第十三話:土の城壁、エレクトの殉教(後編)
城門の通路を塞ぐ石像に、王弟軍は総力を注いだ。
初日。魔導槍の斉射が途切れることなく続いた。数百本が石像の表面に突き刺さり、火花を散らし、石粉が舞い上がる。だが槍が止むたびに、粉塵の奥にあの姿が見えた。両腕を広げ、不敵に笑ったまま、微動だにしない石像。
アイアン・ウォールは2度目の石槌を振り下ろした後、槌を降ろして石像の前に立ち尽くした。同じ土属性の六征竜として、目の前の術の意味を理解していた。
「……自らを核にした恒久硬化か」
低い声だった。感情を見せない巨躯の六征竜が、初めて何かを呟いた。
「マナの凝縮密度が桁違いだ。芯まで砕くには、この通路ごと城塞を崩すしかない」
ミスト・マキナが背後から歩み寄った。水色の髪が粉塵で白く汚れている。冷徹な碧眼が石像を見上げ、わずかに眉をひそめた。
「これほどの術者を正面から相手にする想定はなかったわ。……王弟陛下の計画書には、東方領の戦力は『城塞兵120名、指揮官1名』としか記載されていなかった」
「指揮官1名。——その1名が、これだ」
アイアン・ウォールが石像を見た。砕けた左腕の断面から、土のマナが微かに脈動している。死してなお、壁であり続けている。
「時間をかければ崩せる。だが——」ミスト・マキナが唇を薄く引いた。「この3日で、標的は地下深くへ逃げ切ったでしょうね」
2日目。城塞の外壁に迂回路を掘削する作業が始まった。だが迷宮城塞の構造は複雑で、エレクトが2年かけて張り巡らせた罠がまだ生きていた。迂回を試みた部隊は3つ。全て壊滅した。
3日目の朝。アイアン・ウォールが最後の一撃を振るった。石槌が石像の胴体を貫き、ようやく壁が崩れた。破片が通路に散らばり、粉塵が晴れた後——石像の顔があった。砕けた胴体から転がり落ちた頭部。
笑っていた。
あの不敵な笑みが、そのまま残っていた。
アイアン・ウォールは石槌を肩に担ぎ直し、その顔を一瞥して背を向けた。踏み潰しはしなかった。
ミスト・マキナが静かに言った。「報告書にはこう書くわ。『東方領の制圧に3日を要した。原因は城塞構造の複雑さ』と」
「事実と違うな。いいのか?」
「事実を書いたら、王弟陛下の作戦に瑕疵があったことになる。——それは許されないでしょう?」
ミスト・マキナは踵を返した。水色の髪が粉塵の中で揺れる。
「たった一人の王女に3日足止めされた、とは書けないもの」
地下聖域。
母ガイアリスが遺した土の結界が、琥珀色の薄い光で空間を包んでいた。
テラは結界の隅で膝を抱えていた。
泣き止んではいた。正確には、泣く力が尽きたのだ。目は赤く腫れ、頬は涙の跡で汚れている。だが一番ひどいのは耳だった。両手で耳を塞ぎ続けている。あの音が——ぱきん、という小さく乾いた音が、まだ頭の中で繰り返されている。
ガイアは結界の入口に座っていた。背中の傷にテラの爪が食い込んだ跡が、まだ血を滲ませている。だがそれを気にする様子はなかった。膝に肘を置き、両手を組んで、沈黙していた。
何を言えばいいか分からなかった。22年間、幼馴染の隣にいた。共に鍛え、共に城塞を守り、いつかこの国を支える土の柱になるのだと信じていた。その女が、石になった。3日かけて砕かれる音が、結界の中にまで届いていた。
テラが口を開いた。掠れた、小さな声。
「……姉様は、怖くなかったのかな?」
ガイアは顔を上げた。
「一人で、あんなにたくさんの敵の前に立って。……怖くなかったのかな?」
ガイアは答えようとして、言葉が出なかった。喉の奥が詰まっていた。一度深く息を吸い、それから口を開いた。
「……エレクト様は、昔からああだった」
テラが顔を上げた。
「ガキの頃——俺とエレクト様が7つか8つの時だ。城塞の裏山に大猪が出た。村の羊を荒らす凶暴な奴で、大人の猟師でも手を焼いていた」
ガイアの声は低く、不器用だった。
「エレクト様は石を3つ握って、一人で裏山に登っていった。俺が追いかけたら、もう猪の前に立っていた。石を投げて、怒った猪が突っ込んできたところを、地面を隆起させて転ばせた。——7歳で、だぞ!?」
テラの目が、わずかに大きくなった。
