第92話 無人街を抜けたら
美部谷ダンジョンへ入った直後、佳奈子は足を止めた。
「聞いてたけど、ほんとに街じゃん」
石造りの建物が道の両側に並び、その間を細い路地が伸びている。人の姿も生活の音もないのに、住宅も商店もあり、街の形だけは残っていた。
佳奈子は少し先まで見渡してから、スマートフォンを取り出す。
「これ写真撮りたくなるの分かる。人いないのに、普通に道あるの変な感じ」
「路地もあるよ。建物の中から裏に抜けられるとこもあった」
みつみがすぐ横から画面を覗き込む。
「あとネオンバット。光ってるとこ、実物の方がいい」
「それ聞いた。今日は見られるかな」
「見られると思う」
「先輩たち」
絵美里が少し前から振り返った。
「今日は最初から寄り道しに来たわけじゃないですよね?」
「分かってるって」
みつみが返すと、佳奈子が笑った。
「私も今日は建物入らないよ。話聞いただけで十分」
「私たちも今日は入りません」
「エミリン、念押し多くない?」
「前回入った結果を知ってますから」
千尋が肩を揺らし、先頭へ戻る。
「とりあえず、あそこまでは前と同じ道で行こ。佳奈子は気になるのあったら帰りに見ればいいし」
「うん。今日は奥まで行きたい」
五人は前回通った道を進んだ。
四人にとっては一度歩いた街だが、佳奈子にとっては初めてだ。横道が見えるたびに少しだけ覗き込み、店らしい建物があれば視線を向ける。それでも立ち止まって中へ入ろうとはしない。
しばらく進むと、前方に見覚えのある商店跡が現れた。
開いたままの扉。その脇には、前回と同じ古びたドラム缶が置かれている。
「あれ?」
佳奈子が指を差す。
「あれ」
みつみが答えた。
「思ってたより普通のドラム缶」
「どんなの想像してたの?」
「もっとこう、いかにもダンジョンの仕掛けに使えそうなやつ」
「ただ置いてあっただけだよ」
千尋は建物の入口を見ながら《黒月》へ手をかける。
「中、見なくていいからね」
「見ないよ」
「みつみに言った」
「私も見ないって」
前回のことを思い出したのか、みつみは入口から少し距離を取った。
五人で周囲を確認してから、開いた扉を閉める。石造りの街に扉の音が響き、少し遅れて内側から何かがぶつかった。
「いる」
佳奈子の声が小さくなる。
「いっぱいいますよ」
絵美里が盾を構えたまま扉を見ている。
もう一度、内側から鈍い音が響いた。扉がわずかに揺れる。
「早くやろ」
千尋の言葉で、五人は入口脇のドラム缶へ移った。
横から押してずらすと、ドラム缶が石床を擦りながら動く。千尋と絵美里が先に動かし、みつみと佳奈子も途中から手を添えた。
「もうちょいこっち。扉の前」
志帆が位置を見ながら声をかける。
ドラム缶が扉の前へ収まったところで、内側から激しい衝撃が来た。
扉がドラム缶へ叩きつけられ、大きな金属音が通りに響く。
「うわっ」
佳奈子が反射的に一歩下がった。
だが、それで終わらなかった。
ドン、ドン、と数回続くどころではない。
扉の向こうで何かが押し合うようにぶつかり続け、衝撃が途切れない。扉が何度も大きく揺れ、そのたびにドラム缶が石床の上で跳ねるように震えた。
低い唸り声まで幾重にも重なり、一匹や二匹が暴れている音ではない。
「……ちょっと待って。めちゃくちゃいるじゃん」
佳奈子が扉を見たまま言う。
絵美里が横から状態を確かめた。
「これが前回のやつです。今のところは持ってますけど、長くは置けませんね」
「じゃ、早く行こ」
千尋がすぐに歩き出す。
五人で商店跡の前を離れても、背後では扉を叩く音とドラム缶の金属音が途切れず続いていた。
佳奈子が歩きながら振り返る。
「前回、あれ全部相手したんだよね?」
「うん。自分たちから中入って」
