第二十話:シエルの鑑定、偽りの誓約
氷の隠れ里、情報室。
アクア(23歳)が部屋に入ると、シエルは既に壁一面に資料を貼り出していた。ヒカル・クレイヴの作戦記録、教団の組織図、人物相関図。そして中央に赤い糸で繋がれた1枚の紙——レヴィアからの報告書。
「結論から申し上げます」
シエルは前置きなく切り出した。
「ヒカルという人間は、ただの人間ではありません」
アクアが壁にもたれ、腕を組んだ。銀色に近い淡い水色のロングヘアが、氷の壁に溶け込むように垂れている。
「彼は教団最高の戦術家でありながら、竜を殺せない。これは記憶消去の副作用ではなく、本質です。記憶を消す前から、彼にはこの素養があった。レヴィア様の幼少期の記録を照合すると、ヒカルが8歳の時点で竜族に対する共感能力が異常に高い。人間でありながら竜との共存を本能的に志向する個体——これは、過去400年の教団記録に存在しない特異例です」
シエルは立ち上がり、壁に貼られた世界地図を指差した。
「古王の支配体制は、竜と人間の分断の上に成り立っています。教団は竜を狩り、古王は竜を支配する。この2つの力が均衡している限り、我々は勝てない。しかし——もしも竜と人間の間に立てる存在がいたら。両方の信頼を得られる『触媒』がいたら」
シエルの碧眼がアクアを射抜いた。
「ヒカルは、我々が失った『調和』を再構築できる、唯一の触媒です。彼を竜の側に引き込むことができれば、戦局は根底から覆る……」
アクアは腕を組んだまま、静かに問うた。
「引き込む方法はあるの?」
「教団は遅かれ早かれ、ヒカルを排斥します。竜を殺せない軍師は、教団にとって異物でしかない。カインという上官が既に動き始めている形跡があります。ヒカルが教団から追放され、絶望のどん底に叩き落とされる瞬間——それが、彼を『竜の王』として迎え入れる最高の機会です」
「待つ、ということ?」
「待ちます。そして——その瞬間に、レヴィア様を送り込みます。ヒカルの記憶に赤い残像が残っている限り、レヴィア様は彼にとって最も強い引力になる。計算上、成功率は——」
シエルは眼鏡の奥で、わずかに笑った。
「——89%です」
3日後。念話ではなく、直接の対面。
レヴィアが氷の隠れ里を訪れていた。本来なら危険な移動だが、来年の挙兵を前に、最終的な戦略合意が必要だった。フレアが護衛として同行している。
氷壁の会議室で、シエルが分析結果を説明した。レヴィアは黙って聞いていた。「触媒」という言葉が出るまでは。
「——触媒?」
レヴィアの声が低くなった。
「シエル。ヒカルは道具じゃない!!!!」
「道具とは申しておりません。しかし戦略的に——」
「利用する、と言ったのよ! 今、あなたは!!」
「レヴィア様。感情と戦略は——」
「そんなこと分かってる!!」
レヴィアが立ち上がった。金色の瞳に炎が揺れている。右腕の赤い布が脈打ち、彼女の怒りに呼応するように熱を帯びた。
「分かってるわ、シエル。あの人を助けることと、あの人の力を借りることは矛盾しない。あなたの計算が正しいことも。——でも」
声が震えた。
「『絶望のどん底に叩き落とされる瞬間を待つ』って、あなたは今、そう言ったのよ。あの人が苦しむのを待てと……」
沈黙が落ちた。
シエルは表情を変えなかった。アクアが壁から背を離し、妹の前に立った。
「レヴィア」
姉の声は冷たかった。だがその冷たさの奥に、6年間凍らせ続けた何かが軋む音がした。
「愛しているなら——彼をこちらの世界に引きずり込みなさい」
「姉様——」
「教団にいる限り、彼は竜を殺す側にいる。今はまだ殺していなくても、いつか殺さざるを得ない日が来る。その日が来る前に——彼を救えるのは、あなただけよ」
アクアの銀色の瞳が、妹を見つめていた。
「それが彼を教団の毒から救う、唯一の方法。——私は冷酷に聞こえるかもしれないけれど、レヴィア、これは事実よ」
レヴィアは拳を握りしめていた。爪が掌に食い込み、血が滲む。
(私は、あの人を助けに行くの。利用しに行くんじゃない)
(でも——結果的に、同じことになるんじゃないの?)
