第十四話:母竜の炎、再会への道標
地下水路の闇の中を、3人は黙って歩いていた。
レヴィアが先頭、ルーナが手を繋ぎ、フレアが殿を務める。水路の水は膝下まであり、一歩ごとに冷たさが骨に沁みた。誰も口を開かなかった。言葉にできることが、もう何も残っていなかった。
異変は、唐突に来た。
右腕の赤い布が、灼けるように熱くなった。ヒカルの鼓動とは違う。もっと深く、もっと大きな波動。レヴィアが足を止めた瞬間、水路の壁が淡く赤く染まった。
「——姫様、これは?」
フレアが剣に手をかけた。だがすぐにその手を降ろした。この魔力を、知っている。
水路の先に、光が立っていた。
炎の色をした、半透明の人影。葡萄酒色の長髪が揺れ、翡翠の瞳がこちらを見ている。輪郭は揺らいでいて、水面に映った焔のように不安定だった。だがその面差しを見間違えるはずがなかった。
「お母……様……?」
レヴィアの声が震えた。
フランメリアの思念体だった。王宮地下の集積炉で四元ユニゾンが臨界に向かう中、4人の王妃の魔力が王宮全体に広がり、思念となって娘たちの元へ届いたのだ。
フランメリアの唇が動いた。声は遠かった。水の底から聞こえるように、くぐもって、かすれて。だが確かに——母の声だった。
「レヴィア。……あなたの顔が、見たかった」
レヴィアは駆け出した。水を蹴散らし、両腕を伸ばして母の幻影に飛び込んだ。
だが、腕が、すり抜けた。
フランメリアの身体はそこにあるのに、触れられない。指先が炎の粒子を掻き、光が一瞬散って、またすぐに人の形に戻る。温度だけがあった。抱きしめることはできないのに、炎の魔力の温もりだけが、レヴィアの全身を包んでいた。
「お母様……お母様、触れられない……触れられないよ……!」
涙が溢れた。すり抜けた腕をもう一度伸ばし、もう一度すり抜ける。何度やっても同じだった。母はここにいるのに。声が聞こえるのに。こんなに温かいのに。
フランメリアの思念体が、そっとレヴィアに重なった。抱擁の形をとるように、幻影の腕がレヴィアの背中に回される。体温はない。母の腕の感触もない。だが——温かかった。理屈ではなく、魂で感じる温もり。幼い頃に抱き上げてもらった時と、同じ熱。
「……温かい」
レヴィアが呟いた。涙が止まらないまま、目を閉じた。
「温かいよ、お母様……」
フランメリアが微笑んだ。ボロボロの幻影で、輪郭が崩れかけていて、それでも翡翠の瞳だけは澄んでいた。
「聞いて、レヴィア。時間がないの」
レヴィアは目を開けた。母の幻影が揺らいでいる。集積炉の臨界が近い。この思念体が保てるのは、あと僅かだ。
フランメリアの視線がレヴィアの右腕に落ちた。赤い布。あの日、人間の少年が巻いてくれた布。
「その布に、託すわ」
フランメリアの幻影が右手を伸ばし、レヴィアの赤い布に重ねた。触れてはいない。だが炎の魔力が布を媒介にして流れ込み、布の奥で何かが結晶化していく。光が凝縮し、赤い布の下に拳ほどの宝玉が顕現した。
血のように赤い結晶。炎の魔力が脈動している。
「炎の逆鱗。王家の始祖から受け継がれてきた、炎の核。……あなたの中にある光を守るための、最後の盾」
レヴィアは布ごと結晶を胸に抱いた。母の魔力と、ヒカルの鼓動が、同じ布の中で重なっていた。
フランメリアの幻影が薄れ始めていた。
集積炉の臨界が迫っている。四元の魔力は限界を超えつつあり、思念体を維持する余力がなくなりつつあった。
「レヴィア」
母の声が遠くなる。
「あなたの心にある光を、消してはなりません」
「お母様、待って——まだ——」
「いつか、絆を束ねる王が現れるまで。……その光を、灯し続けなさい」
フランメリアの幻影がレヴィアの頬に手を伸ばした。触れられない指先が、頬の涙のすぐ上で止まる。拭ってあげたいのに、拭えない。その指先が微かに震えていた。
「……あなたは、お転婆で、強情で、誰より真っ直ぐな子だった」
声が震えた。王妃の気品が、母の涙に溶けていく。
「そのまま、大きくなりなさい。泣いてもいい。怒ってもいい。でも——光だけは、消さないで」
レヴィアは首を横に振った。何度も、何度も。嫌だ、行かないで、置いていかないで。14歳の少女の中にある全ての言葉が、喉の奥で溢れて詰まっていた。
フランメリアの視線が、レヴィアの後ろに移った。
ルーナが立っていた。10歳の少女は母の幻影ではなく——レヴィアの背中を見つめていた。自分の母の思念体は、今、別の場所でルーナに語りかけているのだろうか。それとも、もう間に合わなかったのだろうか。
フランメリアはルーナに微笑みかけた。
「ルーナ。あなたのお母様も、きっと同じことを伝えていたわ。——あなたたちは、一人じゃない」
ルーナの目に涙が浮かんだ。声は出さなかった。ただ小さく頷いた。
フランメリアの幻影が、最後の光を放った。
「——行きなさい。前だけを見て」
振り返らなかった。母の方が先に背を向けた。娘に背中を見せるのではなく、娘が振り返らずに済むように。炎の幻影が歩き出し、水路の闇の奥へ遠ざかっていく。
その背中が——揺らいで、散った。炎の粒子が水面に落ち、小さな波紋を残して消えた。
水路に、静寂が戻った。
