アクア様。予測より早い。——しかし、動いている駒があります」

「駒?」

「ヒカルの幼馴染のメイド、リリア・シャイニング。彼女が独自に動き始めました。カインの執務室に侵入し、移送計画を盗んだ形跡があります。ゼファーの傭兵ネットワークが捕捉しました」


 アクアの眉が微かに上がった。


「人間の、メイドが?」

「はい。彼女は戦闘訓練を受けています。ヒカルを移送中に奪還し、逃亡する計画と推測されます。——成功する可能性は低い。ですが、彼女がヒカルを連れ出しさえすれば、そこから先は我々が拾える」


 シエルは氷壁の地図に指を走らせた。


「移送ルートから逃亡した場合、山道を経て断崖方面へ向かう可能性が高い。そこがレヴィア様の待機地点になります」


 アクアは腕を組んだ。


「レヴィアに伝えなさい」

「はい。——ただし、アクア様」


 シエルの声が、わずかに低くなった。


「古王の監視が強化されています。我々が動けば感知される。他の姉妹たちも同様です。テラ、ルーナ、セフィラ——誰も援護に向かえません」

「分かっているわ」

「つまり、この作戦はレヴィア様1人で行うことになります。成功しても失敗しても、他の姉妹との連携はない。完全な独断行動です」


 アクアは目を閉じた。


 6年間の計画。2,000を超える兵力。すべてを賭けた挙兵の前夜に、妹が単独で人間界に飛び込む。失敗すれば、レヴィアだけでなく、全軍の存在が露見する可能性がある。


 だが——ヒカルが死ねば、シエルの分析した「触媒」は永遠に失われる。


「……やりなさい、シエル」

「了解しました」


 シエルが風の結晶に暗号を刻み、南方へ飛ばした。


 南方から境界域へ。レヴィアが古城に到着したのは、フレアを振り切ってから2日後のことだった。


 山脈の奥深く、かつて竜族が使っていた廃墟の城。崩れかけた城壁と、苔むした石畳。だがレヴィアの炎の旗を掲げると、境界域に散っていた炎属性の兵士たちが1人、また1人と集まってきた。30名あまり。フレアが6年かけて南方で集めた兵の中から、境界域に配置されていた者たちだった。


 シエルの風の結晶が届いたのは、その夜だった。


 暗号を読み解くレヴィアの手が震えていた。


「明日の夜明け前。ヒカルが移送される。リリアという人間のメイドが奪還を試みる。——レヴィア、貴女は山道の断崖で待機しなさい。リリアが彼を連れ出した先で、貴女が拾う。この作戦は貴女1人の独断として行います。他の姉妹は動けない。援護はない」


 最後の一文が、レヴィアの胸を貫いた。


「彼を、本当の意味で救えるのは、貴女だけです」


 レヴィアは右腕の赤い布を握りしめた。


 とくん。とくん。弱い鼓動。ヒカルの命が消えかけている。


「——行く」


 迷いはなかった。


 古城の兵士たちに防衛の指示を残し、レヴィアは単身、人間界の山道へ向かって翼を広げた。




 ◇◆◇◆◇


 南方、火山洞窟。


 フレアは姫が飛び出してから2日間、ただ待つことはしなかった。


 残された兵力を整理し、移動可能な精鋭を選別した。洞窟の拠点を信頼できる副官に託し、自らは古城を目指して出発する準備を整えた。


(レヴィア様は必ずあの人間を連れて戻る。その時に、姫を守る剣がなければならない)


 怒りは消えていなかった。あの人間のせいで姫が無茶をしている。だが、感情で足を止めるわけにはいかない。


 フレアは剣を腰に佩き、夜の闇に踏み出した。


(俺の仕事は変わらない。半歩後ろで、姫を守る。——たとえその隣に、あの男がいたとしても)


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