(違う。違うわ。私は——)
レヴィアは右腕の布を握りしめた。とくん、とくん。遠い人間界で、ヒカルが生きている。
「……分かった」
声は静かだった。
「シエルの計画に乗る。ヒカルが教団を追われる時——私が、迎えに行く」
シエルが頷いた。アクアが目を伏せた。フレアは壁際で、主の選択を黙って見守っていた。
レヴィアは布を胸に押し当てた。
「……ヒカル、待ってて。……すぐ、助けに行くから」
誓い。偽りなのか、本心なのか。たぶん、両方だった。
会議室を出た廊下で、レヴィアは不意に足を止めた。振り返ると、アクアが数歩後ろに立っていた。
「姉様。1つだけ言っておくわ」
「何?」
レヴィアの頬がわずかに赤くなった。氷の隠れ里の冷気のせいではない。
「ヒカルに会ったら、姉様も絶対惚れるわよ。あの人は——そういう人だから」
アクアが目を瞬いた。6年間凍らせてきた表情に、珍しく困惑が浮かんだ。
「……何を言っているの」
「事実を言ってるの。だから先に宣言しておく」
レヴィアは胸を張った。金色の瞳に、戦略会議の時とはまるで違う炎が灯っている。
「あの人は私のよ。姉様には渡さないからね」
……沈黙。
氷壁に反射するレヴィアの紅蓮の髪が、揺れている。頬は赤い。目は本気だった。
アクアは3秒ほど妹を見つめ、それから氷のように静かに答えた。
「……馬鹿なことを言わないで。私が人間の男に惚れるわけがないでしょう」
「あ、それフラグだからね。絶対そうなるから。覚えておいて」
「なりません!」
「なるわ!!」
「なりません! ——部屋に戻りなさい、レヴィア!!」
アクアが背を向けた。足早に廊下を歩いていく。その歩調がいつもより速いのは、動揺しているからではない。断じて。
レヴィアはその背中を見送りながら、6年ぶりに——ほんの少しだけ、笑った。
口元を手で隠した。笑い方を忘れかけていたことに気づいて、少しだけ驚いた。
(——ヒカル。あなたのせいよ。あなたのことを考えると、私、まだ笑えるみたい)
右腕の布がとくん、と温かく脈打った。
フレアは廊下の端で直立していた。主の笑顔を見た。6年間、1度も見なかったものだった。
何も言わなかった。何も言う必要がなかった。
ただ、剣を持つ右手に少しだけ力が入った。この笑顔を守るために自分はいる。6年前に片膝をついて誓った言葉は、今も変わらない。
レヴィアが歩き出す。フレアは半歩後ろについた。いつも通り。6年間、ずっとそうしてきたように。
◆
会議室に残ったアクアは、氷壁に額を当てていた。
「……シエル」
「はい」
「89%と言ったわね。——残りの11%は?」
「ヒカルが、レヴィア様を拒絶する可能性です。記憶がないまま、赤い残像の正体を恐怖として認識した場合——」
「その場合は?」
「……計算外です」
アクアは氷壁に額を押し当てたまま、目を閉じた。冷たい。6年間、この冷たさだけが自分を保ってきた。
「計算外、か。——レヴィアが壊れるわね」
「はい」
「……私も、かもしれないけど」
最後の呟きは、シエルにも聞こえなかった。
——そして。
アクアの脳裏に、妹の赤い頬がちらついた。馬鹿馬鹿しい。人間の男に惚れるなど、あり得ない。
あり得ない、はずだった。
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