「聞いてたけど、実際に音聞くとほんと何してんのってなる」
「そのときは中にあんなにいるって知らなかったんだって」
みつみが言い返すと、佳奈子は前を向いた。
「今日は知ってるから、戦わなくて済んだじゃん。こっちの方がいい」
「めっちゃ楽だった」
「図書館で考えた意味あったね」
みつみが笑い、五人はそのまま前回より奥へ進んだ。
しばらくは、地下一階の街並みが続いた。
前回なら気になる建物を見つけるたびに足を止めていたみつみも、今日は入口から中を覗く程度で先へ進む。千尋が見覚えのある道を選び、やがて五人は下へ続く通路へたどり着いた。
「ここから先は初めて」
千尋が言う。
「やっと?」
佳奈子が振り返る。
「やっと。前回はあそこで帰ったから」
「じゃあ、ここから四人も知らないんだ」
「うん」
みつみが嬉しそうに答えた。
「だから楽しみ」
地下二階へ降りたところで、そのみつみが真っ先に足を止めた。
「……あれ?」
景色が変わっていた。
住宅も路地もない。
代わりに、幅の広い通路の左右へ店舗がずらりと並んでいる。正面をガラスで囲われた店、入口の広い飲食店らしい区画、服が並ぶアパレルショップ。その先にもいくつもの店が途切れず続いていた。
地上の駅で電車を降り、改札からそのまま地下街へ入ったときの景色によく似ている。
ただし、駅も電車もない。
店員も客もいない。
「地下街だ」
千尋が周囲を見回した。
「ほんとに駅地下みたい」
佳奈子もさっそくスマートフォンを向ける。
「一階と全然違うじゃん」
「住宅街の下にショッピング街って、どういう構造なのかしら」
志帆は天井から店先へ視線を動かした。
「ダンジョンに構造の常識求める?」
「それでも気になるのよ」
みつみはもう近くの店へ寄っていた。
「ここ服屋だよね」
「今日は中入らないんじゃなかったんですか」
「入ってないよ。外から見てるだけ」
絵美里が追いつき、そのまま店内へ目を向けた。
「……ちゃんと服屋ですね」
「エミリンも見てるじゃん」
「確認です」
「何を?」
「店を」
「それ見るって言うんじゃない?」
絵美里は答えず、先へ歩き出した。
佳奈子がその背中を見て笑いながら、店先を一枚撮る。
「この階だけでも普通に歩きたいかも」
「分かる」
千尋も広い通路の先を眺めた。
「道が分かれてるところとかあったら、どっち行くか迷いそう」
「全部行けばいいじゃん」
「今日は五階行くんでしょ?」
「帰りに時間あったら」
「もう寄り道の話になってますけど」
絵美里の声が前から飛んできた。
五人が歩き始めて間もなく、天井近くを青紫の光が横切った。
「いた!」
佳奈子が顔を上げる。
三匹のネオンバットが、広い通路の上を旋回していた。羽ばたくたび、翼に走る模様だけが鮮やかに浮かび上がる。
「ほんとに光ってる。思ったより目立つね」
「でしょ?」
みつみが杖を構える。
「見るのは倒してから!」
千尋が《黒月》を抜いた。
一匹が高度を落とし、こちらへ突っ込んでくる。
前回とは違い、四人はその動きを知っている。
絵美里が正面で受ける構えを取り、みつみはその横から杖を向けた。
「《マジックボール》!」
魔力弾が翼へ当たり、ネオンバットの軌道が乱れる。
「今?」
「まだ!」
佳奈子が矢を引いたまま千尋を見る。
ネオンバットが立て直し、もう一度旋回へ入った。
「次に降りてきたとこ!」
「了解」
二匹目が横から入ってきたところを絵美里が盾で弾き、落ちかけた個体へ佳奈子の矢が刺さる。
千尋が駆け込んで仕留めた。
「一匹!」
残り二匹も、飛び込んでくる瞬間へ攻撃を重ねれば前回ほど手間取らない。
最後の一匹が消えると、佳奈子は弓を下ろしながら頭上を見た。
「これ、暗いところで見たらもっとすごそう」
「私も前回そう思ったの」
