9.悪魔の巣窟
後に、ホグトンの出兵が失敗に終わったこの夜は『喪失の夜』としてファスピア王国で密かに語り継がれることとなる。
当時を経験した者は口を揃えてこう言った。「我々は何かに敗北した。」、と。死者数ゼロ、負傷者数ゼロ。されど敗北だけが明確に突きつけられた。まるで悪夢を見ていたような、えも言われぬ気持ち悪さだけが強烈に焼き付いた夜だった、と。
☆
先馬のうちの一人デニスは伝令役としてガイルをオクトルール邸に向かわせたあと、自分は引き返して本隊と合流することになっていた。
本隊に戻ると仏頂面のホグトンが報告を待ちかねているところだった。
「デニス、ただいま戻りました。」
「ふむ、報告せよ。」
「はい、この先に異常は見られませんでした。それと野営地に適した場所を見つけました。日が落ちる前に設営できるかと。」
「でかした。珍しく気が利くではないか。」
「はっ、ありがとうございます!」
そんな簡素なやり取りを終え、デニスは軍隊の先頭に立ち隊員を休ませられるエリアへ先導した。
一個連隊がまるっと収まるほどの整地だ。周囲の木々は伐採され見渡しがよく、外敵の奇襲があればすぐに気づける。
土は均され、テント内での寝心地も悪くなさそうだ。僅かに香る刺激臭に目を瞑れば――いや、鼻をつまめばまさに理想の野営ポイントと言える。
兵士たちは一日中歩き続けた疲労など忘れて、瞬く間にテントの海をつくる。
「武器の手入れ油はどこだ?」
「何だこの箱?余計な荷物を置いておくなよ!」
「おい、見張り役を決めるぞ!デニス、とりあえず最初はお前だ。」
いくらかアクシデントはあったが兵士たちにとっては日常茶飯事だった。人が集まるところに混乱はつきもの。森は一時、人間達の騒音に見舞われた。
時が過ぎると次第に森はいつもの静寂を取り戻してていく。夜の森にはほとんど娯楽という娯楽はない。食うだけ食ったら、後は翌日に備えて武器の手入れをするか寝るくらいしかやるべきことはない。
他には暇つぶしに武勇伝を語る者や翌日以降の展望を話す者、おふざけ半分に怪談を吹聴する者がちらほらいる程度。
自然と夜が深くなり大多数が寝静まった頃――
「うわああああああ!」
ある一人の青年兵士の叫び声が静寂を破った。騒ぎを聞きつけた兵士たちが青年兵士のもとへ駆け寄る。
「何事だ!」
「い、い、いま、いま……。」
青年兵士は人指し指を木々に向けながら、青ざめた顔で口をパクパクさせていた。明らかにおかしいその様子に、寄ってきた兵士たちは指の先を見る。だが、そこには木々と暗闇があるだけ。
「しっかりしろ!どうしたってんだ?」
「今、いたんです……!」
兵士たちはその言葉に嫌な予感をおぼえた。誰が続きを聞くのかと目で訴えあった結果、別の兵士が声をかける。
「いたって何がだ?まさかこんなとこに悪鬼でも出たってのか?」
「いえ、そんなんじゃない。あれは……あれは……亡霊だ……。」
「亡霊?そんな馬鹿な!」
「いえ、本当なんです!真っ白で…髪はボサボサで……それに宙に浮いていたんです!血走った眼でこっちを……!」
青年兵士はたどたどしく言葉を繋げたが、恐ろしい光景を思い出して再び震えだした。
「おいおい。見回り中に居眠りでもしてたんじゃないだろうな。」
「本当なんです……。本当なんです……。」
「……レ……。」
「ひぃっ!」
青年兵士は引きつった悲鳴をあげる。上官も森のざわめきに隠れた違和感を聞き取った。人指し指を口の前に立てて静かにするよう集まった兵士に合図を送る。
「なあ、何か聞こえないか。掠れ声のような……。」
「隊長まで何言ってるんすか。こいつのビビリでも伝染って」
「少し黙れ!」
あまりの剣幕に一般兵たちも押し黙る。ただならぬ空気に声を発することができる者はいなかった。と、その時、野営地を囲うようにガサガサと音が鳴り始めた。
木の葉の擦れる音だ――と、その音を聞いた者は誰もが初めはそう思った。
だが、それが木の葉の音ではないことはすぐに理解した。それは人の声、人の言語だ。女性が強く喉を締められたような、ザラザラした細い音。この世の全てを呪うような怨嗟の念。それが兵士たちに一斉に降りかかる。
「タチサレ、タチサレ、タチサレ、タチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレタチサレェェェェ!」
「ぎぃあああああああ!」
怨嗟の声が四方から絶え間なく野営地に響く。眠っていた者たちは次々と叩き起こされ、冷静になる間もなく連鎖的に恐怖に陥っていく。
「慌てるな、武器を取れ!索敵部隊は周囲の外敵を探れ!」
「い、いませんっ!何も!」
「そんなはずないだろう!よく探せ!」
「お、俺の剣があああ!」
「錆びてる……そんな……。」
「俺のもだ!なんで!」
「おい、テントが燃えてるぞ!」