「俺が『怖くないのか』って聞いたら、あの人はこう言った。『怖いに決まってんだろ。でも怖いからって逃げたら、羊が食われる。だったら怖いまま立ってた方がマシだ』って」
ガイアは自分の拳を見下ろした。エレクトの半分もない戦闘力で、それでも隣に立ち続けた22年間。
「怖くなかったわけがない。あの城門の前で、一人で600の軍勢と六征竜を見て——怖くないわけがない」
声が震えた。
「それでも立ったんだ。あなたを、テラ様を逃がすために。——それがエレクト様だった」
テラの目から、また涙が溢れた。今度は声を上げなかった。静かに、ただ静かに、頬を伝って落ちていく。
ガイアが立ち上がり、テラの前に来た。巨体がしゃがみ込み、大きな手がテラの頭に置かれた。乱暴ではない。けれど不器用な手のひら。エレクトがいつもそうしていたように——頭をぽんと叩こうとして、できなかった。あの人のようにはできない。だからただ、そっと頭に手を置いた。
「……俺はエレクト様みたいにはなれない。不器用だし、気の利いたことも言えない」
テラがガイアを見上げた。
「だけど、あなたを守る。それだけは約束する。——エレクト様に、そう言ったから」
テラは何も言わなかった。ただ、ガイアの大きな手の下で、小さく頷いた。
◇◆◇◆◇
数日前に戻る。
地下水路で、レヴィアは壁にもたれて座り込んでいた。
足元から伝わっていた土の鼓動が途絶えてから、どれくらい経っただろう。ゼニス兄様の念話。エレクト姉様の念話。立て続けに2人の声を聞いて、2人の消失を感じた。それに先立つミラ姉様の死。母たちが地下で命を燃やしている気配。
全部が、一度に来た。
レヴィアの手が震えていた。膝を抱える腕に力が入らない。右腕の赤い布が脈打っているのに、それすら遠く感じる。
「……フレア」
「はい」
「なんで?」
声が裏返った。
「なんであたしだけ生き残ってるの!?」
フレアが目を見開いた。レヴィアの口からそんな言葉が出たのは、初めてだった。
「ゼニス兄様も、ミラ姉様も、エレクト姉様も——みんな戦って、みんな死んだ。あたしは何もしてない。何もできなかった。水路の中で震えてただけ。……なのに、あたしだけ生きてる。おかしいでしょう。おかしいよ、こんなの——」
声が崩れた。14歳の少女の虚勢が、ついに剥がれ落ちた。
フレアは黙って聞いていた。レヴィアの言葉が途切れ、嗚咽だけが水路に反響するのを待った。
それから、炎の剣を鞘に収めた。
音が響いた。かちん、という硬い金属の音。レヴィアが顔を上げた。
フレアは片膝をついていた。満身創痍の騎士が、折れた左腕を庇いながら、それでも背筋を伸ばして膝をつき、頭を垂れていた。
「姫様が生きている限り、俺の剣に意味があります」
静かな声だった。
「ゼニス殿下は姫様に『生き延びろ』と言った。エレクト殿下は『取り戻しな』と言った。——その言葉を受け取れるのは、生きている者だけです」
フレアが顔を上げた。鋭い目の奥に、揺るぎないものがあった。
「何もしていない、とは言わせません。あなたは生き残った。それが、あなたの戦いです」
レヴィアの涙が止まらなかった。
でも——目を逸らさなかった。フレアの目を、真っ直ぐに見返した。
その時、小さな手がレヴィアの右手を握った。ルーナだった。
10歳の妹は何も言わず、ただ握った。冷たい手だった。ルーナもまた、怖くて、悲しくて、震えていた。でも姉の手を握ることだけは、やめなかった。
レヴィアはルーナの手を握り返した。
右腕の赤い布が、脈打った。とくん、と。遠い人間界の少年の鼓動。
まだ、ここにある。
レヴィアは涙を拭わずに立ち上がった。
「——そうだね、行こう」
それだけだった。もう大きな決意の言葉は出なかった。けれどその一言に、フレアは頷いた。ルーナの手を引き、水路の闇の奥へ歩き出す。
東方の大地に、崩れない壁が立っている。不敵な笑みを刻んだ姉が、永遠にそこで見ている。
その視線を背中に感じながら、少女は前だけを見て歩いた。
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