志帆が少し嬉しそうに答える。
「発光部分だけ動いて見えるの、かなりいいわよね」
「二人ともそこなんだ」
千尋が《黒月》を戻す。
「でも分かる。見た目はいい」
戦闘を終えてまた歩き始めると、今度は飲食店が目につくようになった。
麺類の店らしいもの、カフェのような店、入口脇にメニューを掲げている店。見た目だけなら営業中の地下街とほとんど変わらないのに、どこにも人はいない。
「これ、食べ物だけないのかな」
みつみが店先を覗く。
「あっても食べないでしょ」
「食べないけど、あるのかなって」
「みつみなら一回くらい迷いそう」
「迷わないよ」
「一回だけ?」
「佳奈子まで」
その先には、複数の飲食店に囲まれるようにテーブルと椅子が並んだ広い空間もあった。
「フードコートじゃん」
佳奈子が立ち止まる。
「店員も客もいないフードコート、ちょっと怖いね」
「でも休憩には良さそう」
千尋が椅子を軽く確認する。
「まだ早くない?」
「今はね。帰りとか」
みつみは空いている席を見回した。
「ここで持ってきたお菓子食べたら、普通にフードコートで休んでるみたいになりそう」
「何も買ってないけどね」
「むしろ全部持ち込みです」
絵美里も周囲を見ながら、少しだけ笑った。
地下二階を抜け、さらに下へ進む。
地下三階でも広い通路の両側に店が続いていたが、見えるものは少しずつ変わっていった。
「保険屋まである」
みつみが透明な仕切りの向こうを覗き込む。
「ダンジョンに?」
「ダンジョンだから保険いるんじゃない?」
佳奈子が何気なく返す。
「ここで加入するの?」
「誰もいないけど」
「それじゃ無理じゃん」
少し先では、化粧品店らしい明るい店構えの隣に靴やバッグを扱う店が並んでいた。
五人とも急いでいるわけではない。
最深部を目指してはいるが、前回のように一つの戦闘で大量に消耗しているわけでもなかった。
気になる店があれば歩きながら覗き、通路が二つに分かれれば少し立ち止まって先を確かめる。
千尋が片方の道へ数歩入り、戻ってきた。
「こっちでも先には行けそう。でも、今は真っ直ぐでいいかな」
「任せる」
みつみは別の店を見ていた。
「何見てるの?」
「バッグ。佳奈子好きそう」
「なんで私?」
「こういうの普通に見るじゃん」
「見るけど。みつみは見ないの?」
「今見てる」
「じゃあ自分が見たいだけじゃん」
後ろで志帆が笑った。
そのとき、ガラス張りの店先を小さな影が横切った。
佳奈子がそちらを見る。
「猫?」
「待って」
千尋がすぐに止めた。
通路の中央へ出てきた猫型の影が、足を止める。
輪郭がぶれた。
一匹だった姿が左右へ重なり、三つに増える。
「うわ、これがミラージュキャット?」
「そう。どれかが本物」
「写真撮ってる場合じゃないね」
佳奈子がスマートフォンをしまい、弓へ持ち替える。
三つの影が同時に走り出した。
前回は残像に攻撃を使わされたが、今回は千尋がすぐには飛び込まない。
「佳奈子、適当に撃たないで。動き違うやつ見る」
「分かった」
絵美里が中央へ出て、盾を構える。
一体が正面から跳びかかるが、盾へ触れる寸前に輪郭が崩れた。
「それ偽物!」
別の二体が左右へ分かれる。
片方が店先へ寄った瞬間、ガラスへ影が重なって見えた。
「余計分かりづらい!」
佳奈子が弓を動かしながら顔をしかめる。
「これ前回も嫌だった」
千尋は二体を追いながら位置をずらす。
「絵美里、右だけ止めて!」
「はい!」
絵美里が盾を使って右側の進路を狭めた。
行き場を変えた一体に対し、もう一体の残像はわずかに違う動きをした。
「左、本物!」
千尋の声に佳奈子が矢を放つ。
矢が胴へ刺さっても、姿は消えない。
「当たった!」
「もう一回!」
みつみの《マジックボール》が続き、ミラージュキャットが床を転がった。
