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ユリアとヴィルヘルム(2)

 殿下が手紙で指定した場所は、ダンスの練習をする場所としては疑問がある場所だった。

 一歩足を踏み入れると、バラの香りが鼻腔をくすぐる。

 城の中だというのに、一面に黄色いバラが咲いている。中央には大理石の歩道があり、そこを通って、中央の広間に行けるようになっていた。

 歩道は少し高い位置にあり、階段を登って歩道に上がると、バラの花がちょうど足元を飾った。だから、ドレスで歩道を歩いても棘に引っかかることはなかった。

 屋根と壁は球形だ。ガラスでできていて、部屋全体が青空に覆われている。

 歩道を歩いていると、まるで空の中に放り出されたかのような錯覚を受けた。

 なのに、直射日光のような強い日差しはなく、ただ穏やかな陽気が庭園内を満たしている。ガラスである程度遮光されているのだろう。

 もちろん風もない。だから、バラが風に葉を揺らすこともない。

 全く音がせず、棘で傷つくこともなく、日に焼かれることもない。非現実的で不思議な場所。それが王城に唯一ある空中庭園アルカディアだった。

 歩道を渡り切ると、すでに殿下がフォリーの中にある長椅子に座って私を待っていた。一緒に置かれているテーブルの上にはなぜか焼き菓子とティーセットが並んでいる。

 殿下は私に気がつくと、腰を浮かせた。


「こんにちわ。キラナ。こうやって顔を合わせるのは半年ぶりだね」


 金色の髪に宝石のように輝く明るい紫色の瞳。黄色いバラたちに囲まれても、その金髪の輝きは特別だった。少しも印象を損ねることがない。


「お久しぶりです。殿下。お元気そうで何よりです」


 私は普通のことしか言えない。こういうとき、なんて声をかけるべきなのかわからない。他の乙女だったら、もっと気の利いたことが言えるのかな。

 殿下が笑みの形に紫水晶の瞳を細めた。


「緊張しているみたいだね。さあ、隣に座って。まずはお茶にしよう。キラナが好きだって聞いて、タルトは木苺のものを用意したんだ」


私が木苺のタルトが好きって誰から聞いたんだろう。ウィリアムかな。


「今日はダンスの練習ですよね?」

「それって僕たちに必要だと思うかい?」


 殿下が小首を傾げた。こちらに近づき、私の手をとる。

 私を殿下が座っていた長椅子まで誘った。


「君となら踊ることなんてわけないって僕は思ってたんだけど。それよりはデートをしたかったんだ。僕たちは夫婦になるかもしれないからね」


 デートって……殿下に握られた右手が熱い。

 急に強く腕を引かれて体が少し殿下の方に傾いた。耳元で殿下が囁く。


「あと、僕のことはウィルって呼んでって言ったのに。いつの間に殿下に変わったの?」

「それは……」


 いつからだろう。でも、確かに最初はウィル様って呼ぶ努力をしていた気がする。


「君の一番近くにいた人が僕のことを殿下って呼ぶからかな」

「ウィリアムが? それだけじゃないと思いますけど」


 だって、ユリアだって、誰だって、殿下のことは殿下って呼ぶし。普通、殿下って呼ぶものだ。


「一番近くにいた人って聞いて、君はウィリアムを想像するんだね」

「!」


 大きく心臓が跳ねた。これってもしかしてまずかった?

 実際、王城に来て、一緒にいた時間が一番長かったのは……ユリアかもしれない。ウィリアムかもしれない。わからないけど、でも。殿下の前でウィリアムの名前は出さない方が良かった。


