52.恐怖という名の毒
アシェルは背中越しに地面の冷たさを感じながら目を瞑る。心臓の鼓動、全身を巡る熱、流れ出る血液。その全てが鮮やかな感覚として刻まれる。
その感傷を阻むかのようにカタカタカタカタ、と『白骨幽鬼』は乾いた打音を鳴らす。力尽きたアシェルを見下して、侮り嗤う。
「何が可笑しい。まさか勝った、とでも思っているのか?」
『白骨幽鬼』にアシェルの言葉は届かない。いたぶっている蟻の抗議に耳を貸す子供はいない。ただ、死にかけている虫けらの無様を嗤い続けるのだ。
「言葉が通じないか。悪鬼らしいことだ。」
アシェルは力感なくよろよろと立ち上がると、再び拳銃を手にして両手で構えた。
「ベンゾジアゼピン……と言っても伝わらないだろうな。薬の副作用で本調子じゃないんだ。見くびってくれて助かるよ。」
アシェルは自身の不調の正体を明かした。それは恐怖による筋肉の硬直も然ることながら、それ以上に投薬の影響であることを告げる。
そもそも生粋の強者ですら死に至らしめる恐怖に生身の人間が無策で耐えられるわけがないのだ。当然、無能力者であるアシェルに【威迫】の特性を無効化する手段はない。だが、恐怖自体はあくまで自身の生体反応だ。薬物でコントロールすることは可能である。
「まぁ、これはただの独り言だ。みっともない言い訳だと一笑に付してくれて構わない。」
アシェルは銃のサイトを覗き、丁寧に引き金を引く。それはまるで身体動作を調整をするように。
今度の弾丸はアシェルの視線の先に寸分違わず着弾した。
銃弾の直撃で目立った傷すらつかない『白骨幽鬼』は、それでもシンと静まり返る。アシェルの雰囲気が変わったことに僅かに警戒レベルを上げた。
「そう身構えてくれるな。所詮は弱者の悪あがきだ。存分に侮ってくれ。」
『白骨幽鬼』はアシェルの言葉を無視して腕を突き出しながら迫る。
だが、アシェルは素早くその軌道を読み、進路の修正ができないギリギリのタイミングで回避する。
「容赦なしか。」
アシェルは回避行動の直後に通り過ぎたはずの『白骨幽鬼』を目で追う――が、既にその視界の内にはいない。咄嗟に視線を左右に流し、消去法からその行方を察した。
―――上だ。
アシェルは再びその場を飛び退く。直後、先ほどまで立っていた場所に『白骨幽鬼』がのしかかる。その衝撃は地面がひび割れるほどに大きく。巻き込まれていれば確実に圧殺されていた一撃だった。
「そんな図体でノミみたいに跳ぶなよ。危ないだろ。」
『白骨幽鬼』は身を低くしてさらに臨戦態勢をとる。警戒度が増している。死にかけだったはずの獲物に疑念を覚え、からくり仕掛けのように首を傾げる。
「不思議か?俺がまだ動けていることが。」
――ついでに戦闘開始時よりも動きが冴えていることも。
アシェルは笑みをこぼす。わざわざ敵に手の内を明かす面倒はかけないが、思い描いていたシナリオ通りに事が運んだことに安堵した。
実のところアシェルは攻撃を意図的に受けていた。直撃する寸前に飛ばされる方向に跳ぶことで威力を和らげ、自然に被弾したように偽装しながら受け身まで取っていたのだ。僅かにタイミングを見誤りはしたものの見た目以上に傷は浅い。
ただ、一歩間違えれば死傷に繋がっていた危険な行為であったのは間違いない。だがそうせざるをえなかった理由はある。それはある種の賭けだ。命を賭け金にして望む結果を得るための賭け。それだけのリスクを冒してまで手に入れたのは―――。
天授があれば。祝業があれば。そんなありもしない希望に縋るほど集中力を欠いていればこの戦いに勝てはしない。それを察したアシェルは自らを危険に晒し、実際に負傷まですることで無意識の生存本能―――所謂、火事場の馬鹿力を呼び起こした。
手負いの獣。猫を噛む窮鼠。生物は死の危機に瀕したとき、恐怖する神経を麻痺させ自身の体のリミッターを解除させる『脳内麻薬』が分泌される。
「これは後でへレンゲルに怒られるだろうな。」
この時、アシェルはもう一つの賭けに勝っていた。ともすればこの麻薬は投与した薬と反発して状況はさらに悪化していた危険すらあったのだ。無事に帰ることができたとして、死よりも恐ろしいへレンゲルの叱責は免れないだろう。
「もう恐れるものはない……。覚悟しておけよ、『白骨幽鬼』。」
覚悟も何も、単なるアシェルが勝手にやったことなわけだが。そんな不条理すらも理解できない敵の様子にアシェルはため息をついて再び銃を構えた。
