第十六話:古王の支配、一年後の絶望
クーデターから1年。
古王が最初に行ったのは、歴史の書き換えだった。
即位から7日目。王都アグニカの中央広場に民が集められ、古王の布告が読み上げられた。
「——先王は、宮廷内の裏切り者によって毒殺された。裏切り者どもは先王の信頼を悪用し、王妃たちをも巻き添えにした。この陰謀を事前に察知し、国を救ったのが、現王たる我である。裏切り者どもは既に捕縛・処刑済みであり、二度とこの国を脅かすことはない」
処刑されたのは、古王に反対していた旧王派の貴族たちだった。彼らは「裏切り者」の汚名を着せられ、家族ごと消された。クーデターの真実を知る者を排除し、その死体を「証拠」として利用する。1つの嘘を2つの目的に使う、古王らしい効率だった。
広場に集まった民は、黙って布告を聞いていた。
誰も信じていなかった。あの夜、王宮から立ち上った黒い炎を見た者は多い。地鳴りのような爆発を聞いた者もいる。「毒殺」で王宮が燃えるはずがない。
だが、誰も口にしなかった。布告を読み上げる兵士たちの背後に、精神汚染を施された空虚な目の元貴族たちが並んでいたからだ。逆らえばああなる。民はそれを理解した。
古王の嘘は、信じさせるためのものではなかった。沈黙させるためのものだった。
そしてそれは、完璧に機能した。
竜の国は、もはやかつての面影を留めていなかった。
王都アグニカ。白亜の城壁は黒く煤け、街路を彩っていた花壇は踏み潰されて久しい。商店の軒先には帝国製の監視魔導具が光り、住民たちは目を伏せて足早に通り過ぎる。笑い声の消えた街。子供たちの遊ぶ姿もない。
王宮の玉座の間は、別の場所になっていた。
かつて黄金の光に満ちていた広間は、今や黒と紫に塗り替えられている。壁には帝国の鷲と古王の紋章が交互に並び、窓は鉄格子で塞がれていた。ミラの死が生んだ常闇は一年経ってなお晴れず、王都には永遠の薄暮が垂れ込めている。
玉座に座る男は、もはや「王弟」ではなかった。
漆黒の全身鎧。紫の炎のようなオーラが肩から立ち昇り、棘のように歪んだ王冠が禿頭に乗っている。冷酷な灰色の瞳が、跪く臣下たちを見下ろしていた。
古王——フォールン・キング。
それが、この男が自らに与えた名だった。旧き王統を踏み潰し、新たな秩序を築く者。兄が夢見た「共存」を嘲笑い、力による絶対支配を敷く者。
「本日の粛清対象は?」
古王の声には感情がなかった。報告を聞く態度は、あの夜——兄を殺した夜と同じ、実験を観察する研究者のそれだった。
「南方の旧貴族3家が秘密裏に連絡を取り合っていました。『六龍姫の帰還を待つ』との文言が確認されております」
報告したのは諜報官の一人だった。古王は指先で玉座の肘掛けを叩きながら、感情のない目でその報告を聞いていた。
「……精神汚染にかけろ。処刑は殉教者を生む。汚染なら、忠実な兵が3家分増える」
誰に向けるでもなく呟いた言葉に、控えていた術師が一礼して退がる。
続いて進み出たのはギルティアだった。白と金の華麗な衣装に身を包んだ黄金の鑑定士。この1年で古王体制の財務を一手に掌握した執政官である。
彼女に権力への野心はない。ただ、一国の財務を意のままに采配できるという知的快楽が、彼女をこの玉座の間に繋ぎ止めていた。
「古王陛下。今期の帝国への貢納金の精算が完了いたしました。また、東方領の復興予算の配分案をお持ちしております」
「あとで目を通す。下がれ」
ギルティアは一礼して退がる。その表情には忠誠でも恐怖でもなく、仕事を終えた官僚の淡々とした満足だけが浮かんでいた。
玉座の間の影から、一つの姿が進み出た。
20歳のヴァルキリア。
闇色の長髪。蒼白い肌。かつて姪のシェイドに「闇は大切なものを守るための力」と教えた、あの慈愛に満ちた瞳は——もうどこにもなかった。虚ろな赤い瞳が、ただ古王の命令を待っている。闇の将軍。古王の最も忠実な刃。
「ヴァルキリア。南方の件、お前が行け。——逆らう者は、全て汚染にかけろ」
「……命令を受諾した」
抑揚のない声。かつての聡明さだけが残り、感情が抜き取られた器。その声を聞くたびに、玉座の間に控える古参の臣下たちは視線を逸らした。あの王女がこうなったのだと、突きつけられるのが耐えられないから。
ヴァルキリアの傍らに、小さな影が立っていた。
11歳のシェイド。青みがかった黒のボブヘアに、金色の瞳。叔母の隣で微動だにせず、表情を消している。洗脳されている——と、誰もが信じていた。
だが、その金色の瞳の奥で、少女は全てを見ていた。
古王の命令を。ギルティアの計算を。叔母の虚ろな横顔を。そして——いつか来るはずの、光の兆しを。
母ミラが命を懸けて教えてくれたことを、シェイドは一日も忘れていなかった。叔母の瞳に一瞬だけ戻った光を、あの夜に見た。あれが本当のヴァルキリアだ。必ず取り戻す。そのために——今は、従う振りをする。
1年間、11歳の少女はそれを続けていた。完璧に。
◇◆◇◆◇
水の領地、地下深く。氷の隠れ里。
永久凍土の洞窟群を利用した地下集落は、地上からは一切見えない。水の魔力で維持された氷の結界が、探知魔法のあらゆる波長を屈折させて跳ね返す。シエルが「ここなら3年は持つ」と計算した、最後の砦。
その最奥の小部屋で、19歳のシエルは壁一面に貼られた紙片を睨んでいた。