レヴィアはしばらく動けなかった。母がいた場所を見つめたまま、胸に抱いた赤い布と逆鱗の温もりだけを感じていた。
フレアが静かに一歩踏み出した。何も言わなかった。ただ、レヴィアの前に立ち、進むべき方向を示した。
レヴィアはルーナの手を取った。冷たい手。だが握り返す力は、さっきより少しだけ強かった。
3人は歩き出した。
その数分後——王宮の地下で、四元ユニゾンが臨界に達した。
爆発は、大地の底から来た。
地下水路を走る3人の背後から轟音が追いかけてきた。壁が砕け、天井が崩落し、衝撃波が水面を爆ぜさせる。フレアがレヴィアとルーナを両腕で庇い、背中から瓦礫の壁に叩きつけられた。鎧が割れ、血を吐いた。だが2人には傷一つなかった。
「走って! 止まったら死にます!」
地上への階段を駆け上がった。
出口を塞ぐ瓦礫をフレアが炎の剣で斬り開き、夜風が顔を叩いた。
だがしかし、地上に出た瞬間、黒い影が並んでいた。
王弟直属の暗殺部隊。20人近い暗殺者が、地下水路の出口を弧を描いて封鎖している。逃走経路を読まれていた。
「——炎の姫。ここで終わりだ」
暗殺部隊の長が短剣を構えて一歩踏み出した。
フレアがレヴィアとルーナの前に立つ。満身創痍。左腕は動かず、右脚も引きずっている。それでも炎の剣を構え、半竜人化の鱗が首筋まで走った。
「姫様。ルーナ様。——俺の後ろから離れるな」
その時——地面が震えた。
震えたのではない。地の底から、何かが昇ってきた。
王宮の地下から——紅蓮の炎が噴き上がった。四元ユニゾンの臨界爆発。4人の王妃の魔力が一気に解放され、赤、白、青、緑の光が天を突いた。
王都の半分を焼き尽くすほどの火柱が、夜空を昼に変えた。
暗殺部隊が振り返った。その一瞬の隙を——炎が呑んだ。4つの属性が絡み合った奔流は、まるで意志を持つかのように暗殺者たちだけを巻き込み、レヴィアたちの周囲だけを避けて通り過ぎた。
母たちの最後の炎が作った、逃げ道だった。
「——今です!」
フレアがレヴィアを片腕で担ぎ、ルーナの手を引いて走った。炎の壁が作った安全地帯を駆け抜け、王都の城壁を越え、荒野へ。
◇◆◇◆◇
荒野の丘の上で、フレアはついに膝をついた。
もう一歩も動けなかった。レヴィアを降ろし、剣を杖にして身体を支える。ルーナがフレアの腕を掴み、倒れないよう支えた。
背後の王都は、燃えていた。地平線の向こうが赤く染まり、空の半分が煙に覆われている。4つの色の炎が混じり合い、夜空を焦がしていた。あの炎の中に——母たちがいた。
レヴィアは立ち尽くしていた。
炎を見つめていた。さっき思念体が重なった時の温もりが、まだ全身に残っている。触れられなかった。抱きしめられなかった。でも、温かかった。あの温もりだけが、本物だった。
膝が折れた。荒野の土に崩れ落ち、手で地面を掻いた。額を砂に押しつけて、声にならない慟哭が喉から漏れた。
父が死んだ。母が死んだ。兄が死んだ。姉が死んだ。王都が燃えた。国が墜ちた。
14歳の少女の世界は、一夜で全て灰になった。
ルーナがレヴィアの隣に座った。何も言わず、姉の背中にそっと額を当てた。13歳の少女もまた、全てを失っていた。でも——隣にいることだけは、やめなかった。
どれほどそうしていたか分からない。涙が枯れ、嗚咽が止まり、残ったのは空っぽの身体と、右腕の赤い布と、胸元の逆鱗だけだった。
その布が、脈打った。
とくん、と。小さく、温かく、確かに。
母の温もりとは違う。もっと遠くて、もっと微かで、でも——途切れない鼓動。
レヴィアは布を握りしめた。両手で、爪が掌に食い込むほど強く。
「……あの子なら」
声が掠れた。
「あの子なら……私を、助けてくれる?」
それは問いかけではなかった。祈りだった。あるいは——狂気にも似た執着だった。
全てを失った少女が、たった一つだけ握りしめたもの。幼い日に出会った人間の少年。その記憶を消した罪悪感と、消しきれなかった絆への渇望。母が「光を消すな」と言った。その光が何なのか、レヴィアにはもう分かっていた。
絶望の底で、少女の中の何かが変質した。悲しみが渇望に変わり、渇望が——希望の形をした執着に結晶した。
レヴィアは立ち上がった。
涙の跡が頬に残っていた。目は赤く腫れていた。だがその奥に宿った光は、もう涙では消せないものだった。
「……生きる。生き延びて、あの子を、ヒカルを見つける。そしていつか——全部、取り戻す」
フレアが顔を上げた。主の顔を見て、何も言わなかった。あの目に宿ったものが希望なのか執着なのか、あるいはその両方なのか——今は判断がつかなかった。ただ一つ確かなことがあった。この少女は、もう折れない。
「……参りましょう、姫様。東へ。アウラ殿の教会を目指します」
レヴィアは赤い布を右腕に巻き直した。母の逆鱗を胸に抱き、ルーナの手を取った。
3人は歩き出した。
背後で王都の炎がゆっくりと消えていく。4人の母が命を懸けて灯した炎が、夜明けの光に溶けて薄れていく。
それでも、レヴィアの右腕の布は消えなかった。赤く、小さく、確かに脈打ち続けていた。
断罪の夜が明ける。
少女の長い旅が、始まった。
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