「食料が!火を消せええ!」
「それどころじゃない!この声は何なんだよ!」
場は完全にパニックに陥った。恐怖と混乱は阿鼻叫喚とともに伝染する。一人、二人が冷静さを保てたところでその声は隣人には届かない。もはや人の理性は意味を成さなくなった。
時間にして約一時間。狂気の時間は兵士たちの体力と共に終わりを迎えた。ちょうど朝日が差し始め、視界が明るくなったことで集団は落ち着きを取り戻した。
だが、最終的に残ったものは呆然と立ち尽くす兵士たちの体一つ。食料を失った。武器を汚された。進軍を再開する気力さえ――。
誰もが作戦行動の続行不可能を察し、止むなく、そして黙って撤退することになった。その帰路、誰ひとりとして声の正体について話題に上げる者はいなかったという。
☆
兵士たちの狂乱状態を他所に、アシェルは罠にかかった小動物のように木に吊るされているリリィを迎えに行った。
「よう、お疲れさん。」
「タチサレェェェェ。」
「……もう演技は必要ない。」
「エンギッテナンノコトカシラタチサリナサーイ……って、あら?アシェルじゃない。もう良かったの?」
「ああ、バッチリだ。いい仕事だった。」
色白で華奢な体躯、乱れた金色の長髪、魔性を帯びるような不思議な目力。暗闇にこの姿が浮かべば恐怖心を駆り立てるのに不足はなかったろう。
リリィはパッと顔をあげて、悪戯っ子のように白い歯を覗かせた。
アシェルは吊るしていたワイヤーを切ってリリィを下ろすと、彼女は「うーん」と可愛らしく唸りながら伸びをした。
「それで、この後どうするの?」
「どうもしない。後はホグトンが自ら撤退していくのを見送るだけだ。」
「そっか。それにしてもよくこんな作戦が思いつくものね。」
『こんなものは戦争の定石をなぞったに過ぎない。』
アシェルはそう答えようかとも思ったが、リリィが感心しているところを見て水を差すのをやめた。それに、いつもよりもどこか気分がいい。
アシェルは作戦実行前にリリィに説明した内容を思い出す。それは先馬のデニスが戻って本隊に合流する前のこと――
「戦争には勝ち方がある。」
「ふふん、そんなの私にだってわかるわ!」
「言ってみろ。」
リリィは勝ち誇ったように不敵な笑みを浮かべると、アシェルに人指し指を突き出した。
「敵を全滅させればいいのよ!」
「脳筋やめろ。外れだ。」
「外れた!?おったまげ……。」
どこの言葉だよ、というツッコミはさておいて。『全滅させる』というのは戦争ではなく殲滅の話だ。そうなる前に既に戦争は決着している。
「むむむ。なら、相手の司令官を討つ……とか?」
「遠からず。」
「わかった!あのブタを〆るのね!」
「ハムじゃあるまいし。」
と言ったもののホグトンをここで拉致もしくは暗殺する、という発想は悪くない。ただどうしてこの娘はこうも血の気が多いのか。ホグトンへの並々ならぬ殺意をアシェルは感じとった。
「ならなんだって言うのよ。」
「いいか、覚えておけ。戦争の鉄則は三つだ。術を潰せ、戦意を削れ、そして思考を奪え。この三つを考えればいい。」
術とは戦うための武器や技能、そして人だ。戦意とは大義、あるいは採算を動機とした戦争意志。思考とは指揮官と軍隊を機能させる命令系統。人との戦争ならばこれらで戦況は如何様にも覆る。
「本来であれば一つでも十分な結果を得られるだろうが……。今回は奮発してフルセットをお見舞いしてやろう。」
――そして、当初の計画を実行した。
先馬のデニスが戻ってくるタイミングでアシェルが馬上へ奇襲。アシェルは気絶したデニスを型にシリコンマスクを作成し、その他の装備も拝借して成り代わった。
そして、ここからが本番だ。アシェルはデニスとして本陣へ合流すると作戦を実行するための野営地へ誘導。その道中と設営時に物資へとある細工を行った。
まずは予め準備していた塩酸と武器を手入れするための油をすり替えた。手入れのつもりで兵士が剣に塗りたくったものは強力な酸だ。夜明け前まで放置すれば錆ができるには十分だった。
さらにすり替えで手に入った油は食料置き場に忍ばせ、亡霊騒ぎに乗じてそれを燃料として盛大に放火した。その火の勢いは、発火に気づいた時点で手遅れ。後の祭りってやつだ。
騒動の口火を切ったのは亡霊役のリリィ。ルインのサポートで恙無く役を実行できたようでワイヤーアクションとスピーカーによる恐怖演出は絶大な効果をもたらした。
この部隊には敵意のない生物を特定できる索敵役はいない。それはアシェルの潜入時に調査済みだ。つまり攻撃する意思のないリリィと無生物であるスピーカーを感知することはできない。
武器の劣化で術と戦意を潰す。全ての食料を奪い進軍の継続意志を折る。恐怖と混乱により指揮系統を破壊する。以上をもって本作戦は終了だ。
後は『無貌』が仕事を果たせばこの戦争はこちらの勝利で終わる。




