第十八話:研がれる爪、五つの牙
6年目の冬が来た。
古王が捜索を縮小して2年。シエルの情報迷彩は完璧に機能し、六龍姫は「伝説」として風化しつつあった。古王の治世は安定期に入り、帝国からの搾取と精神汚染による支配体制は、もはや日常と化していた。
だが「伝説」は、地の底で爪を研いでいた。
東方領、地下聖域。
エレクトが命と引き換えに封じた結界の内側で、ガイアは汗を拭った。目の前には20人ほどの若い竜人たちが、土属性の基礎鍛錬を終えて荒い息をついている。
「今日はここまでだ。明日は実戦形式でやる。遅刻した奴は俺が直接叩き起こすからそのつもりでいろ」
1番前列にいた茶色のセミロングの少女——テラナが、編み込みに飾った緑の小花を揺らしながら手を挙げた。
「ガイア教官。実戦形式というのは、対人ですか、対獣ですか?」
「対人だ。お前たちが戦う相手は獣じゃない。古王の兵だ」
テラナが頷いた。しっかりとした体格の彼女は、結界に逃げ込んできた土属性の名家の娘だった。杖術の筋がいい。ガイアはこの6年で、こういう若い芽を1つずつ拾い集めてきた。
結界の奥から、テラ(18歳)が食事の盆を運んできた。
「ガイア、みんなにお昼。テラナも食べて」
「ありがとうございます、テラ様!」
テラは盆を置きながら、訓練場を見渡した。膝を抱えていた日々は終わっていた。長い閉じこもりから、1年。ガイアの不器用な優しさと、結界に集まってきた若い兵士たちの姿が、テラを少しずつ変えた。姉の死を受け入れたわけではない。あの音はまだ聞こえる。だがテラは立ち上がることを選んだ。姉が時間を稼いでくれたのだから、その時間を無駄にはしない、と。
「ガイア。姉様の壁、まだ立ってる?」
「ああ。古王の工兵が何度削っても、核が再生する。エレクトの魔力はまだ生きている」
6年前は2人だけだった聖域に、今は480を超える竜人がいた。全員が、エレクトの石像を越えてきた者たちだ。あの壁を見て、なお戦う意志を持った者だけが、ここにいる。
◇◆◇◆◇
南方、火山地帯の洞窟群。
「レヴィア様。今月の合流者、7名です」
フレア(25歳)が洞窟の入口から報告した。左腕は肘から先がない。6年前の脱出戦で失った。だが残った右腕1本で振るう炎の剣は、かつてと変わらぬ鋭さを持っている。
「内訳は?」
「南方の元哨戒兵が2名。東方からの脱走兵が3名。あとは——炎属性の商家の娘が2人。1人は剣が使えます。赤い髪をサイドテールにした子で、フェンリアと名乗っています。短剣の腕は悪くない」
20歳のレヴィアは岩壁にもたれて報告を聞いていた。6年前に洞窟に潜った時の15歳の少女は、もうどこにもいない。鍛え上げられた身体。燃えるような紅蓮の巻き髪。金色の瞳には、静かな炎が宿っている。
「何人になった?」
「戦闘可能が203。非戦闘の補給・鍛冶・医療が105。合計308」
6年かけて、308。古王の正規軍数万には遠く及ばない。だがゼロから始めて、ここまで来た。
「フレア。冬至まであと3日ね」
「はい。——念話の日です」
冬至の夜。
レヴィアは洞窟の最深部で目を閉じた。6回目の交信。毎年、繋がる。毎年、全員が生きている。それだけで十分だと思っていた。だが今年は違う。今年で、終わりにする。
最初に繋がったのはアクアだった。
『——レヴィア。生きているわね?』
『アクア姉様。そっちは?』
『シエルの情報網は過去最大規模よ。協力者リスト487名。ただうち戦闘可能が161だけ。……それと、ヴァルキリア姉様の軍が先月、西方の集落を3つ焼いた。生存者はシエルが回収したけど、60人以上が精神汚染された』
レヴィアの拳が握りしめられた。
ヴァルキリア。かつての長姉。闇の将軍。——裏切り者。
なぜ古王についたのか。エレクト姉様を、ゼニス兄様を、ミラ姉様を殺した側に、なぜ。レヴィアには分からない。分かりたくもなかった。
『……いつか、あの人にも決着をつける』
『ええ。でも今じゃない。——で、今年は何を隠しているの?』
アクアの声には、前年にない鋭さがあった。レヴィアは一瞬だけ迷い、答えた。
『——動く。来年、動く。6年待った。もう十分よ』
沈黙。それから、アクアの息が1つ。
『……了解。こちらも準備を上げる』
続いてテラ。
『レヴィア姉様、アクア姉様。東方、480名。ガイアが鍛えてくれてる。結界はまだ持ってる。——私も、もう大丈夫。立てるようになった』
『テラ。エレクト姉様の壁は?』
『……まだ、立ってる。姉様はまだ、守ってくれてる』
短い沈黙。誰もがエレクトの最期を思い出していた。
風のノイズが混じり、ゼファーの声が届いた。
