66.過去回想 〜破滅の悪魔④〜
その後、アシェルは何度か密偵として邸宅に忍び込んだが、手術室らしき部屋はあっても治療にまつわる証拠は何一つ見つけることができなかった。
ヘレンゲルは結局、十億の資金を依頼人から借り受け治療を受ける段取りをつけた。
とはいえ、本当に治療をしてもらうわけはない。 もしギリギリまで証拠を見つけられなければ、十億を違約金としてキャンセルすることになる。
アシェルとヘレンゲルは訪問する日時を書簡で送り、その日まで邸宅を出入りする者を見張ることにした。
もしはじめから治療者が邸宅内に常駐しているようであればそれもよし。その者の身辺を洗えばいいだけだからだ。だが治療のために毎度外部から呼びつけているのであれば、邸宅内に証拠がないのも頷ける。
邸宅の敷地に入る方法は表と裏の二箇所。可能性の高い裏門をヘレンゲル、正門をアシェルで見張ること長らく。気づけば日にちは治療当日になっていた。その日まで特に怪しい者は見当たらず、入る者と出る者の顔も数も同じだった。
だが、当日のまだ日の出前。空がうっすらと青みがかってきたころ、裏門に一台の馬車が現れた。中は布がかかっていて中身までは見えないが、ヘレンゲルはそのまま観察を続ける。
「『多芸功者』、正体不明の馬車が一台、裏門から入った。」
「了解。そちらに向かいましょうか?」
「いや、問題ない。屋敷に入るときに馬車を出るはずだ。その時に顔を確認する。」
ヘレンゲルは双眼鏡を覗き、馬車から出てくる恰幅のよい白髭の老爺と枷をつけられた奴隷らしき痩せた少女を確認した。一人の衛兵に案内されて、屋敷に入っていく。
「『多芸功者』、奴だ。間違いない。」
「了解。決まりですね。一度合流しましょう。」
アシェルとヘレンゲルは急ぎ合流し、身支度を整える。ジェイ・フォンデマンの関与という情報を持ち帰るだけでも、今回の任務としては成功とって言っていい。だが、せっかくだ。言い逃れのできない物的証拠を持ち帰ることで完遂とすることを決定した。
日が天辺に上りきる手前、アシェルは再び車椅子に乗り、病弱な子どもを演じる。ヘレンゲルに手押しされながらチェイス邸に迎え入れられた。
以前と同じ応接室にて。
「お待ちしておりましたよ。アンジェロ様。貴方の決断に深く敬意を表します。では、費用の方のご確認をさせていただいても?」
「ああ、もちろんだ。」
あからさますぎる態度に、浅い敬意すら感じられない。ヘレンゲルは白々しさに辟易するが、形式上の受け答えはこなす。
チェイスは目の前で札束をカウントすることしばらく。最後の一束を確認すると。
「確かに。では、早速治療の方に移ります。」
「ああ。」
ヘレンゲルは長椅子から立ち上がり、車椅子を押そうとすると、チェイスがその行動を片手を上げて制止する。
「ここからはうちの者がお連れします。」
アシェルはヘレンゲルと顔を合わせ、大丈夫と一度頷く。
「では、よろしく頼む。」
衛兵がアシェルの乗る車椅子の取っ手を奪い、そのまま応接室を出ていった。無言のまま車椅子を転がす。
予定通りアシェルは治療室へと運ばれると、そこには銀製のトレイが見える。その中には注射器と薬が置かれていた。
咄嗟にアシェルはそれを麻酔薬だと判断し機を狙う。
衛兵が注射器に薬を入れると、アシェルに腕を出すよう迫った。アシェルは言われた通りに左腕の肘裏を天井に向けて差し出すと、衛兵は無警戒に注射針を腕に近づけた。慌てたようにアシェルは注射器に右手を添えて止める。
「注射……怖いので、ちょっとだけ心の準備をしてもいいですか?」
「チッ、早く――」
アシェルは衛兵が言い終えるよりも前に、添えていた右手で注射器を奪い取る。続けて姿勢を屈めていた衛兵の顎に左手掌打のアッパーをかました。