起き上がって残像を作ろうとしたところへ千尋が詰め、《黒月》を振る。
猫の姿が残像ごと消えた。
佳奈子が息を吐く。
「これ嫌だわ。見えてるのに狙えない」
「普通に戦うならネオンバットより面倒」
千尋が前回と同じ感想を口にする。
「でもガラスの前だとちょっと綺麗だった」
志帆が店先を見る。
「残像が映って、実際より増えて見えたわね」
「志帆は何でも一回そこ見るよね」
「大事でしょう?」
「戦いに?」
「私には」
佳奈子は笑いながら矢をしまった。
さらに奥へ進んだところで、五人は一度休むことにした。
ちょうど近くに、またフードコートのようなスペースがあった。
「ここにしよ」
佳奈子が真っ先に空いたテーブルへ向かう。
「結局フードコート使うんだ」
「椅子あるんだから使えばいいじゃん」
装備を外すほどではないが、五人とも座って水筒を取り出した。
みつみはバッグから小さな菓子を出し、一つ口へ入れる。
「なんか変」
「何が?」
「ダンジョンの地下三階で、フードコート座ってお菓子食べてる」
「しかも売店全部無人」
佳奈子が周囲を見回す。
「普通の地下街なら、今ごろめちゃくちゃ人いるよね」
「休日なら席探すくらい混んでそう」
千尋も水を飲みながら答える。
「こっちは私たちしかいないけど」
少し離れた店の前にも、当然誰もいない。
そこへモンスターが出なければ、本当に営業前の地下街へ入り込んだようにも見える。
絵美里は水筒を閉めてから、通ってきた方向を見た。
「前回よりだいぶ楽ですね」
「最初のあれ飛ばしたの大きい」
みつみが頷く。
「MPも全然ある」
「戦う回数自体は増えてるけど、ちゃんと休めてるものね」
志帆も自分の状態を確かめる。
「これなら、もう少し下まで行けそう」
「もう少しどころか五階行こうよ」
みつみが言うと、絵美里が少し考えた。
「行けるところまでは行きたいです。無理なら戻ればいいですし」
「エミリンが先に言った」
「何がですか」
「行きたいって」
「攻略上、今なら進めると言っただけです」
「はいはい」
「その返事やめてください」
佳奈子が二人を見ながら菓子を一つ取った。
「でも私も行きたい。せっかくここまで来たし」
しばらく休んでから、五人は再び歩き始めた。
地下四階へ降りるころには、さっきまでよりも高級そうな店構えが目につくようになっていた。
通路の片側に、間口の広いブランドショップらしい店舗がある。その向かいには時計店があり、さらに先には宝飾品を扱っていそうな店も見えた。
「ここ急に高そう」
佳奈子が歩く速度を落とす。
「見るだけならタダだよ」
「全部ダンジョンだけどね」
みつみは時計店の前で足を止めた。
絵美里も数歩進んだところで止まり、振り返る。
「また寄り道ですか?」
「エミリンも今時計見てたでしょ」
「見てません」
「見てた」
「周囲確認です」
千尋が横から店先を覗く。
「周囲確認で時計の前だけ速度落ちる?」
「……行きますよ」
絵美里が先へ進む。
志帆が小さく笑いながら続いた。
通路を曲がった先で、金属が擦れるような音がした。
千尋が手を上げる。
「いる」
店先の陰から、ストリートゴブリンが姿を現した。
一匹ではない。
数匹が周辺をうろつき、そのうち一匹は店の前に落ちていた光る装飾のようなものへ顔を寄せている。
「ほんとに光るもの好きなんだ」
佳奈子が小声で言う。
「こっち来ます」
絵美里が盾を構えた。
ストリートゴブリンたちが一斉に顔を上げる。
まとまって来られる前に、みつみが杖を向けた。
「今度こそ、ちゃんと使えそう。《アイスウォール》!」
通路の途中から氷の壁がせり上がった。
前へ出ていた二匹と、後ろにいた数匹の間が分断される。
「おお!」
佳奈子が弓を構え直す。
