第十九話:頭角を現す神童
人間界。教団本部。
17歳のヒカル・クレイヴは、作戦指揮室の長卓に広げられた戦況図を見下ろしていた。
周囲には教団の幹部たちが並んでいる。40代、50代の歴戦の指揮官たち。その中央に立つ17歳の少年は、異質だった。茶色の髪は短く整えられ、感情の読めない瞳が地図上の駒を見つめている。端正な顔立ちに表情はない。教団が10年かけて鍛え上げた、完璧な戦争機械。
「第7竜巣の掃討作戦、報告します」
ヒカルの声は淡々としていた。
「北東から陽動を仕掛け、巣の守備隊を外縁に引き出しました。本隊は南の地下水脈を通って巣の核に到達。竜卵の回収と巣の無力化を完了。戦闘時間は2時間14分。味方の損耗は——0です」
沈黙が落ちた。
「……0?」
幹部の1人が眉を寄せた。
「負傷者3名。いずれも軽傷。死者、重傷者ともに0。竜側の死者も——0です」
ざわめきが広がった。竜の巣を制圧して竜を1体も殺さない。それは作戦の成功ではなく、教団の教義に対する冒涜だった。
「クレイヴ特別軍師候補。竜の殲滅が作戦目標に含まれていたはずだが!?」
「殲滅は非効率です。巣の無力化と竜卵の確保が戦略目標であり、守備隊の排除は必要条件ではありません。包囲殲滅に切り替えた場合、味方の損耗は推定12名。得られる成果は同一。12の命を消費して同じ結果を得る合理性がありません」
理屈は完璧だった。反論の余地がない。だからこそ、幹部たちの不快感は増した。
ヒカルの作戦は常にこうだった。無駄がない。犠牲を最小限に抑える。味方にも——そして竜にも。その「竜への配慮」を感じさせる戦術が、教団の中で不穏な空気を生んでいた。
会議が終わり、ヒカルが廊下を歩いていると、背後から声がかかった。
「今回も見事な作戦と結果だったな、ヒカル」
振り返ると、カインが壁にもたれて立っていた。30代半ばの長身の男。教団の上級指揮官であり、ヒカルの師でもある。かつてはヒカルの才能を見出し、育てた恩人だった。
「ありがとうございます、カイン教官」
「ただ——少し気になることがある」
カインの目が細まった。
「お前の作戦には、いつも『逃げ道』がある。竜のための逃げ道だ。巣の南側に封鎖線を敷かなかっただろう。あれは意図的か」
ヒカルの表情は変わらなかった。
「封鎖線の設営には8名の追加配置が必要です。陽動部隊の兵力を削ることになり、作戦全体のリスクが——」
「……もういい」
カインが手を挙げて遮った。微笑みを浮かべている。だがその目は笑っていなかった。
「お前は教団の宝だよ、ヒカル。最年少の特別軍師候補。歴史に残る天才。——だが、宝は宝箱に収まっているうちが美しい。箱から出て勝手に歩き始めたら、それはもう宝じゃない」
ヒカルは答えなかった。
カインが去った後、ヒカルは廊下の窓から外を見た。灰色の空。教団の訓練場では、若い兵士たちが竜型の標的を槍で突いている。歓声が上がるたびに、ヒカルの胸の奥で何かが軋んだ。
——なぜ、竜を殺せないのか。
記憶にはない。理由は分からない。ただ、竜を前にすると指が止まる。殺意が霧散する。代わりに浮かぶのは——赤い色。燃えるような赤。髪の色か、炎の色か、それすらも判別できない曖昧な残像。
ヒカルは目を閉じ、その残像を振り払った。
振り払えなかった。10年間、1度も。
同じ頃。
竜の国、北方。氷の隠れ里。
シエル(24歳)は、氷壁に囲まれた情報室で書類の山に埋もれていた。短い黒髪の下の碧眼には分厚い眼鏡がかかり、その奥の瞳は氷よりも冷たい光を帯びている。
目の前に広げられているのは、1人の人間に関する膨大な記録だった。
「ヒカル・クレイヴ。17歳。教団特別軍師候補。過去3年間の作戦参加38回。作戦成功率100%。味方死者——累計0」
シエルはペンを止め、膨大な紙束の中から1枚を抜き出した。レヴィアから届いた最新の報告書。赤い布を通じて感知したヒカルの鼓動データが、驚くほど細かい字で綴られている。
「……また増えている」
分量が、ではない。精度が、だ。鼓動の変化から推定される活動時間、ストレス反応、睡眠サイクル。月を追うごとに、レヴィアの観察は異常なほど精密になっていく。
シエルは眼鏡を押し上げ、隣室にいるアクアに声をかけた。
「アクア様。分析が完了しました。——お時間をいただけますか」
氷壁の向こうから、静かな足音が近づいてきた。
◆
同じ夜。
南方の火山洞窟。
レヴィア(20歳)は鍛錬を終え、岩壁にもたれていた。右腕の赤い布に左手を重ねる。
とくん。とくん。
遠い人間界で、ヒカルが生きている。だが今夜の鼓動は、いつもと違った。速い。わずかに乱れている。何かがあったのだ。
レヴィアは布を握りしめた。
(——何があったの、ヒカル)
答えは返ってこない。この布は一方通行だ。彼の鼓動は届くが、こちらの声は届かない。10年間、ずっとそうだった。
とくん。とくん。速い。乱れている。まるで何かに追い詰められているような鼓動。
レヴィアは立ち上がりかけた。身体が先に動いた。今すぐ人間界に渡って、あの人の元に——
足が止まった。
(——駄目よ。今、動いたら全部壊れる)
6年かけて集めた兵力。シエルが張り巡らせた情報網。アクア姉様が凍りながら守ってきた隠れ里。テラとガイアが結界の中で育てた戦力。ゼファーとセフィラが荒野で繋いだ連絡線。ルーナとアウラが地下教会で鍛えた支援部隊。
1,600を超える命が、レヴィアの判断にかかっている。
感情で動けば、すべてが水泡に帰す。古王の感知網に引っかかれば、6年間の沈黙が無駄になる。仲間が危険に晒される。——分かっている。分かっているのに。
とくん。とくん。鼓動が、まだ乱れている。
レヴィアは壁に拳を叩きつけた。岩が砕け、溶岩の飛沫が散る。
「……っ」
拳から血が滴った。痛みで、頭が少しだけ冷える。
(私は指揮官よ。1,600の命を預かっている。あの人1人のために、全員を危険に晒すことはできない)
(でも——あの人を見殺しにして、何のための挙兵なの)
(違う。見殺しにするんじゃない。時機を待つの。シエルの分析通り、教団がヒカルを追い出す瞬間に動く。それが最も確実で、最も多くの命を救える方法)
(本当に? それは戦略なの? それとも、動けない自分への言い訳なの?)
答えは出なかった。
レヴィアは血の滲む拳で、右腕の布をそっと握った。鼓動は少しずつ落ち着いてきている。何があったのかは分からない。だが、まだ生きている。それだけは確かだ。
「……待ってて、ヒカル。もう少しだけ」
同じ言葉。毎晩繰り返してきた言葉。だが今夜のそれは、祈りでも独り言でもなかった。
自分自身を、繋ぎ止めるための鎖だった。
動くな。まだ動くな。あと少しだけ——耐えろ。
闇の中で、紅い布だけが脈打っていた。
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