衛兵はバランスを崩し尻もちをつく。
「くっ、何すんだこのガキ……!」
怒った衛兵の前に子どもの姿はもうない。アシェルは床に転んだ衛兵の背後に周り、奪い取った注射器を首の静脈に突き刺す。ただ麻酔は数秒で落ちるような即効性はない。チョークスリーパーとの合わせ技でまともに声すら出させずに衛兵の意識を落とした。
頚静脈の位置と注射速度は散々ヘレンゲルから叩き込まれている。錯乱して暴れる患者に対しても素早く対応できるまでになったのだ。混乱で動きの鈍った衛兵に投薬するのはわけないのである。
アシェルは意識を失った衛兵を目立たない場所に隠し、準備室に向かう。事前に何度か潜入したおかげで屋敷内に関しては把握している。ジェイと奴隷の少女がいるとすればその場所だ。
部屋の前につくと扉に耳を当て中の様子を探る。口を塞がれた少女の唸り声とそれを煩わしがるしゃがれた声。間違いなかった。
アシェルは迷わずドアをノックすると、中からジェイが顔だけを覗かせる。そこにいるはずのない少年の姿に眉をひそめた。
ジェイは部屋の中を隠すようにさっと部屋を出ると、アシェルに問う。
「坊主、なぜここにいるのだ。衛兵はどうした?」
「衛兵さんは眠っていますよ。」
「まったく、職務中に居眠りか!度し難い!」
「ええ、本当に。」
アシェルは天使のような笑顔のまま、ブスリと後ろ手に隠していた注射器をジェイに突き刺す。ジェイは自分の身に何が起こっているのか理解する間もなく柔術で投げられ意識を失った。
「さて。」
アシェルは衛兵と同じようにジェイを部屋の奥に転がした。ポケットから鍵を取り出すと、口が塞がれていた少女の拘束を解く。
「もう大丈夫です。あなたの身柄は僕たちが保護します。」
状況が飲み込めない少女は、それでも自分を解放してくれたアシェルが敵ではないと少し安堵する。
「名前は?」
「……。」
「僕は『多芸功者』と呼ばれています。本名ではありませんが。」
「おーる、せかんど……?私はアイビー……。名字はないわ。」
「奇遇ですね。僕もです。」
まるでなんてことのない、小川での会話のように和やかに。ただ、時間的に余裕があるわけではない。麻酔で眠っている衛兵とジェイが見つかる前にこの屋敷を脱出しなければならないのだ。
「ではアビー。行きましょうか。」
アシェルはアビーが落ち着いたことを確認し、彼女の手を引いた。極端に体力のないアイビーを気遣い、ペースを合わせて逃走ルートを走る。ジェイを多くの目に晒さないように人の立ち入りを制限していたのだろう。そのおかげで裏口まで誰に会うこともなく辿り着いた。
一方のヘレンゲルもアシェルから脱出の連絡を受け、倒れた衛兵が見つかって騒ぎになったタイミングで目を盗んで屋敷を出た。
両者は裏口にて合流。アシェルはヘレンゲルにアイビーを預けた。
「では先生、この子をお願いします。」
「ああ。」
アシェルはここから単独行動に移る。確かに二人はアイビーという証言者まで得た。だが、まだ足りない。徹底的に逃げ道を潰すために、チェイスとジェイには追い討ちが必要だった。
「あ、あの!」
少し躊躇ったあと、アイビーが声を上げる。
「あ、あの……私のトモ………いえ、まだあの男に捕まってる子がいるの。どうにか助けて……もらえないでしょうか?」
どこか訳ありげで、弱々しいお願い。自分が図々しいお願いをしていると理解しながらも、もう頼れるものがない少女の健気なお願いだ。
「アイビー、大丈夫です。その子も助かりますよ。」
彼女の痩せこけた顔がぱっと明るくなる。本来であればもっとたおやかな姿であっただろう彼女をこのようにした罪は重い。チェイスとジェイには報いが必要だとアシェルは決意した。




