第十七話 名前のない箱
翌日、ほのかと九条は長谷のもとを訪ねた。
「長谷さん、少しお時間、よろしいですか」
収蔵庫の奥で作業をしていた長谷は、二人の顔を見て、すぐに何かを察したような表情を見せた。
「……また、その話か」
「はい。今日は、いくつか調べたことをお伝えしたくて」
ほのかは、これまで集めてきた情報を、一つひとつ丁寧に説明した。台帳に記された、現行データベースに存在しない収蔵番号。地下収蔵区画へ送られたとされる記録。水岡澄江の証言。そして、万博記念公園で見つけた、旧地下展示施設の跡。
長谷は黙ってその話を聞いていた。話が進むにつれ、その表情が少しずつ変わっていくのが分かった。
「……そこまで、調べたのか」
「はい。長谷さんが何を心配されているのか、少しでも理解したくて」
長谷は長い沈黙の後、深いため息をついた。
「……分かった。案内しよう。ただし、口外はしないでほしい」
「もちろんです」
長谷は収蔵庫の鍵の束を手に取り、二人を伴って職員通路の奥へと向かった。
あの見覚えのある古い扉の前に立つと、長谷は深呼吸をひとつしてから、鍵を取り出した。
「この鍵は、私が管理している。今、これを持っているのは、私だけだ」
重い音を立てて、扉が開かれる。ひんやりとした空気が、廊下に流れ出てきた。
「懐中電灯を用意してきました」
九条が、あらかじめ準備していた懐中電灯を取り出し、点灯させる。三人は慎重に石造りの階段を下りていった。
階段は思いのほか長く、下りきったところに広い空間が広がっていた。天井は低く、コンクリートの壁には、うっすらと湿気の跡が残っている。
その空間には、無数の木箱や、布に包まれた品々が、雑然と積み重ねられていた。
「これが……」
ほのかは、思わず声を漏らした。
埃をかぶった箱の一つひとつに、かろうじて読み取れる文字で簡単なメモが貼られている。「由来不詳」「仮番号068」「地域不明」――そんな文字が、あちこちに散らばっていた。
「万博の年に集められた品の一部は、こうしてここに保管されている」
長谷が穏やかに説明を始めた。
「万博が終わった後、大量の品々が一時保管のための施設に運び込まれたそうだ。その一部が、後に創設されたこの博物館へ引き継がれた。私が収蔵庫の管理を担当するようになった頃には、すでに古い資料として扱われていたよ」
「それで、この地下に……?」
「一時的な保管のつもりだった。いずれ、きちんと整理する予定だったんだ」
長谷は古い箱の一つに、そっと手を触れた。
「だが、時間が経つにつれ、優先順位は下がっていった。展示すべき品、記録の揃っている品を優先して整理していくうちに、ここにあるものたちは、いつしか忘れられていった」
「長谷さんは、それを、ずっと知っていたんですね」
「知っていた。だが、どうすることもできなかった」
長谷の声には、長年抱えてきた重さが滲んでいた。
「若い頃、私は、ここにある品を、いくつか研究員に相談したことがある。だが、『予算も人手も足りない』『優先順位が低い』と言われ、それきりになった」
「それで、地下には近づくな、と……」
「ここに来ると、自分の力不足を、いつも思い知らされる」
長谷はそう言って、視線を落とした。
「それに……昔、私は一度、ここで奇妙なものを見た」
「奇妙なもの、というのは」
「今、あなた方が『タビ』と呼んでいるものだ」
ほのかは、息を呑んだ。
「長谷さんも、見たんですね」
「ああ。私が初めてタビを見たのは、この地下収蔵庫を任されるようになって、まだ間もない頃だった。あの小さな影を、何度もここで見かけたよ」
長谷は、遠い記憶をたどるように目を細めた。
「あれは、この地下にある品々の、想いのようなものではないかと、私は思っている。忘れられ、放置されたまま、それでも誰かに気づいてほしいと願う、無数の想いが、あの姿になって現れているのではないかと」
「長谷さんは、それを、誰にも話さなかったんですか」
「話しても、誰も信じなかった。それに……」
長谷は、少し苦しそうな表情を見せた。
「話せば、私自身の力不足を、認めなければならなかった。ここにあるものたちを、きちんと整理できなかったという、自分の責任を」
その言葉に、ほのかは何も言えなかった。
九条が、冷静に口を開いた。
「長谷さんの責任ではないと思います。当時の状況では、限られた人手と予算の中で、優先順位をつけざるを得なかった。それは、誰にでも起こり得ることです」
「……九条くんに、そう言ってもらえるとは思わなかったな」
長谷は、少し驚いたような、それでいてどこか安堵したような表情を見せた。
三人はしばらくその場に立ち、地下に積み重なった品々を見つめていた。