続く攻防は苛烈を極めた。既に相手の行動を十分に観察していたアシェルは特殊な関節の構造を理解し、可動域をインプットすることで先読みの精度を向上させる。対して『白骨幽鬼』も銃弾を弾く硬度と圧倒的な膂力を押しつける戦いを強要する。
戦況は有効打のないアシェルが劣勢。それでも『白骨幽鬼』はどこか勝機を見出だせないでいた。押し切れそうでできない。あと一歩が届かない。焦るという感情を知りもしない人外はある種の嫌悪感を抱く。
やがて『白骨幽鬼』の何かが限界を迎えた。アシェルの一瞬の隙をついた『白骨幽鬼』は再び跳躍する。自重による暴圧は当たれば確実に仕留められる必殺の技。それを理解していた『白骨幽鬼』は常に出しどころを見極めていたのだ。そして、その時はやって来た。
しかし、それを理解していたのはアシェルも同様。のしかかりは強力な反面、物理法則に従って放物線を描くため軌道が最も読みやすい。アシェルは待ってましたとばかりに素早く残っていた手榴弾のピンを抜き、完璧なタイミングで着地点に転がす。
「だから跳ぶなと言ったんだ。危ないだろう?」
空を飛ぶことが出来ない『白骨幽鬼』には不可避のカウンター。地に着いた瞬間、胴体の下で手榴弾が炸裂した。逃げ場のない爆圧が腹部を抉り取る。だが―――
「致命傷にはならないよな!」
アシェルは『白骨幽鬼』が体を持ち上げたタイミングを狙い股下に滑り込む。流れる視界の中で瞬時に損傷箇所が右前脚付け根、左下後ろ脚付け根であることを確認。崩れかけた関節保護部を銃弾で破壊する。そのまま一度は潜り抜け方向転換すると、露わになった関節の狭い隙間にコンバットナイフを捩じ込んだ。
「まずは一本。」
人間で例えるならば股関節を成す骨の間に鉄板を挟まれたようなものだ。可動域が極端に制限されるのは言うまでもない。また体の構造上、ナイフを引き抜く器用な真似は『白骨幽鬼』には出来ない。
アシェルはさらなる追撃を仕掛ける。雑に振り回される『白骨幽鬼』の両腕を躱し、右前脚に飛びついた。同じように露出していた関節の隙間に直接銃口を当て、引き金を数回引く。
「これで二本。チェックだ。」
大きな図体を支える四本脚のうち二本が機能停止。もはや『白骨幽鬼』は立ち尽くすか倒れるかの二択を迫られる状況に陥った。ギギギギギ、と無理やり動こうにもナイフと銃弾が関節に挟まって動かない。方向転換すらままならない。背後に立ったアシェルに背を向け続けることしか許されなかった。
アシェルはカマキリのように膨らんだ胴体にすっと飛び乗った。
「どうした。笑わないのか?」
当然、『白骨幽鬼』に笑う余裕などありはしない。それどころか自我と呼べるものが生じて以来、初めての感情に――重ねて初めて動揺していた。
【白骨幽鬼】はその感情の名を知っている。知ってはいたが、理解はしていなかった。常に押しつける側にあったから。毒を持つ生物が自身の毒性に侵されることがないように。自分が抱くことは決してない感情だと思っていたから理解しようともしなかった。
『白骨幽鬼』は狂ったように頭蓋を回そうとする。もはや何のためにかはわからない。ただ無性にそうしたかった。自身を殺す敵の姿が見えないと言うのはこんなにも―――
「そうか、怖いか。」
ガキンッと百八十度、ようやく頭蓋が回った先にアシェルはいた。アシェルは頭蓋の中身を覗くと憎悪の目だと思っていた光の正体に気づく。
「チェックメイトだ。」
光っていたのは紛れもない、核だった。アシェルはそっと銃口を眼窩に挿し込むと躊躇いなく引き金を引く。核は砕け、光を失うと同時に乗っていた『白骨幽鬼』の体も崩れ落ちる。
遥か遠くで人々の歓声が上がるのが聞こえた気がした。アシェルはその時、ようやく皆に見られていることを思い出した。真っ先に思い浮かんだのは仲間の顔。勝てたとはいえ、結果は危ういものだった。心配させただろうという謎の確信まであった。少し戻りづらい、と思ったのも束の間―――
「なん……だ……?」
急に視界が歪む。無理もない。こうして無事でいられたのは脳内麻薬が働いていたからこそだ。神経に無茶苦茶な負荷をかけた反動が今になって一気に押し寄せて来ている。
「これは……少し……まずい……か。」
抗う余地なく急速にアシェルの意識が遠のいていく。『白骨幽鬼』に勝利したとは言え、未だ敵陣のど真ん中。今、意識を失うわけには―――
堪えようとする意思も虚しく、アシェルはその場に崩れ落ち意識を消失した。




