決意(1)
気がつくと、自室のベッドにひっくり返っていた。少し休むつもりが完全に寝落ちしていたみたいだ。すでに陽が沈んでいる。部屋は真っ暗だ。ベッドサイドにある時計が九時を指している。
「食堂は朝七時から夜七時まで……もう、終わってる」
ガッカリして、頭を枕に押し付けた。
昼は食べられなかった。だからせめて夜は行きたかったのに。
「シャワーだけでも浴びないと」
今でも肌がピリピリと痛む。それだけじゃない。心なしか、体の芯が熱を持っているような感じがする。
けれども、起きあがろうとしても、ちっとも体が動こうとはしなかった。
「もう、やだ」
修行場でも、議事堂でも、ここにあるのは蔑みの目だけだ。
ヴァルナに来たのは自分で選んだことじゃない、逃げ場なんてなかった。ウィルが、殿下が、私が来ないと私の国を潰すって言った。
あのとき、村のために大蛇を倒したりしなければ、私はまだ村にいられただろうか。何が間違っていたんだろう。私、何か悪いことした?
「ウィルに会いたい……」
殿下だというのなら、ちゃんと話がしたい。
私を放っておかないでほしい。せめて一緒にいてほしい。どうして顔を見に来ることすらしてくれないんだろう。あんな強引に連れてきておいて、無責任だ。
「ウィル……」
コンコン。ノックの音がした。最初は空耳かと思った。
コンコン。でも違う。誰かが部屋のドアをノックしている。
「ウィル?」
彼がそこにいるような気がした。
しかし、ドアを開けても誰もいない。
「あ……」
月明かりに廊下を曲がっていく人影が見えた。残像のように残る、金色の光。あの金髪は。
「ウィルなの? 待って」
ウィルが消えた角まで走った。すると、その先の廊下をウィルが歩いていた。私は彼の影を追いかけた。
どこへ向かっているのか、王宮の中心から外れた方へウィルは歩いていく。私がギリギリ追いつけるくらいの速さで、彼は進む。
やがて、廊下が途切れ、大きな庭園へ出た。
中央に石畳が敷かれているものの、他の場所と比べると手入れがなおざりで、隙間に土が溜まり、ところどころ雑草が生えたままになっている。その先には高く黒い鉄製の塀があり、塀には荊がぎっしりと茂っている。塀の上端から石造の屋敷が見えた。
ウィルは石畳の中央を歩き、そして、塀の中に消えた。
「こんなところが王宮の中にあったんだ」
気味が悪かった。
月の光の中に佇む屋敷は、この白亜の宮殿の中で、明らかに異物だった。清廉さが消え、悪徳にただれたような印象がその屋敷にはあった。荊はそれを閉じ込める檻なのだ。
塀の中に入ると、塀だけでなく、屋敷自体も荊に覆われていることがわかった。人の気配はないのに、蔦の内からは毒虫の気配を感じる。まるで、入って来る人を拒んでいるみたいに。
玄関の右上にある窓にチラリと金色が掠めた。ウィルだ。
もしかしたら、私は入っちゃいけない建物かもしれないけれど。でも。
私は屋敷の中に入った。
屋敷の中は外から見たほどには酷い状態ではなかった。
掃除もされているし、人が生活している雰囲気がある。調度品も質の良いものが置かれていた。少なくとも、私の部屋よりはこちらの方が住み心地が良さそうだ。
「この部屋、だったよね」
私は屋敷の二階にあるドアの前に立った。屋敷に入ってからウィルの姿は見ていない。きっと、まだこの部屋にいるはずだ。
息を整えて、ドアを二回ノックした。すると、ドアの内側から二回ベルを鳴らす音が聞こえた。
「失礼します」
ドアを開けると、そこは、物置のような部屋だった。
家具もなく、カーペットも惹かれず、カーテンもない。ただ、中央に椅子が置かれ、そこに女が一人、座っている。
女の前には大きな竪琴があった。
「あの、ここに……殿下が来ませんでしたか?」