由来の分からない箱。誰が使っていたのかも分からない古い道具。それぞれに確かに誰かの暮らしがあったはずなのに、今はただ「不詳」という言葉で片付けられている。
「これだけの数を、今から整理するのは、簡単なことではないですね」
ほのかが呟いた。
「ああ。だが……」
九条が周囲を見渡しながら言った。
「不可能ではない。時間はかかるだろうが、一つずつ、丁寧に照合していけば、いくつかは、由来が分かるかもしれない」
「私も、手伝います」
「私も、できる限り協力しよう」
長谷がそう申し出た。その声には、長年抱えてきた荷を、少しだけ下ろせたような響きがあった。
「長谷さん、ありがとうございます」
「礼を言うのは、こちらの方だ。誰かが、ようやくここに目を向けてくれた。それだけで、私にはじゅうぶんだ」
長谷はそう言って微笑み、目の前の古い木箱に視線を落とした。
「……本当は、何度も考えたんだ」
「何を、ですか」
「もう一度、誰かに相談してみようかと。けれど、そのたびに、今さら何ができるのかと思ってしまってね」
長谷は、木箱の上に積もった埃を指先でそっと拭った。
「一年が過ぎ、十年が過ぎ……いつの間にか、ここに来ること自体が怖くなっていた。自分が見捨てたものを、見るのがね」
「長谷さん……」
「だから、小宮さん。あなたがこの扉を開けてくれて、よかった」
長谷は、わずかに声を詰まらせた。
「私には、もう開けられなかったから」
三人が地下を後にしようとしたとき、積み重なった箱の陰から、タビがすっと姿を現した。
「タビ……」
小さな影は、長谷をじっと見つめていた。
「……ずいぶん久しぶりだな」
長谷が、そう呟いた。
タビは答えることなく、けれど、どこか穏やかな様子でその場に佇んでいた。
まるで、長年の想いが、ようやく誰かに届いたことを、静かに見守っているかのように。
三人は地下収蔵区画を後にし、扉をそっと閉めた。
☆
地下収蔵区画を訪れてから数日、ほのかと九条は長谷の協力を得ながら、由来不詳の品々の整理作業を少しずつ進めていた。
けれど、通常業務と並行しての作業は思いのほか時間がかかった。
「今日は、この三箱だけしか進められませんでしたね」
「仕方ない。本業を疎かにするわけにはいかない」
九条は、疲れた様子でメモを整理していた。
その日の作業を終え、収蔵資料室で報告書をまとめていたとき、ほのかは、ふと思っていたことを口にした。
「九条さん。タビのこと、長谷さんも見たって言ってましたよね」
「ああ」
「これって、単なる偶然とか、見間違いの積み重ねじゃなくて……本当に、何か意味のあるものなんじゃないでしょうか」
九条はペンを止めて、ほのかを見た。
「その考え方は、危険だと思うぞ」
「危険、ですか」
「分からないことを、調べもせずに放っておくのは、研究者として不誠実だ。だが、分からないことに勝手な物語を当てはめるのも、同じくらい不誠実だ」
九条は、珍しく語気を強めた。
「物語を先に作れば、都合のいい証拠しか見えなくなる。俺は、それが怖い」
「でも、九条さん。証拠が揃うまで、誰かの気持ちを置き去りにしていいんですか」
「……そうは言っていない」
「長谷さんは、ずっと一人で抱えてきたんです。あの地下のことも、タビのことも」
九条は答えなかった。
「私は、長谷さんが感じたことまで、間違いだったとは思いたくありません」
「……俺も、間違いだとは言っていない。ただ、事実と解釈は分けるべきだ」
「だったら、私たちも分担できませんか」
「分担?」
「九条さんが事実を確かめる。私は、そこにいる人の話を聞く」
「……簡単に言うな」
九条はそう言って、手元の資料を閉じた。
その日の会話は、そこで途切れた。九条は再びペンを取ったが、しばらくの間、何も書こうとしなかった。
その夜、ほのかは一人で、収蔵資料室に残っていた。
窓の外は、すっかり暗くなっている。デスクの上には、まだ整理しきれていない古い台帳の写しが、山のように積まれていた。
「九条さんの言うことも、分かるんだけどな……」
ほのかは、独り言のように呟いた。
証拠がなければ、確かなことは言えない。それは、研究者として、当然の姿勢なのだろう。
けれど、目の前で悩んでいる人、心残りを抱えている人に、証拠が揃うまで何も言えないというのも、どこか違う気がした。
ふと、視線を感じて振り返ると、タビが、資料室の隅に静かに座っていた。
「あなたは、どっちだと思う?」
ほのかは、そっと問いかけてみた。
タビは答えず、ただじっと、ほのかを見つめていた。
その視線には、答えを急かすような様子はなかった。
「……ゆっくり、考えていくね」
ほのかはそう呟くと、再び資料に向き合った。そして、いつもより少し遅くまで資料室に残っていた。




