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黒縄の戦い(2)

 ユリアは伸ばした手がキラナに届くことがないことなど、わかっていた。

 それにそもそも手が届いたとして、キラナを上にあげる体力なんて自分にはないこともわかっていた。

 絶望が胸を覆ったとき、キラナの元へと飛び込んでいく人影が見えた。ウィリアムだ。

 彼はためらうことなく、キラナと共に下へと落ちていった。


「あ……ああ」


 ユリアは神殿の淵に座り込んだ。

 自分は二人に助けられておいて、彼らのために何もしなかった。

 やったのは助けるフリだった。こんな状況でもフリはしてしまった。

 ずっと聖女になるべく、教育されてきた。どう行動すれば聖女らしく見えるか、尊敬を集めやすいか、全部わかってやってきた。

 そして、いつも偉そうに、自分に汚れなどないと、他の乙女に対して振る舞ってきた。

 でも、実際は、フリだけなのだ。

 キラナのように本当に他人のために命をかけるなんてできない。

 ユリアは自分自身に失望した。


「終わっちゃったね。この神殿の下は黄泉へと続く穴。落ちたら絶対助からない」


 ラクシャーサがユリアの後ろに立っていた。


「さあ、ユリアも、もう終わりにしよ? 私が直接殺す気はなかったんだけど、しょうがないからやってあげる」


 ユリアはゆっくりとラクシャーサの方を振り返った。

 その手にはナイフが握られていた。

 ラクシャーサがユリアに向かって、ナイフを振り下ろす。

 ユリアは自らに迫る刃を見ながら祈った。


(どうか……正義の女神ヴァルナよ。二人を助けてください。彼らは自分の危険も顧みず、私を助けようとしてくれたのです。私はもう何もいりません)


 ユリアの目には、刃はまるでコマ送りのようにゆっくりと動いて見えた。

 ユリアはまぶたを閉じた。


「ごめんね、キラナ。顔を見たくないなんて言って」


 ユリアの瞳から涙が一粒溢れた。




 落ちたのだからそのうち地面に叩きつけられると思っていた。

 なのに、いつまでたっても地面にたどり着くことはなかった。


「この穴……どこに繋がっているの?」


 明らかに普通の穴じゃない。深すぎた。

 ウィリアムが答える。


「おそらく、黄泉だな」

「黄泉?!」


 黄泉って、幽鬼の棲家である黄泉のことだろうか。

 ヤマの神殿は黄泉に繋がっている……この穴はその入り口。そういうことなの?


「まさか、わかっていて一緒に落ちたの?」


 ウィリアムは何も答えない。


「どうしてそこまでしてくれるの? 『先生』をやってくれたことだってそう」


 ずっと思っていた。彼は私に親切すぎる。

 一緒に落ちるなんて単純に自殺行為だ。

 それなのに、なぜためらわず、彼は動けたのだろう。


「別に……。放っておけなかったから。これが底のある普通の穴だったら、なんとかできるはずだったし」


 放っておけなかった。そんな理由で、彼は私に命を懸けるのか。そして、こんな時ですら、彼は淡々と私に接する。私のことなんて、何とも思っていないかのように。

 でも、そんなのは、私はもう嫌だった。黄泉に落ちたらどうなるかわからないのに。本当に最後かもしれないのに。

 私は彼の背中に手を回した。彼の肩が驚いたときのようにピクッと動いた。


「キラナ?」


 ウィルの声が震えている。

 いつも控えめな彼のサイン。一緒に過ごした日々を思い返してみれば、漏れ出ていた彼の気持ち。


「あなたがウィルだったんだね」


 息を呑む気配がした。


「さっき、家に行ったとき、気づいたの。着替えた部屋に木刀が置いてあって」


 涙が溢れてきた。


「ずっと会いたかった。はっきり、顔も声も思い出せなくなっても、待ってた。あの村で待ってた。王城に行ってからだって、会いたかった」


 ウィルの胸に顔を押し付けた。

 彼の心臓の音が聞こえた。脈が少し早い。私の脈も早かった。


「どうして、言ってくれなかったの?」


 ウィルがゆっくりと息を吐いた。


「……言えなかったんだ。最初会ったとき、どこのどなたか存じませんがって言われて、キラナはもう、忘れたのかなと思って。そのあと、すぐに剣の乙女ってことになって、言える状況じゃなくなった」


