62.リリィの憂鬱
イステカーマから帰還して、ちょうど一週間が経った頃だった。現地に残ったヘレンゲルより正式な通達が送られる。
『二十六名が原因不明の意識消失。第一症例をクレマとして寄生虫とは別の原因によるものと思われる。経過観察中ではあるが、『戒病』である可能性が非常に高い。』
その報告を聞いたリリィは精神的に大きなダメージを受けていた。閉じた世界で長年虐げられてきたリリィにとって、親しい間柄の人間が重篤な状況に陥る経験は初めてのことだったのだ。
「クレマ、大丈夫かな……。」
さしものリリィもプリンを食べる手が止まる。いつもなら1カップなど食べ終わるのに十秒もかからない量なのだが、おおよそ十五秒ほどの時間をかけて口に流し込んだ。
「お前、そんな深刻な顔しておいてその速度は何なんだ。傷ついてるんだか、そうでないんだかはっきりしろ。」
「き、傷ついてるわよ!でもね、いくら心が傷ついても美味しいものは美味しいの。この手は……止まってはくれないの……。」
「……。まぁ、思ったより元気そうで何よりだ。」
アシェルはリリィの暗い顔を見て多少なりとも心配していたわけだが、そういえばコイツ異常な精神力だったな、と思い出す。
「心配するな、とは言わんが向こうにはヘレンゲルがいるんだ。医療においては世界で最も信頼できる人が診てる。」
「うん……それも、そうね。私がくよくよしていても仕方がないのよね……。分かった!ちょっと気持ちを切り替えたいから散歩する!付き合ってくれるよね、アシェル?」
「時間はある。その程度なら。」
リリィはアシェルの無愛想な承諾に笑顔になる。
「ふふっ、今日のアシェルは一段と優しいわね!」
「勘違いするな。俺はいつも通りだ。」
違うのはリリィの様子だけ。だが、彼女は残っていたお茶をぐいっと喉に流し込むと、一つの気持ちの区切りがついたのか、少しだけいつもの笑顔が戻ったようだった。
アシェルとリリィは館を出ると、庭に植えられた花を見ながら散歩をする。別に二人の間にこれと言った楽しい会話はないまま穏やかな時間が流れる。
「そういえばヘレンゲルさんって、どうしてお医者さんなのに『死神』なんて物騒な名前なの?」
「あぁ、それは俺も思ったことあってな。本人に聞いたことがあるんだ。」
「へぇ~、それでなんて?」
「鉄血機構に所属する前だったか。世界を渡り歩いていた頃は『優しき死神』と呼ばれていたらしい。」
「かーむ?」
リリィは不思議そうに頭を傾ける。
「様々な貧困地域で、戦場で、多くの医療行為を続けてきた。その中で、どう見ても助からない人々の命を救い、時には苦しまないように命を絶つ。そんな姿がまるで死を操っているように見えたのだろうって。そして、いずれの患者も最後には穏やかな顔をしていたことからそう呼ばれることになったんだと。」
「でも今はただの『死神』よね?」
「ああ、あの人が鉄血機構に所属した時にそのまま『優しい死神』がコードネームになりかけたらしいんだが……。ただあの人はそれを『長過ぎる』と一蹴したらしい。」
その時のヘレンゲルの本心が何処にあるか、今のアシェルにも分からない。
本当にただ長いと思っただけなのか。
医療現場で意思疎通をとるのに短い方が都合がいいと判断したのか。
はたまた『優しい』と名前がつくことに何らかの抵抗があったのか。もしかすると照れくさかった、なんて可能性もあるがその真相は本人しか分からない。
「ふふ、なんだかイメージ湧くわね。確かにあの人ならそう言いそう。あ、だからアシェルのこともセカンドなのね。」
「確かにな。」
二人はそんな他愛もない会話を続ける。
その時、ふとリリィが視線を感じて屋敷の窓に目を向けると、ルインが二人の様子を眺めていたことに気がついた。
リリィは大きく手を降って、こっちに来て、とジェスチャーを送る。
ルインはペコリと一礼してから庭に向かい、二人がいるところに合流した。
「リリィ、どうされましたか?」
ルインは何か用があって呼ばれたものとばかり思っており、呼んだ張本人にその意図を尋ねた。
「一緒にお散歩でもどうかなって!」
「かしこまりました。」
「畏まらなくていいからね!?ただ一緒にお散歩したら楽しいかなって思っただけなんだけど……嫌だった?」
「そんなことはありません。お付き合いします。」
「やった!」
リリィは無邪気に両手でガッツポーズした。だがリリィはハッ、と何かに思い至った顔をするとスカートの前を抑えながらそそくさと前に出る。
「おい、どこに行く。」
「ちょっと……お花を積みに。」
「花ならその辺りにいくらでも咲いてるぞ。」
「もう、バカ!」
リリィは言葉を吐き捨てて屋敷に戻っていった。食事時に飲んでいたお茶でも膀胱に響いたのだろう、とアシェルがデリカシーのないことを考えながら彼女の背を見送った。
「本当に嵐みたいなヤツだな。」
そう呟いたアシェルの顔は普段見せないような穏やかな表情をしている。
ルインはその顔を見て心の底からホッとした。
「戻ってくるまで暇だな。」
「私は……いえ、そうですね。」
リリィに代わってルインと二人で庭を歩く。こうして二人でゆっくりした時間を過ごすのも久しぶりに思えた。アシェルは以前から彼女に聞いておきたことがあったため、これをいい機会にと尋ねることにした。
「ルイン、最近どうだ。」
アシェルはどう切り出していいか迷った挙げ句、反抗期の娘に対する父親みたいな語り口調になってしまう。もちろん本物のそれを見聞きしたことはないわけだが。
「どう……と申しますと?」
「いや、そうだな。すまん、聞き方が悪かった。単刀直入に聞こう。自由になりたいと思うことはないか?」
「あの……それは、もう私は必要ないということで――」
「断じて違う!俺は今でもお前がいてくれて本当に助かっている。だがな――」
アシェルは思い出していた。リリィを鉄血機構に迎え入れた日のことを。
『今や君は自由の身だ。このままここでゆっくり過ごすのもいい。好きに世界を旅するのもいい。必要があればそれなりの金銭も提供しよう。』
シルバーがリリィに提示した破格過ぎる条件。それはルインにしたって頼み込めば許容されそうなものだ。
「この先も危険な作戦はいくらでもあるだろう。命を失う前に俺との雇用関係を解消してもいい。あるいはルインさ良ければ、雇用関係を続けた上で作戦に同行しないことだって許そう。俺はルインの自由を尊重したい。」
鉄血機構に来た当初のルインはその生い立ちから、他の場所に身を置くことを恐れていた。
それは幼い頃より植えつけられた思い込みが尾を引いていたわけだが、あれから月日もたち、自身の過去を正しく評価できる今となればその恐怖も薄れているだろう。
つまり、自身のやりたいことに目を向けて歩き出してもいい頃合いなのだ。
それにアシェルはイステカーマでの戦いを経て、改めて思い知ったのだ。命をかける危険を。一歩間違えれば今ごろは全員があの世にいることだってあり得た戦いだった。
「お心遣い感謝します、マスター。」
その言葉の続きがどうであれアシェルは受け入れる覚悟であった。
「覚えていらっしゃいますか?私がマスターに拾われた日のことを。」
「ああ、もちろんだ。」
「……私も、あの日のことは一度も忘れたことがありません。」
それは七年ほど前に遡る。アシェルが初めて彼女に会ったのは、暗く湿った屋敷の地下だった。