黒髪のショートボブは伸びかけて襟足にかかり、銀縁の眼鏡の奥の碧眼には常に隈が刻まれている。紺と白の制服はとうに擦り切れ、代わりに里の住民から借りた厚手の外套を羽織っていた。
壁の紙片は、1年間の情報収集の成果だった。古王軍の兵力配置。六征竜の行動パターン。帝国からの補給路。教団との連携スケジュール。
そして、その全てを統合して導き出される結論は——常に同じだった。
「……勝てない」
シエルは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
兵力差は20倍以上。質でも古王軍が上回る。六征竜の個々の戦闘力は、かつての王家の将軍級に匹敵する。さらに帝国の魔導技術が加わり、対竜兵器は日々進化している。
正面からぶつかれば全滅。奇襲を仕掛けても、ミスト・マキナの情報網に捕捉される。長期戦に持ち込めば補給が先に尽きるのはこちら。
どの角度から計算しても、「勝利」の二文字は出てこない。
「シエル?」
静かな声が背後から聞こえた。18歳のアクアが入口に立っていた。
水色の長髪は腰まで伸び、碧眼は1年前より深く、冷たくなっていた。感情を表に出すことが、ほとんどなくなった。泣くことも、怒ることも。王女としての責務を果たすために、自分自身を「器」に作り変えようとしているかのように。
「また一睡もしてないでしょう」
「データが足りないんです。もう少しで——」
「データはいつだって足りないわ。でもあなたの身体は一つしかない」
アクアが外套ごとシエルの肩を掴み、椅子に押し戻した。有無を言わさぬ力。水の王女の手は冷たかったが、その冷たさの奥に、不器用な気遣いが滲んでいた。
「……アクア様」
「何?」
「正直に聞きます。今の戦力で反攻が可能になる確率は、0.3%以下です。何か根本的な変数が加わらない限り、この数字は動かない」
アクアは壁の紙片を見つめた。数字と線で埋め尽くされた、絶望の地図。
「根本的な変数、ね」
「はい。例えば——六征竜の離反、帝国との同盟関係の破綻、あるいは……」
「あるいは?」
シエルは言葉を切った。碧眼が、壁の隅に貼られた一枚の紙片に向けられた。そこには「不確定要素」とだけ書かれている。
「……レヴィア様の動向です。あの方がどこで何をしているか、1年間まったく掴めていない。冬至の念話でも、レヴィア様からの応答は最小限でした。何かを隠している」
アクアの碧眼が僅かに揺れた。妹の名前を聞くたびに、凍りつかせた感情の奥で何かが疼く。
「……レヴィアはレヴィアよ。あの子が動く時は、きっと私たちの計算を全部ひっくり返すような、とんでもないことをするわ」
それは信頼なのか、諦めなのか、あるいはその両方なのか。アクアの声からは判別がつかなかった。
シエルは眼鏡をかけ直し、壁に向き直った。
「……ならば、その時のために。ひっくり返った盤面を最大限に活かす準備だけは、整えておきます」
氷の隠れ里で、2人の少女は牙を研ぎ続けていた。勝てない戦いのために。いつか来るはずの、0.3%のために。
◇◆◇◆◇
人間界。ドラゴンスレイヤー教団、中央訓練所。
13歳のヒカルは、訓練場の中央に立っていた。
周囲には倒れた訓練生が10人以上転がっている。模擬戦の結果だ。ヒカルの手には木剣が一本。息一つ乱れていない。黒髪に茶色の瞳、やや細身の体躯。だがその動きを見た者は、13歳の少年の身体に宿る力が常軌を逸していることを否応なく理解する。
「……また全勝か」
訓練場の端で腕を組んでいた教官が、忌々しげに吐き捨てた。
「神童」。その称号は、もはや賞賛ではなく畏怖を含んでいた。入団以来、敗北なし。剣術、体術、戦術、魔法——全てにおいて教団の記録を塗り替え続ける異常な才能。最年少で分隊長に就任し、今や中隊規模の指揮すら任されている。
だが——ヒカルの評価には、常に但し書きがついた。
「竜との実戦において、致命的な躊躇いが見られる」
報告書の一文。教官たちの間で繰り返し議論される問題。ヒカルは人間相手の戦闘では完璧だった。だが竜族との交戦において、最後の一撃——止めの瞬間に、必ず手が止まる。
理由を問われても、ヒカル自身にも分からなかった。
訓練場を出て、宿舎への道を歩く。夕暮れの空が赤く染まっている。その赤を見るたびに、胸の奥で何かが疼いた。5年前から続く、名前のない痛み。
記憶にはない。封印されている。だが——感情は消えていなかった。
赤い色を見ると、心臓が跳ねる。雨の音を聞くと、掌が温かくなる。誰かの手を握っていた感覚。細い指。冷えた肌。震えていた——誰かの。
「……何なんだろう、これ」
いつも同じ問いが浮かび、いつも答えが出ない。
宿舎の廊下で、すれ違った年上の訓練生たちが露骨に目を逸らした。その中の一人が、背後でわざとらしく呟いた。
「竜も殺せない奴が分隊長かよ。笑わせる」
ヒカルは足を止めなかった。振り返りもしなかった。
だがその夜、狭い個室の寝台に横たわり、天井を見つめながら——右手の掌を見た。
ここに、誰かの温もりがあった。
5年間、消えない感触。夢の中で揺れる紅い何か。髪のようにも、炎のようにも見える。手を伸ばすと——消える。
「……強くならなきゃ」
呟いた。誰に向けた言葉かも分からないまま。
「もしまた会えた時、今度こそ——」
続く言葉は、眠りに呑まれて消えた。
右手の掌だけが、まだ温かかった。
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