「これなら少ない方から!」
絵美里が一匹を受け止め、千尋がもう一匹へ走る。
志帆の《プロテクション》が前衛へ飛び、佳奈子の矢が千尋と対峙している個体へ刺さった。
みつみも《マジックボール》を重ねる。
先にいた二匹を倒したころ、氷壁の向こう側にいたストリートゴブリンたちは壁の端を回ってきた。
「来る方向一緒になった!」
「それ助かる!」
千尋が横へ回る。
絵美里が進路の正面を押さえ、狭くなったところへ攻撃を集める。
前回のモンスターハウスとは比べものにならない数だ。だからこそ、壁一枚で流れを変えられる効果がよく分かった。
最後の一匹が消えると、みつみはまだ残っている氷壁を見た。
「これいい」
「今度はちゃんと役に立ったね」
「さっきも役に立ってたよ」
「試してた感の方が強かったじゃん」
佳奈子に言われ、みつみは否定しなかった。
「でも、いっぱい来たときに分けられるならかなり便利そう」
絵美里も氷壁の端から通路を見る。
「壁そのものより、敵の進む場所を変えられるのが大きいですね。全部止めようとしなくても使えます」
「それ覚えとく」
「みつみ先輩、次に使うとき忘れないでくださいね」
「覚えてるって」
「さっきまで名前通りの壁だって喜んでたので」
「それも大事なの」
五人はまた奥へ進んだ。
地下四階まで来ると、さすがに最初のころほど店ごとに足を止めなくなっていた。それでも気になるものがあれば視線は向くし、モンスターが出れば戦う。
ネオンバットの青紫の光が、無人のブランドショップのガラスへ映る。
遠くの通路をミラージュキャットの残像が横切り、千尋が念のため先を確認する。
何もいない一角へ入れば、五人の靴音だけが地下街に響く。
歩いて、戦って、また歩く。
途中で道を一本間違えたと気づいたときは、千尋が引き返した。
「こっち違う。さっきの分かれ道まで戻ろ」
「千尋でも間違えるんだ」
「初めて来たとこだからね」
「なんか安心した」
「何に?」
「千尋も普通に迷うんだなって」
「私何だと思われてるの?」
佳奈子が笑う。
「でも私一人だったら、もう帰り道分かんない」
「それは私も」
みつみも手を上げる。
「私はまだ大丈夫」
志帆が言うと、絵美里も周囲を見た。
「私も大体は。でも完全には自信ないです」
「じゃあ結局、千尋についてく」
「それはいいけど、自分でもちょっと見ててよ」
分かれ道まで戻り、正しい方へ進む。
それからさらに歩き、次の階へ続く場所へたどり着いた。
みつみが下を覗く。
「次、五階?」
「そう」
千尋が答える。
佳奈子は後ろを振り返った。
ここまで通ってきた地下街は、もうかなり長い。
「ほんとに一番下まで来たんだ」
「最初の店でゴブリンと全部戦ってたら、絶対ここまで来てないね」
「来てない。私たぶん途中で帰るって言ってた」
「私も今日は無理って言ってたと思う」
志帆も頷く。
絵美里は階段の先へ視線を向けた。
「まだ余力はあります。でも、五階にはボスがいますから、行くならそこからは別で考えましょう」
「うん」
みつみが杖を持ち直す。
「見に行こう」
誰か一人が決めたというより、五人とも自然に階段へ向かった。
地下五階へ降りる。
さっきまで店を見ながら歩いていたときより、全員の足取りが少し慎重になった。
しばらく進んだところで、千尋が足を止める。
「待って」
低い唸り声が、通路の先から響いた。
絵美里が盾を上げ、佳奈子が弓へ矢をつがえる。
暗がりの中で、黒い大きな影が動いた。
ゆっくりこちらへ姿を見せたのは、今までのブラックドッグよりさらに大きな狼だった。
「……シャドウウルフ」
志帆の声から、さっきまでの軽さが消える。
みつみは杖を握り直した。
「やっと会った」
「感想それ?」
千尋も《黒月》を抜く。
