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みんぱくの小さな迷宮案内人~忘れられた宝物と、学芸員補の展示日誌~  作者: 明石竜


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第七話 タビはどこから来た

 研究部のオフィスは、いつ訪れても紙とコーヒーの匂いがした。

 書類の山が机の三分の二を占領し、その隙間にノートパソコンが半分だけ顔を出している。窓際には、空になったコーヒーの缶が三つ几帳面に一列に並んでいた。散らかっているようでいて、そこには九条なりの秩序があるらしい。ほのかは、その山を崩さないように気をつけながら机の端へ近づいた。

「九条さん、これ、山内さんの件の報告書です」

「ああ、ありがとう」

 九条は珍しく手を止めて、両手で丁寧に受け取った。いつもなら片手で受け取って、視線も上げないのに。ほのかは、それだけで少し嬉しくなった。

 ページをめくる音だけが、しばらく続く。

 西アフリカの町名、当時の調査チームの記録、若き日のジャン=ピエールの写真の複写。ほのかが、収蔵資料室で何時間もかけて掘り起こした資料が、九条の目の下を一枚ずつ通り過ぎていく。九条は途中で何度か手を止めた。赤ペンで印をつけるでもなく、ただじっと文字を追っている。

「……なるほどな。よく見つけたな、この記録」

「地域と年代が分かっていたので、当たりをつけて探しただけです」

「その『当たりをつける』のが難しいんだが」

 あまりに率直な言葉に、ほのかは、思わず瞬きをした。

 九条は最後のページまで読み終えると、ペンを置いた。

「物の向こうにいる人間を見る、か。山内という人が言ったんだったな」

「読んだんですか」

「お前が書いたんだろう」

 当然のことのように言われて、ほのかの頬がじわりと熱くなった。

「別に、九条さんに読ませるために書いたわけじゃ……」

「報告書は、読むものだろう」

 そっけない返しだった。けれど、その口元が、ほんのわずかに緩んでいるのを、ほのかは見逃さなかった。この人は、こういうところがある。素直に褒めるのが驚くほど下手なのだ。

             ☆

 その日の夕方、二人は収蔵資料室からの帰り道を並んで歩いていた。

 閉館時間が近づき、廊下の窓には、橙色の西日が長く差し込んでいる。床のリノリウムに、二人の影が細く長く伸びていた。人の気配は、もうほとんどない。遠くで、清掃員のカートがカタカタと車輪を鳴らす音が聞こえるだけだった。

 そのとき。

 廊下の先を、何かがすっと横切った。

「……あ」

 ほのかが声を上げるより先に、九条が足を止めていた。

「九条さん?」

「今、何か……」

 珍しく、九条の声がわずかに揺れていた。

「猫くらいの大きさの、何か……いや」

「見えたんですか、九条さんにも!?」

 ほのかは、思わず九条の袖を掴みそうになって、慌てて手を引っ込めた。

「いや、待て。見えたというか……視界の端に、何かがよぎった気がしただけだ」

 九条は、自分に言い聞かせるように首を横に振った。

「猫だろう。この時期、外の植え込みに、野良猫が出るという話も聞く。どこかから紛れ込んだのかもしれない」

「猫にしては、輪郭がぼんやりしてませんでした?」

「見間違いだ。暗かったからな」

「まだ、夕方ですよ。こんなに明るいのに」

「……日の傾きで、影が長くなっていた」

 頑なに言い張る九条の横顔を、ほのかはじっと見つめた。眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ廊下の先に残っている。追っているのだ、まだ。あの、何かが消えていった方向を。

「九条さんも、ちょっとは気になってるんじゃないですか」

「調査上、可能性は排除しない、というだけの話だ」

「はいはい」

 ほのかは、こみ上げてくる笑いを肩を揺らして、なんとか堪えた。

 九条は居心地悪そうに眼鏡を押し上げて、先に歩き出した。その背中は、いつもよりほんの少しだけ、早足だった。


 その夜。

 閉館後の博物館で、ほのかはいつものように巡回をしていた。

 オセアニア、アフリカ、アジア。順に展示室を回り、ケースの中の品々に、心の中で挨拶を重ねていく。

 仮面はいつもの角度でひっそりと佇み、太鼓は深い影の中で沈黙していた。

「今日は静かだな」

 そう呟いた、そのときだった。

 視界の端を、見慣れた小さな影がふわりと横切った。

「タビ?」

 声をかけると、影はいつものように、こちらをちらりと見た。

 けれど、今夜は、少し様子が違った。すぐに逃げるように消えるのではなく、数歩先でぴたりと止まって、じっとこちらを待っている。

 ほのかが一歩、近づく。

 タビも一歩、先へ進む。

 もう一歩、近づく。

 また一歩、進む。

「……ついてこいってこと?」

 問いかけに、答えはない。けれど、影は確かにほのかがついてくるのを確かめるように時々、こちらを振り返った。

 ほのかの胸が、とくん、と鳴った。怖さよりも、どこか、遠足の前の夜のような落ち着かない高鳴りだった。

「本当に、案内してくれてるんだ」

 ほのかは、チェック表を胸に抱えてその後を追った。

 タビは展示室を抜け、一般来館者用の通路を横切り、やがて「STAFF ONLY」と書かれた金属の扉の前で止まった。

 扉はいつの間にか細く開いている。ほのかの記憶では、そこは普段、施錠されているはずだった。

(閉館後なのに、どうして開いているんだろう。あとで警備室に報告しないと……)

