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第十七話:大いなる沈黙、隔絶の歳月

 さらに4年が過ぎた。


 古王の治世は5年目に入り、竜の国はもはや「竜の国」とは呼ばれなくなっていた。「断罪の地」——民はそう呼んだ。帝国の属国として搾取され、精神汚染で意思を奪われた兵士たちが国内を巡回し、反抗の芽は出る前に摘み取られる。常闇の空は5年経っても晴れず、作物は痩せ、水は濁り、かつての栄華は老人たちの記憶の中にしか残っていなかった。


 六龍姫。


 その名は、もはや伝説だった。


 クーデターの夜に散り散りになった王家の姫たち。古王は即位直後こそ大規模な捜索隊を派遣したが、ことごとく空振りに終わった。ミスト・マキナの情報網も、ゲイル・チェイサーの追跡能力も、姫たちの影を掴むことができない。


 その裏で糸を引いていたのは、シエルだった。


 氷の隠れ里から発信される情報迷彩は、年を重ねるごとに精緻になっていった。偽の目撃情報を流し、捜索隊を見当違いの方向へ誘導する。姫たちの痕跡を魔導的に消去し、存在そのものを「伝説」に溶かしていく。


 23歳になったシエルの碧眼は、かつて演習場で書類を広げていた少女のものではなかった。隈の刻まれた目の奥に、氷のように研ぎ澄まされた知性だけが残っている。


 古王は4年目にして捜索を縮小した。姫たちは死んだか、あるいは脅威にならない程度に衰弱したのだろう——そう結論づけた。


 それは、誤りだった。


 竜の国の南端。火山地帯の奥深く、溶岩流が赤い血管のように大地を走る不毛の荒野。人間はおろか竜族ですら近寄らないこの灼熱の大地の、さらに奥——地殻の裂け目に隠された溶岩洞窟に、2つの気配があった。


 19歳のレヴィアは、洞窟の奥で拳を振るっていた。


 裸足。汗で張りついた紅蓮の髪。5年前に白亜の離宮で木剣を振るっていた少女の面影は、もうどこにもなかった。鍛え上げられた四肢。炎の魔力が全身を巡り、拳が空を打つたびに灼熱の衝撃波が洞窟の壁を揺らす。


「まだだ。もう100」

「……姫様。すでに今日のノルマの3倍です」


 洞窟の入口で壁に背を預けたフレアが、呆れと敬意が入り混じった声で言った。24歳の騎士は5年前より逞しくなり、顎には短い無精髭が生えている。左腕はクーデターの夜の傷が完治せず、かつてのように剣を両手で握ることはできなくなっていた。だが右腕一本で振るう炎の剣は、5年前より遥かに鋭い。


「ノルマは自分で決めるものよ。——あと100」


 レヴィアは振り返らなかった。拳を振り、蹴りを放ち、炎を纏った掌底で岩壁を砕く。砕けた岩が溶岩に落ち、橙色の飛沫を上げる。


 フレアは黙って見守った。5年間、毎日この光景を見てきた。離宮のお転婆姫は、いつの間にか戦士になっていた。だがフレアは知っている。この異常なまでの鍛錬を支えているのは、強さへの渇望ではなく——右腕に巻かれた紅い布の脈動だ。


 レヴィアが鍛錬を終え、洞窟の壁にもたれて息をついた。汗が滴り、溶岩の赤い光が濡れた肌を照らす。右腕の紅い布に左手を重ね、目を閉じる。


 とくん。とくん。


 遠い人間界で、ヒカルが生きている。18歳になったはずの少年の鼓動は、5年前より力強く、そして複雑になっていた。


「……まだ生きてる」


 呟く声は、祈りだった。



 ◇◆◇◆◇


 冬至の夜。


 レヴィアは洞窟の最奥で、両手を胸の前に合わせていた。炎の逆鱗が淡く脈動し、その光の中に意識を沈めていく。


 念話。年に一度だけ許された、姉妹たちとの接触。5年前にレヴィアが定めたルール。冬至の夜、同じ時刻に意識を開く。魔力消費を最小限に抑え、敵の感知網にかからないよう、短く、簡潔に。