「タルトのことを言ったときも、君はウィリアムを連想したのかな」


 図星だ。言葉を無くしていると、殿下が右手で私の腰を抱き寄せた。


「ねえ、黄色いバラの花言葉って知ってる?」

「なんでしょう」


 私は殿下から顔を背けた。顔が近い。恥ずかしくて目を合わせていられない。

殿下の左手が私の右手から頬に移った。強制的に顔を正面に引き寄せられる。整った顔が目の前に現れた。金色のまつ毛が瞬きするたびに揺れているのすら見える。

 ああ、もう、吐息が当たりそう。


「嫉妬っていうんだよ」

「……ごめん、なさい」


 殿下が私の体から手を離した。

 私は立っていることもままならず、長椅子に座り込んだ。

 殿下が私の正面に立っている。だけど、私は顔を上げることができない。

 殿下のことが、少し、怖い。

 いやいやいや、A級の幽鬼にだって勝ったっていうのに、なんで殿下のこと怖がったりするの。変だよ、私。殿下のことなんて、いざとなったら……やろうと思えば、制するのなんて簡単、なはず。

 どうすることもできず、ただ俯いていると、上から微かに笑い声が降ってきた。


「ま、ウィリアムのことはキラナより僕の方がずーっとずーっとよく知っているけどね。付き合いの長さが違うから」


 あれ、そっち? 嫉妬って、そういうことなの?

 ウィリアムが最近ずっと、私に時間を割いていたから。だから、私に嫉妬したのかな。

呆気に取られて顔を上げると、殿下が肩を揺らして笑いを噛み殺していた。


「そんなに安心したような顔しなくてもいいだろう? 全く、困った乙女だね。君は」


 殿下がちょうど人一人分くらい間を開けた場所に腰を下ろした。


「君は第一候補の乙女で、僕は第一王位継承者だ。そして、アーカーシャの選定まであと十日もない。選定が終わり、王妃が決定すれば、すぐに婚姻の儀をすることになる。その夜に僕たちがすることは、わかるよね?」

「……ある程度は」


 わかっているつもりだ。


「君の様子を見る限り、全然、覚悟が足りていないように見えるんだけど」


 覚悟。それは、殿下に抱かれる覚悟ってことだろうか。

 そう言われても、私には想像もつかない。目の前の、この美しい王子様と結婚して、夫婦関係になるだなんて。自分がそれをどう思っているのかも。


「殿下は、その……なんとも思わないんですか? 私が妻になることについて。この前まで第一候補の乙女はユリアでした。多分、異形のことがなければ、今でもそうだったでしょう。急に私に変わってしまって、殿下は戸惑ったりしないのかなって」


 そうだなあ、と言いながら、殿下がポットに手を伸ばした。

 私が代ろうとしても、それを制して、殿下は二つのティーカップに紅茶を注ぎ、私の前に置いた。


「君は今まで僕が出会ったどの女性よりも純真だ。そんな君に僕はどういう態度で接すればいいか悩んでいたんだけど、きっと、すべて正直に話した方がいいんだろうな」


 殿下がカップに口をつける。カップを運ぶ動作は優雅そのもので、さっきまでの少し怖い殿下の影はどこかへ行ってしまったみたいだった。


「ユリアのことは好きだよ。彼女は努力家で、能力も高くて、彼女なら申し分ない王妃になれると思う。僕の伴侶にふさわしい。乙女の中では一番、彼女を気に入っている」


 やっぱりそうなんだ。だって、ユリアは私たちの中で圧倒的に美しいし、可憐で、それでいて賢いもの。

 その時、私はふと気がついた。

 私、夫になるはずの男の人が、私より他の女性を好きだと言っても、全然気にならないんだな。まあ、制度で結婚するんだし、こんなものなのかもしれない。


「でもね。別に結婚するのが他の乙女であっても、僕は構わないと思っている。君のことも、僕は結構気に入っているしね。乙女が誰であっても僕は愛してみせるよ。それに、僕にとって一番大切なのは、王妃が誰かなんてことよりも、この国の、引いては世界の政治だ」


 恋とか何とか、そういうものに殿下は興味がないらしい。

 さらに、女性に対するこだわりもあまりないらしい。


「君はすごく強いみたいだし、ユリアとはかなり違うやり方だけれど、僕の伴侶として活躍してくれるだろう、とは思ってる。だから、もし君が王妃になったときは、政治面でも協力していけると嬉しいな」