 確かに言った。最初助けてもらったときに。


「髪の色も目の色も変わってるんだもの。わかりっこないよ」

「髪も目も、宝剣を使ううちに変わってしまったんだ。どんどん色が濃くなっていって」


 言葉を交わしている間も、私たちの体は奈落へと落ちてゆく。

 風圧を感じないのはウィルが法術で何かしているからだろうか。

 ウィルの唇が私の耳元で動いた。


「ずっと言えなかった。最後かもしれないから聞いてほしい。俺はキラナが好きだ。ずっと好きだった」


 私はウィルの顔を見上げた。

 今まで見たことのない表情をしたウィリアムがそこにいた。


「私も好きだよ。大好き」


 ウィルが私を抱きしめる腕に力がこもった。

 その時、私はあることに気がついた。


「ねえ、ウィル。宝剣の石が光ってる」

「え?」


 ウィルの背中に刺してある宝剣が金色に光っていた。

 それだけじゃない。深く落ちたせいで、すっかり小さくなってしまった穴の入り口も同じく金色に輝き始めていた。光はどんどん強くなる。

 やがて、その光は私たちのところまで届き、私たちを包み込んだ。




 光が晴れると、穴の上に浮いていた。


「なにこれ、どうなっているの?」


 黄色い光が球形の膜のようになって私たちをすっぽり覆っている。

 眼下には神殿の屋根があった。

 神殿の淵にユリアが膝をつき、祈るような面持ちで空を見上げている。

 その隣でラクシャーサが恐怖に顔を歪め、腰を抜かしていた。ラクシャーサの手元にはナイフが落ちている。

 私たちはユリアの視線の先を辿った。


「あれは……」


 金色に輝く大剣が空に浮いていた。


「アーカーシャ」


 ウィルがつぶやいた。

 さらにアーカーシャの輝きは強くなった。

 穴の底に落ちたはずの床材の一つ一つが金色の光を帯びて浮き上がった。それらはまるで決められた順番を守るように整然と元あった位置へと戻っていく。

 床だけではない。

 ゾンビドラゴンとの戦いで傷ついた場所が修復されていく。

 全ての修復が終わると、私たちを包んでいた光の膜はゆっくりと下に進み、ちょうど足が床につく高さのところで弾けて消えた。


「キラナ」


 ユリアがこちらへと両腕を伸ばした。


「ユリア!」


 私も捻った足を庇いながらユリアの元へ走った。

 近くへ来た私をユリアが抱きしめた。


「よかった……二人が無事で」


 ユリアは泣いていた。

 私も彼女の背に腕を回す。


「それはこっちのセリフだよ」


 私の目からも涙がこぼれた。

 私たちの隣ではウィルが床に落ちていたナイフを蹴飛ばし、ラクシャーサの腕を捻り上げた。


「抵抗しないんだな」

「……」


 ラクシャーサは無反応だった。

 空の上に浮かぶアーカーシャを見つめているようだった。

 ユリアが私の体をゆっくりと離した。


「キラナ。空を見て。アーカーシャの選定が始まりますわ」


 空を見上げると、厚かった雲は晴れ、東の空がうっすらと明るくなっているのに気がついた。

 薄藍色の空の下、アーカーシャの輝きはさっきより落ち着いていた。

 ぼんやりと金色の光をまとうのみだ。

 アーカーシャがゆっくりと私たちの方へと降りてくる。


「誰が選ばれても恨みっこなしですよ」


 ユリアがいたずらげに微笑んだ。


「もちろん」


 私も笑い返した。

 そして、アーカーシャはユリアの胸に吸い込まれるようにして消えた。

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