 最初に繋がったのはアクアだった。


「——レヴィア。生きているわね」

「ええ。姉様も」


 氷のように澄んだ姉の念話。22歳になったアクアの声は、毎年少しずつ温度を失っていく。だがこの一年に一度の交信だけは、わずかに——ほんのわずかに、声が揺れる。


「シエルの状況分析は?」

「変わらない。正攻法では勝てない。だけど——」

「だけど?」

「あなたが何か隠してるって、シエルが言ってた」


 レヴィアは沈黙した。右腕の布を握る手に、力が入る。


「……まだ、話せる段階じゃないわ」

「そう。——無茶はしないでね」

「ふふ、姉様にだけは言われたくないのだわ」


 念話の向こうで、アクアが微かに息を漏らした。笑ったのか、溜息なのか、判別がつかない。


 続いてテラ。ルーナ。セフィラ。一人ずつ、短い交信。生存確認と、最低限の情報共有。それだけで魔力の限界が近づく。


 全員の交信が終わり、念話が途絶える。洞窟に静寂が戻る。


 レヴィアは壁にもたれたまま、天井を見上げた。溶岩の赤い光が岩の凹凸に影を作っている。


 5年。この洞窟で過ごした5年間、レヴィアの世界はフレアと、年に一度の念話と、そして——右腕の布だけだった。


 布に手を当てる。とくん、とくん。ヒカルの鼓動。18歳になった少年は今、何をしているだろう。どんな顔をしているだろう。声は変わっただろうか。あの茶色の瞳は、まだ澄んでいるだろうか。


 記憶を消した。自分がそうさせた。あの子の中から「自分」を奪った。


 その罪悪感は5年経っても消えない。むしろ年々深くなっていく。だからこそ——もう一度会いたい。会って、償いたい。償えなくても、せめてあの子が笑っていることを、この目で確かめたい。


 それは希望だろうか。執着だろうか。

 もう区別がつかなかった。


 レヴィアは布を胸に押し当て、目を閉じた。


「……待っていて。もう少しだけ」


 毎夜、同じ言葉を呟く。5年間、一日も欠かさず。


 フレアは洞窟の入口で、主のその呟きを聞いていた。聞こえない振りをしていた。5年前から、ずっと。



 ◇◆◇◆◇


 竜の国の西端。国境の荒野。


 砂塵が渦巻く乾いた大地を、2つの影が歩いていた。


 14歳のセフィラは、フードを目深に被り、腰に短剣を佩いていた。かつて王宮で兄に甘え、ゼファーの脚にしがみついていた幼子の面影はない。日に焼けた肌。風に晒されて硬くなった手。だが時折フードの下から覗く透き通った水色の瞳だけが、王族の血を裏切っていた。


 隣を歩くゼファーは23歳になっていた。茶色のポニーテールは短く切り揃えられ、かつての宝塚の男役のような華やかさは、風雨に削られた精悍さに変わっていた。白いジャケットは砂埃で灰色に汚れ、双剣の柄だけが使い込まれた艶を放っている。


 2人は国境の街で「傭兵」を名乗っていた。竜族であることを隠し、人間の商隊の護衛や、盗賊退治の仕事を請け負う。報酬は食糧と情報。金には興味がない。必要なのは、生き延びるための糧と、古王軍の動向を探るための耳だけだった。


「ゼファーちゃん。次の仕事は?」

「東の交易路で商隊が襲われてるらしい。護衛の依頼が来てる」

「受ける」


 セフィラの返答は短かった。5年前まで「ゼファーお姉様」と呼んでいた声は、硬く、乾いていた。


 ゼファーはそれ以上何も言わなかった。この子が笑わなくなって、もう4年になる。兄ゼニスの死と、王都の陥落。10歳の少女が背負うには重すぎた夜。あの夜以来、セフィラは泣くことも笑うことも止めた。