女から返事はない。
近寄ってみると、女は竪琴を弾いていた。弾いているとわからなかったのは音がしなかったからだ。女の指は弦を弾いているけれど、弦はちっとも震えていなかった。全て錆びているのだ。
彼女の瞳には光がなく、目の周りは黒く落ち窪んでいた。頬がこけ、唇は乾燥で割れている。髪に艶はなく、バサバサで、手入れをしていないことは確実だった。体は痩せほそり、かろうじて指を動かしているだけのようだ。
言葉が出なかった。
「ねえ」
いきなり後ろから声をかけられて、私は素早く壁際に飛んだ。
私が立っていた場所には、長くまっすぐな髪を縛りもせずそのままに背中側に流した女が立っていた。肌は青白く、髪も同じように白かった。琴を弾いていた女と同じように痩せているが、彼女の目はギラギラと異様に輝いている。まるで、爬虫類が獲物を見つけたときのような輝きだった。
彼女が妖艶に微笑んだ。
「ふふふ。こんなところに剣の乙女が何の用?」
彼女の見た目にそぐわない掠れた低い声だった。
「あ……私は……この屋敷にウィル様が入っていくところを見て、彼を探しに」
「そう。でも残念ね。殿下はここに来ていないわ。来るはずがないもの」
ゆらり、と彼女が私の方へと近づく。
何か、この人はおかしい。いや、そもそも、琴を弾いている女の人だって変だ。
こんな寂れた屋敷に女が二人。一人は廃人のようで、一人は……視点が合わない狂った瞳をしている。
心の中で警鐘が鳴る。直感がヤバいと告げている。
どうやらとんでもない場所に迷い込んでしまったみたいだ。
「あなたは、誰なの? ここは何?」
時間稼ぎにもならないようなことを私は聞いた。
なぜか嬉しそうに彼女は答えた。
「ここは離宮。そして、私はアイリーン。リシよ」
リシと言われても、にわかには信じられなかった。
あまりにもシルヴィア様と雰囲気が違いすぎる。
シルヴィア様が聖女なら、アイリーンと名乗った女の人は魔性だった。
どちらも一見美しいけれど、アイリーンの持つ美しさは人の心を絡めとるような怪しさがあった。関わった人を狂わせようとする美しさだ。聖女の名に全く似つかわしくない。
唇の間から見える舌が艶かしく、月光に光る。その手には細い注射器があった。中に透明な薬が入っている。
「さあ、一緒に遊びましょう」
アイリーンの口角が、頬の皮膚が引きつれるほどに、上がった。
一瞬で腕に鳥肌が立った。警鐘が最高潮に達した。
私は部屋の入り口を目掛けて走った。
床を這うような笑い声が追いかけてくる。
階段に差し掛かったとき、後ろから強く腕を引かれて、床に倒れた。
アイリーンが私に馬乗りになった。
「どうして逃げるの? 大丈夫。怖くないわ。あなたも私たちと一緒にここで暮らせばいい。さあ」
どかそうとして彼女の腕を押したけれど、びくともしない。こんな体型の女の人に自分が押し負けるなんて信じられなかった。ものすごい力だった。
注射器の針が二の腕に向かって振り下ろされる。針が刺さろうというギリギリのところで、アイリーンの手首を握った。
「抵抗しても無駄なのに、バカな子」
「……!」
力いっぱい押しのけようとしたけれど、止めるのか精一杯だった。針先が二の腕の上で震える。法術を使いたかったけれど、そんな余裕すらなかった。
明らかに部が悪かった。
馬乗りにされている上に、相手は右腕、こっちは左腕なのだ。
少しずつ針が近づいてくる。
このままでは針が私の肌にたどり着くのは時間の問題だった。
もう、ダメだ。と思ったそのときだった。
突風が吹いて、アイリーンの体が飛ばされたと思ったら、私は宙に浮いていた。廊下の端にある窓が風で開き、私の体は風に乗せられたまま、窓から落ちた。