 そう言うと、殿下が私の方に右手を差し出した。


「はい、わかりました」


 私は同じく右手で殿下の手を掴む。握手だ。

 よかった、これなら殿下ともなんとかやっていけそうだ。私は胸を撫で下ろした。


「そういえば、ウィリアムから聞いたんだけど、僕に聞きたいことがあるんだってね。何かな?」


 そうだった。一番聞きたかったことを忘れるところだった! そのためにここまでがんばったっていうのに。


「少し、長い話になるかもしれないんですけど、いいですか? 私の幼馴染みたいな男の子の話です」


 殿下が楽しげに微笑んだ。この人は本当に上品に笑う人だ。


「いいよ。まだ時間はあるし、聞かせて」


 私は昔、草原で一緒に修行をしたウィルについて話した。ウィルが、他の誰よりも強かったこと、殿下と同時期にヴァルナの士官候補学校に行ってしまったこと。そして、殿下と同じ、美しい金髪と紫色の瞳の持ち主だったこと。ユリアに聞いたことも合わせて話した。

 殿下は私が話し終わるまで、一言も口を挟むことなく、最後まで丁寧に話を聞いてくれた。


「それで、キラナは僕がそのウィルかもしれないって思ったんだね」

「はい」

「それを確かめてくて、君は第一候補の乙女になれるよう、がんばったんだ?」

「はい」


 殿下が指先でほおをかいた。なんだか殿下らしくない動作だ。


「君はそのウィルのことをどう思っているの?」

「大切な友達、です。私は彼との約束を守りたいんです」


 ユリアは愛している、なんて言っていたけれど。


「まあ、なんとなく、話の全容はわかったかな」


 ちょっと悪い顔で殿下がニヤリと笑った。これは全く殿下らしくない顔だ。

 殿下もこんな、友達とふざけ合うような表情で笑うことがあるのね。


「キラナはもう気づいているだろう? 僕がそのウィルかどうか。どっちだと思う?」

「え?」


 殿下がウィルかどうか。私は今どっちだと思っているんだろう。

 じっと殿下の顔を見つめた。サラサラの金髪と輝く紫色の瞳は初めて会ったときと変わらない。この金髪を見て、私は殿下がウィルなんじゃないかと思った。約束を守って、私に会いにきてくれたのかなって思った。だけど。


「殿下はウィルではない、と思います」


 今は、あの時より、私は殿下のことを知っている。ウィルと殿下では性格が違いすぎる。性格なんて変わってしまうものだから、そんなに信用できるものではないけれど、でも、それを置いても、殿下は違う、と感じるのだ。


「そう。僕はウィルじゃない。士官候補学校に行く前、僕は確かに城にはいなかったけれど、君の村の近くにもいなかった」

「そうですか……」


 でも、手がかりが完全になくなったわけじゃない。殿下の同期であることは間違いないのだ。


「私が話したウィル像に近い人は学校にいませんでしたか?」

「いたよ。僕にはウィルが誰のことかわかる」


 私は思わず椅子から立った。


「教えてください!」

「うーん。教えてあげてもいいんだけど……君が自分で気づくことに意味があると僕は思うな」


 そんな……知ってるなら教えてくれてもいいのに。やっと見つけた手がかりなのに。


「殿下のケチ」

「あはは。仕方ないなぁ。ヒントを一つだけあげるよ」


 殿下が人差し指を口元に立てた。


「彼はヴァルナにいる。君が通っている練武場にも顔を出す人物だ」

「そうなんですか?」


 だったら私、もう会ったことがあるのかも。

 それなのに私、気が付かなかったのかな。ウィルも私だってわからなかったのかな。


「アーカーシャの選定までに、君のウィルが見つかるといいね」


 庭園に風が吹いた。ここでは風なんて吹かないはずなのに。

 黄色いバラの花びらがフワリと巻き上がる。殿下の髪がそれに合わせてキラキラと光っていた。

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