佳奈子が五人の顔を見る。
「どうする?」
「一回やってみたい」
みつみが答えた。
「ここまで来たし、私も」
千尋はシャドウウルフから目を離さない。
「無理そうなら戻る。それでいい?」
「賛成」
佳奈子も弓を引く。
志帆はメイスを持ち直し、絵美里が盾を前へ出した。
「撤退するときだけ迷わないでください。危ないと思ったら、その時点で帰ります」
「それでいこ」
シャドウウルフが頭を低くした。
「《プロボーク》!」
絵美里が前へ出た直後、黒い巨体が地面を蹴る。
一気に間合いが消え、開いた牙がタワーシールドへ食いついた。
「《ガード》!」
衝撃で絵美里の靴が床を滑る。
「重っ……!」
千尋が横から踏み込み、《黒月》を振る。刃が肩口を捉え、続けて佳奈子の矢が刺さった。みつみの《マジックボール》も胴へ当たる。
シャドウウルフは大きく身をひねって離れた。
「当たる!」
「油断しないで!」
志帆が絵美里へ《プロテクション》を飛ばす。
その間に千尋がシャドウウルフを見据えた。
「《マーキング》」
直後、黒い身体が足元の影へ沈んだ。
「消えた!」
「印は残ってる。右、ちょっと後ろ!」
千尋が振り返る。
影から飛び出したシャドウウルフが、後衛へ向かって一直線に駆けてきた。
絵美里が割って入る。
「《インターセプト》!」
タワーシールドへ牙がぶつかり、絵美里の身体が横へ押される。
「今!」
佳奈子が矢を放つ。
千尋も反対側から斬り込むが、シャドウウルフは二人の間を抜け、再び距離を取った。
「速すぎない?」
「方向は分かる。でも出てくる場所までは分かんない!」
千尋が印の感覚を追いながら答える。
シャドウウルフが再び正面から走り込んできた。
みつみは進路を見て杖を振る。
「《アイスウォール》!」
氷壁が地面からせり上がった。
シャドウウルフは止まりきれず、前脚を壁へ叩きつける。大きな音とともに氷へ亀裂が走った。
「一発でそれ!?」
それでも壁は残っている。
シャドウウルフが横へ回った瞬間、絵美里が正面を取り直し、千尋が死角へ走る。
「こっち!」
佳奈子の矢が飛び、シャドウウルフの顔がそちらへ向く。
千尋の《黒月》が後ろ脚を斬った。
「入った!」
みつみも続けて魔法を放つ。
シャドウウルフが振り向きざまに前脚を薙ぐ。千尋はすぐに後ろへ跳んだが、その爪は続けて絵美里の盾を叩き、絵美里ごと大きく押し戻した。
「近いとこれがきつい!」
それでも攻撃は通っている。
まったく戦えない相手ではないからこそ、五人ともすぐには諦めなかった。
シャドウウルフが低く吠えた。
咆哮が周囲へ響くと同時に、視界が一段暗くなる。
「何これ!」
「見失わないで!」
志帆の声と同時に、千尋がマーキングの感覚を追う。
「左!」
黒い影が別の場所から飛び出した。
狙われたのは佳奈子だった。
佳奈子が横へ跳ぶが、シャドウウルフの前脚が弓を構えていた腕をかすめる。
「痛っ!」
「佳奈子!」
志帆の《ヒールショット》がすぐに飛ぶ。
絵美里がシャドウウルフの正面へ戻り、千尋も距離を詰める。
「平気?」
「平気。続ける!」
佳奈子は腕を確かめると、すぐに次の矢をつがえた。
そこから何度も攻防が続いた。
絵美里が正面を受け、千尋が位置を追い、みつみと佳奈子が離れたところから攻撃する。志帆は防御と回復を重ね、崩れそうな場所を支える。
シャドウウルフの前脚が薙がれるたび、まともに近づけば吹き飛ばされる。影へ沈まれれば、《マーキング》があっても飛び出す瞬間までは読めない。
みつみの《アイスウォール》も、完全に閉じ込めることはできない。それでも進路を変えさせ、その一瞬を他の四人が使う。
少しずつだが、攻撃は当たっていた。
「これ、時間かければ――」
