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第十五話:光の消滅、アウラの選択

 光の領地、聖域教会。


 白亜の尖塔が朝日を受けて輝く——はずだった。だがミラの死が生んだ常闇は光の領地にまで及び、教会の尖塔は灰色の空の下で色褪せていた。


 教会の地下礼拝堂。蝋燭の灯りだけが揺れる石造りの部屋で、アウラは机に広げた図面と睨み合っていた。22歳。肩までの金髪と穏やかな面差し。光の大神官であると同時に、魔導と科学の融合を研究する異端の学者。その優しげな目元の下に、今は深い隈が刻まれている。


 3日前、フレアが2人の王女を連れてこの教会に辿り着いた。満身創痍の騎士と、14歳のレヴィアと、13歳のルーナ。アウラはルーナを預かり、レヴィアとフレアは一夜だけ休息を取って南へ発った。別れ際、レヴィアは振り返ってルーナを見つめた。ルーナも姉を見つめた。どちらも泣かなかった。泣く涙は、もう残っていなかった。


「……ルーナ様。少し休まれた方がよろしいかと」


 アウラが振り返ると、礼拝堂の隅で小さな少女が膝を抱えていた。白い髪に、金色の瞳。光の王妃の血を引く美しい容姿だが、その目には年齢にそぐわない暗い翳りが落ちている。


「眠れないの。目を閉じると、お母様の声が聞こえる気がして」


 アウラは何も言わず、自分の法衣を脱いでルーナの肩にかけた。温かい布が小さな肩を包む。ルーナはわずかに目を細めたが、それ以上の表情は見せなかった。


 階段を駆け下りてきたのは、教会の警備を務める修道騎士だった。


「アウラ様。東の街道に教団の旗印。——先遣隊ではありません。正規の討伐部隊です」


 アウラの目が細くなった。


「規模は?」

「騎兵60。魔導砲車が3台。それと——帝国の魔導技師が随行している模様です」


 帝国の魔導技師。その一言で、アウラの表情が変わった。教団の兵だけなら、この教会の結界で1週間は持ちこたえられる。だが帝国の技師が来ているということは、対結界の専門装備を持ち込んでいるということだ。


「狙いはルーナ様か」

「間違いないか、と。光の巫女の力。——教団にとっても帝国にとっても、喉から手が出るほど欲しいものでしょう……」


 アウラは図面を畳み、立ち上がった。穏やかな微笑が消え、代わりに研究者の冷徹な目が現れた。


「教会の結界を最大出力にしてください。それと、地下通路の3番と5番に魔導罠を設置します。資材は研究室にあるものを使う。それとお前たちは今のうちに逃げなさい」

「アウラ様!? いかがされるおつもりですか!?」

「任せてください。私に秘策がありますから……」


 アウラの「魔導罠」は正規の聖職者が使うものとは根本的に異なっていた。光の魔導と、帝国から密かに入手した科学技術の論文。その2つを融合させた即席の兵器。光の屈折を利用した幻影陣、魔力を吸収して暴発させる逆転炉、音響と光の同時攻撃で平衡感覚を破壊する眩暈結界。


 教団の先遣隊が教会の外壁に取りついた時、最初の罠が作動した。幻影陣が教会を3つに分裂させ、騎兵隊が混乱する間に逆転炉が魔導砲車の1台を内側から爆破した。


 だが——帝国の魔導技師は冷静だった。


「光の屈折率を計算すれば、本体の位置は特定できる。——全砲車、座標を修正」


 2台目の魔導砲が、幻影を無視して教会の結界を直撃した。白亜の壁にひびが走る。結界が軋む音がした。


 アウラは礼拝堂の窓から外を見た。3つ目の罠が発動し、眩暈結界で騎兵の半数が倒れた。だが魔導技師は自分の周囲にだけ遮断膜を張っており、影響を受けていない。帝国の対魔導技術は、アウラの想像を超えていた。


「……残りの罠で稼げる時間は、あと20分。さぁ、早くこの場から逃げるのです!」


 修道騎士たちは、アウラの鬼気迫る口調に、ようやく裏口から逃げることにした。きっとアウラは秘術を使ってルーナ姫を逃がすだろう、という不思議な確信を覚えたからだ。そして、もちろん、自分たちが逃げることで敵の眼を欺く、つまり囮になるつもりである。


 アウラは目を閉じた。そして——研究室の奥に仕舞い込んでいた、一冊のノートを思い出した。





 研究室の机の上に、一冊のノートが開かれた。


「光の粒子化——物質の光子変換による空間転移の理論的考察」。アウラが5年かけて構築した理論。物質を光の粒子に分解し、別の座標で再構成する。完成すれば、瞬時にどこへでも移動できる夢の術式。


 だが、未完成だった。


 再構成の安定化が確立できていない。分解した物質を元通りに戻せる保証がない。最悪の場合、身体の一部が再構成されず、欠損したまま転移が完了する。動物実験では3割が不完全再構成で死亡していた。