『こちら境界域。セフィラは元気だ、安心しろ。——戦力は傭兵経由で190。正規兵じゃないが、実戦経験は豊富だ。各地の反古王勢力との連絡線も確保してある。使える人間は把握済みだ』
背後でセフィラ(16歳)の声がかすかに聞こえた。
『レヴィア姉様。——来年、動くのね。了解。私も笑う練習しとく』
レヴィアの胸が締めつけられた。笑う練習。6年間笑わなかった末妹が、そう言った。
最後に、ルーナ。
『——みんな、聞こえてる。私とアウラは光の地下教会にいる。信徒247名。回復術と結界術の訓練は6年目に入った。戦闘員じゃないけど、後方支援なら任せて。それと——金色の髪の子がいるの。ソルニアっていう光属性の子。箒で殴るのが得意で、ちょっと変わってるけど、気品があって優秀。アウラが目をかけてる』
19歳になったルーナの声は、前年より安定していた。壊れるのが1番早かったから慣れた——そう言った少女は、壊れたまま、それでも確かに強くなっていた。
レヴィアは心の中で数えた。
東方480。南方308。氷の里487。境界域190。光の教会247。——合計1,712。
あと1年あれば、2,000に届く。本音を言えば、できるだけ多くの兵士が欲しいのが正直なところだが、ギリギリ反旗を掲げられる人数。姫たちが動けばきっと中立派の多くの竜たちも動くはずだ。
『全員、聞いて。来年の冬至までに、最終準備を整えて。——取り返す。全部』
5つの声が、同時に返した。
『了解』
念話が途切れた。魔力の残滓が空気に溶け、レヴィアの右腕の布が一際強く脈打った。
フレアが洞窟の入口に立っていた。声は聞こえていないが、レヴィアの表情を見れば分かる。
「どうでした?」
「——全員、生きてる。全員、牙を研いでる。来年、動く」
フレアが片膝をついた。
「お供します。どこまでも」
レヴィアは立ち上がり、洞窟の外を見た。火山の稜線の向こうに、アグニカの方角がある。母が命を燃やした場所。姉が壁になった場所。兄が風に還った場所。
「あと少し。あと少しだけ、待ってて。——必ず、全部取り返す」
◇◆◇◆◇
同じ冬至の夜。
王都アグニカ、古王の居城。
ヴァルキリア(25歳)は玉座の間の隅に立っていた。漆黒の超ロングの髪が床を掃くほど長く垂れ、血のような赤い瞳には何の感情も浮かんでいない。古王の命令を待つ、完璧な人形。紫黒のベルベットドレス風戦闘服が、蝋燭の光に鈍く光っている。
だがその足元で、小さな影が動いた。シェイド(16歳)。
闇属性の少女は、黒のフルボディスーツに身を包み、金色の瞳で玉座の間を観察していた。青みがかった黒髪のボブが、暗がりに溶ける。表向きはヴァルキリアの従者。古王にとっては、ヴァルキリアを繋ぎ止めるための鎖。
だがシェイドの金色の瞳は、6年間、1度も曇らなかった。
(——お母さん。私、ちゃんと見てるよ)
ミラが最期に言った言葉を、シェイドは1字も忘れていない。『この子を頼む……ヴァルキリア』。母は叔母に自分を託した。洗脳された叔母に。
シェイドはそれを、別の意味で受け取っていた。
——叔母様を、頼む。
この6年間、シェイドは古王の城の中で、誰よりも静かに、誰よりも深く、情報を集め続けていた。警備の交代時刻。精神汚染の術式の弱点。古王の側近たちの派閥。ギルティアが管理する財務記録の矛盾。6征竜の行動パターン。
すべてを記憶し、すべてを待っている。
いつか、外から手が伸びてくる日を。
その手を掴んだとき、内側から城を崩す。それがシェイドの、6年越しの作戦だった。
冬至の夜風が、城の窓を揺らした。遠くで、微かな魔力の波動が空気を震わせた。念話の残滓。姫たちが交信した痕跡が、かすかに届いている。
ヴァルキリアの赤い瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだ——ように見えた。
シェイドは気づいた。だが表情を変えなかった。
(——叔母様。まだ、あなたの中に何かが残ってる。ゼニス叔父様の風でも、ミラお母さんの盾でもない。あなた自身の何かが)
シェイドは闇に溶けるように一歩下がり、玉座の間を後にした。
城の廊下を歩きながら、指先で壁に触れる。闇属性の魔力で、城の構造を読み取る。6年かけて、この城のすべてを把握した。隠し通路の位置。結界の死角。精神汚染の術式が最も薄くなる時刻。
あとは——外から来る手を、待つだけ。
(来年。あの子たちが動くなら、きっと来年だ。特にレヴィア様は、待てない子だから)
シェイドは暗い廊下で、母に似た微かな笑みを浮かべた。
闇の中で、最も小さな光が、最も深い場所で灯り続けていた。
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