みつみが言いかけたところで、シャドウウルフが大きく後ろへ跳んだ。
追おうとした千尋が足を止める。
「待って」
シャドウウルフは距離を取ったまま、ゆっくり顔を上げた。
次の瞬間。
長く、低い遠吠えが地下五階へ響き渡った。
さっきの咆哮とは違う。
石壁の奥まで震わせるような声が伸び、通路の向こうへ消えていく。それでも反響だけはすぐに消えず、遠くで何度も重なった。
「何……?」
佳奈子が弓を構えたまま周囲を見る。
遠吠えが途切れた。
一拍遅れて、別の唸り声が返ってきた。
一つではない。
右手の奥。
左側の暗がり。
シャドウウルフのさらに後ろ。
別々の場所から低い足音が近づいてくる。
「ちょっと待って」
千尋が《黒月》を握り直した。
暗がりの中で、三つの黒い影が動いた。
大型犬の姿が一匹ずつ現れ、シャドウウルフの周囲へ広がっていく。
「増えた!」
「ブラックドッグ、三匹!」
志帆が声を上げる。
「いや無理無理! これボスだけで大変だったじゃん!」
佳奈子が即座に後ろへ下がった。
三匹のブラックドッグが、それぞれ別の方向からこちらへ向きを変える。
絵美里も迷わなかった。
「撤退です! これは無理です!」
「戻る!」
千尋が向きを変え、五人が来た道へ走り出す。
背後で複数の足音が重なった。
「追ってくる!」
振り返った千尋が、一瞬だけ後方を確かめる。
「ブラックドッグ三匹! シャドウウルフは来てない!」
「それでも三匹いるじゃん!」
佳奈子が叫ぶ。
「今それ言っても減らないわよ!」
みつみが走りながら振り返り、杖を向ける。
「《アイスウォール》!」
背後の通路へ氷壁が立ち上がり、すぐに激しい衝撃音が響いた。
ひびが走る音まで聞こえる。
それでも数秒は稼げた。
「便利! 帰ったら褒める!」
「今褒めて!」
「あと!」
五人は地下五階を抜け、来た道を戻った。
行きには店を眺めながら歩いた地下四階も、今は同じ景色がまるで違って見える。
高級時計店の前を駆け抜け、ブランドショップの角を曲がる。
千尋は先頭で道を選びながら、時折後ろを確認した。
「まだ来てる!」
「三匹とも?」
「いる!」
「しつこい!」
佳奈子が走りながら叫ぶ。
地下三階へ続く道へ入り、さっき休んだフードコートの脇を駆け抜ける。
「今度ここでゆっくりしたかったのに!」
みつみが言う。
「次にして!」
志帆が返す。
後ろから足音が近づいた。
振り返った絵美里が一匹のブラックドッグを確認する。
「近いです!」
「止める?」
「一回だけ!」
絵美里が後方へ向き直り、盾を構える。
ブラックドッグが勢いのまま飛び込み、タワーシールドへぶつかった。
「《ガード》!」
その横を千尋が抜け、《黒月》で一撃を入れる。
「倒さなくていい、行くよ!」
「はい!」
二人がすぐに走り出す。
今日は倒すために立ち止まる必要がない。
五人はそのまま地下二階を抜け、地下一階へ戻った。
見覚えのある住宅と商店が現れる。
「店!」
みつみが前を指差した。
通りの先に、ドラム缶で封鎖した商店跡が見える。
扉の向こうからは、今も鈍い音が続いていた。
「まだ叩いてる!」
「ちょうどいい!」
千尋が振り返る。
後方の通りへ、追ってきたブラックドッグの黒い姿が入ってくる。
「来るよ!」
佳奈子が弓を持ったまま商店跡へ走った。
「私これ外す!」
千尋の視線が一瞬だけ佳奈子へ向く。
「……任せた!」
それだけ言って、追ってくるブラックドッグへ向き直った。
佳奈子は返事をするより先にドラム缶へ手をかける。
千尋はもう振り返らない。
「絵美里、こっち一回止められる?」
「止めます!」
絵美里が千尋の横へ出る。
志帆は二人へ《プロテクション》を飛ばし、みつみは佳奈子の方へ走った。
「手伝う!」
「そっち持って!」
二人でドラム缶を扉の前からずらし始める。