 扉の向こうは、別世界だった。

 床のリノリウムは色褪せて、ところどころ擦り切れている。壁の塗装は黄ばんで、角が欠けていた。天井の蛍光灯は半分ほどが切れていて、点いているものも、頼りなく明滅している。空気には、埃と古い紙と、かすかな樟脳の匂いが混ざり合っていた。

 展示室の、あの整えられた静けさとは違う。ここには何十年もの時間がそのまま、うずくまっているようだった。

「こんなところ、あったんだ……」

 ほのかは、足音を殺して進んだ。二年近く働いてきたのに、一度も足を踏み入れたことのない廊下だった。

 タビは、その廊下を迷いなく進んでいく。小さな影が明滅する蛍光灯の下を通るたび、輪郭が闇に溶けたり、浮かんだりした。

 廊下は二度、曲がった。古い倉庫の扉が並び、錆びた台車が壁際に打ち捨てられている。段ボールの山、割れた梱包材、いつのものとも知れない色褪せた掲示物。ここは博物館の忘れられた裏側なのだと、ほのかは思った。

 やがて、廊下の突き当たりで、タビがぴたりと止まった。

 そこに、扉があった。

 見覚えのない扉だった。

 厚い、古びた木の扉だ。塗料は、ところどころ剥げ落ち、その下から黒ずんだ木目が覗いている。表面には、色褪せたプレートが斜めに貼りつけられていた。

「関係者以外立入禁止」

 文字は、半分ほど掠れて消えかけている。かろうじて読めるのは、「関係」と「禁止」の二か所くらいだった。四隅のビスは錆びて、赤茶色の染みが下の木に滲み出ている。

「こんなところに、扉があったなんて……」

 展示課の職員として、何年も館内を歩いてきた。配置はほぼ頭に入っているはずだった。それなのに、この扉の存在にまったく気づいていなかった。

 タビは、扉の前でじっとこちらを見上げていた。

「開けてほしいの?」

 ほのかはためらいながら、取っ手に手を伸ばした。真鍮の取っ手は冷たく、ざらりとしていた。長い年月で、表面が細かく曇っている。

 そっと力を込めてみる。

 けれど、扉は動かなかった。

「……鍵がかかってる」

 その向こうからは、かすかに冷たい空気が流れてくるような気がした。

 タビは扉の前にちょこんと座って、ほのかを振り返っている。

 まるで、この先に何かがあると伝えようとしているかのようだった。

 タビはしばらく、ほのかを見つめていた。輪郭の曖昧な顔の中で、二つの目だけが、闇の中でかすかに光っている。

 やがて、影はゆっくりと立ち上がり、名残惜しそうに一度だけ振り返ってから、古い扉の向こうへ溶けるように消えていった。

「……タビ?」

 ほのかは思わず声をかけたが、返事はなかった。

 この扉の存在を知っている職員は、いったいどれくらいいるのだろう。

         ☆

 研究部のオフィスには、まだ明かりが灯っていた。

「九条さん。まだ、いらしたんですか」

「報告書の整理が、終わらなくてな」

 九条は、モニターから目を離さずに答えた。ほのかは、オフィスの入口で少し迷ってから、意を決して口を開いた。

「あの、お話ししたいことが」

「なんだ」

「館内の奥に、見覚えのない古い扉を見つけたんです」

 キーボードを叩く音が、止まった。

「古い扉?」

「はい。職員通路の奥に、普段誰も使わないような場所があって、その突き当たりに」

「どうやって、そこまで行った」

 ほのかは一瞬、言葉に詰まった。それから、正直に答えた。

「タビに、案内されて」

「案内、ね」

 九条は眼鏡を外して、眉間を揉んだ。呆れているのか、考え込んでいるのか、判別のつかない表情だった。それでも、手帳を引き寄せてペンを走らせ始める。

「そんな場所があるとは、聞いたことがないな」

「扉は開けていないんです。鍵がかかっていましたし、一人で中を調べるのも危険だと思ったので」

「賢明な判断だ」

 その一言が、意外なほど胸に沁みた。

 あの扉の先に、いったい、何があるのだろう。

 見覚えのない扉。その向こうに隠されている、何か。そして、そこまで自分を導いた、小さな影。

 タビは、何を伝えたかったのだろうか。

 気にはなった。けれど、あの扉の向こうには、誰かが長い間、大切に守ってきたものがあるのかもしれない。

 自分の好奇心だけで、そこに踏み込んでいいのだろうか。

 ほのかは、すぐには答えを出せなかった。

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