 ゼニスが最後に言った言葉を、ゼファーは忘れていない。——セフィラを頼む。


 だから隣にいる。隣にいることしかできなくても。


 ◆


 竜の国の東部。地下深くの聖域。


 母ガイアリスが遺した土の結界は、5年経ってもまだ健在だった。しかし結界の中の空気は、5年前より遥かに重い。


 16歳のテラは、結界の隅で膝を抱えていた。


 5年間、ほぼ同じ場所で、同じ姿勢で過ごしている。食事はガイアが持ってくるものを最低限だけ口にし、それ以外の時間はただ膝を抱えて座っている。


 耳を塞いでいた。


 あの音が——5年経っても、まだ聞こえる。ぱきん、と。姉が砕ける音。石に変わった指先が地面に落ちて割れる、小さく乾いた音。


「テラ様。今日は外に出ませんか。結界の外周を少しだけ——」


 25歳のガイアが声をかけた。5年前よりさらに巨大になった体躯。だがその声だけは、変わらず不器用に優しかった。


「……いい」


 テラは顔を上げなかった。


「姉様が守ってくれた命なのに、私は何もできない。何も返せない。こうして隠れているだけ」

「テラ様——」

「ガイア以外の人に会いたくない。会ったら、きっとまた誰かが私のせいで傷つく。姉様みたいに」


 ガイアは拳を握った。エレクトならこの子に何と言っただろう。頭をぽんと叩いて、「わがまま言うな」と笑っただろうか。


 だがガイアはエレクトにはなれない。5年経っても、なれない。


 ただ、そこにいることしかできなかった。


 ◆


 辺境の森。ルーナとアウラの潜伏先。


 17歳のルーナは、倒木の上に座って空を見上げていた。プラチナブロンドの髪が風に揺れ、金色の瞳が常闇の空を映している。


 隣で27歳のアウラが薬草を煎じていた。右腕と右脚は5年経っても半透明のままで、完全には再構成されていない。だがルーナの光の魔力が定期的に注がれることで、消滅だけは免れていた。


「アウラ。星が見えないね」

「ミラ様の死が生んだ常闇ですから。闇の均衡が戻らない限り——」

「知ってる。ヴァルキリア姉様が正気に戻れば、空も元に戻るかもしれないってことでしょう」


 アウラは薬草を煎じる手を止め、ルーナを見た。この5年間で、ルーナは変わった。王宮にいた頃の、どこか幼く頼りない少女ではない。年齢の割に幼い振る舞いは時折顔を出すものの、その奥に宿る知性と観察力は、アウラをして舌を巻くほどだった。


「冬至の念話、聞いた?」

「はい。全員の生存を確認しました」

「レヴィア姉様、何か隠してるよね?」


 アウラは答えなかった。ルーナは倒木から降り、アウラの隣に座った。


「私たちはバラバラだね。みんな生きてるけど、家族じゃなくなってる」


 その声は淡々としていた。悲しんでいるのではない。事実を述べているだけだった。それが——かえって痛ましかった。


「テラ姉様は閉じこもってる。セフィラは笑わなくなった。アクア姉様は感情を凍らせた。レヴィア姉様は執着に取り憑かれてる。——みんな、壊れかけてる」

「ルーナ様は?」

「私?」


 ルーナは首を傾げた。金色の瞳が、アウラを見つめる。


「私はね、アウラ。壊れるのが一番早かったから、もう慣れちゃったの」


 微笑んだ。


 それは、17歳の少女が浮かべるには、あまりに静かな笑みだった。


 ◆


 世界は、古王の重苦しい闇に覆い尽くされていた。


 六龍姫たちは生きている。だがその心は、それぞれの傷跡によってバラバラに引き裂かれていた。かつて一つだった家族の絆は、5年の沈黙と孤独の中で、風前の灯と化していた。


 それでも——紅い布は脈打ち続けている。


 火山の洞窟で、19歳のレヴィアは今夜も布に手を当てていた。遠い人間界の少年の鼓動。それだけが、この暗い世界で唯一、確かなもの。


 夜明けは、まだ遠い。


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