 人体での実験は、一度もしていない。


 教会が再び揺れた。結界の出力が落ちている。あと15分持つかどうか。


 ルーナが研究室の入口に立っていた。


「アウラ。逃げないの?」

「逃げますよ。今、その準備をしています」


 アウラは微笑んだ。いつもと同じ穏やかな笑み。だがその手は、ノートのページを捲りながら微かに震えていた。


 術式を床に展開する。光の魔導陣が研究室の石畳に広がり、白い光が2人を包んだ。


「ルーナ様。少しだけ、怖いことをします」

「怖いこと?」

「私たちの身体を光に変えて、遠くへ飛びます。——目を閉じていてくれますか?」


 ルーナはアウラの目をじっと見た。年齢より幼く見えるこの少女は、大人の嘘を見抜く目を持っていた。


「……痛いの?」


 アウラは一瞬だけ言葉に詰まった。それから、嘘をついた。


「いいえ。少しくすぐったいだけです」


 教会の壁が砕けた。結界が破られ、教団の騎兵が礼拝堂に雪崩れ込んでくる足音が聞こえた。


 もう、時間がなかった。


 アウラはルーナを抱き上げた。小さな身体を左腕に抱え、右手で術式の起動符を掴む。


「ルーナ様、目を閉じて」


 ルーナが目を閉じた。


「すぐに新しいお庭に着きますから……」


 優しい声だった。震えていた。だがルーナは気づかないふりをした。気づかないふりができるくらいには、この10歳の少女はもう子供ではなくなっていた。


 アウラが起動符を握り潰した。




 光が爆ぜた。




 2人の身体が光の粒子に分解されていく。足先から、指先から、肌が透明になり、光に溶けていく。


 激痛が走った。


 身体を引き裂かれるような痛み。細胞の一つ一つが光に変換される感覚は、くすぐったいなどという生易しいものではなかった。アウラは叫びを噛み殺した。ルーナを抱く左腕だけは絶対に力を緩めなかった。


 研究室の扉が蹴破られた。教団の騎兵が飛び込んできた時——そこにはもう、誰もいなかった。白い光の残滓が漂い、やがてそれも消えた。




 ◇◆◇◆◇


 光が散った。


 見知らぬ森の中だった。巨木が空を覆い、苔むした地面が薄暗い緑色に沈んでいる。鳥の声も、風の音も、遠い。人の気配は何もなかった。


 ルーナは目を開けた。


 地面に座り込んでいた。身体は無事だった。指先を動かし、足首を回す。欠けている部分はない。アウラの術式は、少なくともルーナの身体については完全に機能していた。


 隣で、倒れている人がいた。


「アウラ……?」


 アウラは地面に伏せていた。法衣が破れ、金髪が泥に汚れている。だがそれよりも——身体が、おかしかった。


 右腕が半透明だった。光の粒子が再構成しきれず、腕の輪郭が揺らいでいる。右脚も同様で、膝から下が透けて地面が見えていた。胸の右側も光の粒子がちらついており、呼吸のたびに粒子が散っては戻るを繰り返している。


 不完全再構成。自分の身体を犠牲にして、ルーナの再構成を優先したのだ。


「アウラ! アウラ、起きて!」


 ルーナがアウラの肩を揺すった。アウラの目が薄く開いた。焦点が合っていない。だが唇が微かに動いた。


「……お庭は、いかがですか」


 掠れた声。血の気のない唇で、それでも微笑もうとしていた。


「馬鹿なこと言わないで! 身体が——身体が消えかけてる!」


 ルーナの目に涙が溢れた。だが次の瞬間、10歳の少女は涙を手の甲で乱暴に拭い、両手をアウラの胸に当てた。


 光の魔力が流れ出した。


 ルーナの掌から、温かい金色の光がアウラの身体に注がれていく。光の巫女の力。教団が欲しがった、その力。ルーナは自分がどれほどの力を持っているか知らなかった。


 だが今、目の前で消えかけている人を助けたい、その一心で魔力を注いだ。


 アウラの右腕の輪郭が、わずかに濃くなった。完全には戻らない。だが消滅は止まった。


「……ルーナ様。あまり魔力を使いすぎると——」

「黙って。黙って受け取って!」


 ルーナの声は震えていたが、その目は真っ直ぐだった。もう泣いていなかった。


 アウラは目を閉じた。小さな手から流れ込む光の温もりを感じながら、意識が薄れていく。


「……ありがとう、ございます」


 ルーナはアウラの手を握ったまま離さなかった。半透明の指を、透けて見える骨の輪郭ごと、13歳の小さな手で包み込んだ。



 森の中に、2人だけが残された。


 どこかも知れない辺境の森。追手がいつ来るかも分からない。頼れる大人は半壊した身体で意識を失っている。13歳の少女は、それでも手を離さなかった。




 この日から、ルーナの目が変わった。


 王宮にいた頃の無垢な金色は、身を守るために研ぎ澄まされていった。誰を信じ、誰を疑い、何を隠し、何を見せるか。光の巫女の力は、祈りの道具から生存の武器へと変質していく。


 それは毒だった。美しく、透明で、触れた者の心を溶かす——光という名の毒。


 だがそれは、まだ先の話。


 今はただ、10歳の少女が倒れた守護者の手を握り、見知らぬ森の中で夜明けを待っていた。終わりの見えない、長い長い夜明けを。




〔断罪のプレリュード 第一部 完〕


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