背後ではブラックドッグが一匹、先に飛び込んできた。
絵美里の盾へぶつかり、千尋が横から《黒月》を振る。
「もう一匹来る!」
「分かってます!」
絵美里が盾を戻す。
その間にも、扉は内側から何度も押されていた。
「あとちょい!」
佳奈子とみつみがドラム缶を横へ動かす。
扉を押さえていたものがなくなった瞬間、内側から大きな衝撃が来た。
「離れて!」
二人が飛び退く。
扉が勢いよく開いた。
最初の一匹が外へ飛び出し、その後ろからストリートゴブリンが次々と溢れてくる。
一匹、二匹という勢いではない。
奥から押されるように何匹もの影が出口へ殺到し、前に出た個体がつまずいても、その横から別のゴブリンが飛び出してくる。
「うわ、ほんとに多い!」
佳奈子が叫びながらさらに距離を取った。
外へ出たストリートゴブリンと、追ってきたブラックドッグが街路の中央でぶつかった。
ブラックドッグが一匹を振り払い、その横から別のゴブリンが入り込む。後ろから出てきた個体まで重なり、狭い場所へ敵が一気に集中した。
ストリートゴブリンが連携しているわけではない。
ただ前へ出ようとする大量の個体と、五人を追ってきたブラックドッグが同じ街路へ入り込み、互いが互いの進路を塞いでいた。
「今!」
千尋が叫ぶ。
五人は一斉に走った。
後ろで唸り声と衝突音が重なる。
千尋は時折後ろを確かめながら、足を止めない。
「距離開いてる! そのまま!」
商店跡が見えなくなるまで走り、その先も止まらなかった。
前回歩いた無人の街を逆方向へ抜け、入口まで戻る。
ダンジョンの外へ出たところで、ようやく五人の足が止まった。
誰もすぐには喋らなかった。
絵美里は盾へ手を置いたまま呼吸を整え、志帆は壁際で肩を上下させている。みつみは杖に手をついたまま俯き、千尋も膝へ手を置いていた。
佳奈子が最後に後ろを見た。
もう追ってくるものはいない。
「……逃げ切った」
その一言で、五人からほとんど同時に息が抜けた。
「疲れた……」
みつみがその場にしゃがみ込む。
「前回と違う疲れ方した」
「今日はめちゃくちゃ走ったからね」
千尋も床へ座る。
「でも五階まで行けた」
「地下街も思ってたより面白かったし」
佳奈子は息を整えながら壁へ背を預けた。
「ボス、強かったね。普通に攻撃は当たってたけど、あれに三匹追加は無理」
「途中までは、もう少しいけると思ったんだけどな」
みつみも座り込んだまま答える。
「だから余計に三匹が嫌だった」
「召喚される前なら、まだ戦う気あったものね」
志帆が水筒を取り出す。
「次に行くなら、あそこをどうするかは考えないといけないわ」
「今日はもう考えない」
千尋が即座に返した。
「賛成」
佳奈子もスマートフォンを取り出す。
画面を見たところで、少し目を丸くした。
「あ、レベル上がってる。十二」
「おめでと」
「ありがと。でも新しいスキルはないね」
佳奈子は取得スキルまで確認してから画面を閉じた。
みつみも自分の状態を見る。十三のまま。
千尋は十四、志帆は十三、絵美里は十一で変わっていない。
「クリアはしてないね」
みつみが言う。
「してない。ボス置いて帰ってきたから」
千尋が答えると、佳奈子が少し笑った。
「でも今日、十分じゃない? 一階からずっと歩いて、地下街見て、五階まで行って、ボスとも戦って、最後めちゃくちゃ走ったし」
「私もそう思います」
絵美里はようやく盾から手を離した。
「次にどうするかは、また考えればいいです。今日はもう攻略のこと考えたくないですけど」
「エミリンがそれ言うんだ」
「今は言います」
「時計屋は?」
みつみが聞く。
絵美里が一瞬止まった。
「……何の話ですか」
「やっぱ見てたじゃん」
「見てません」
「帰りに寄れなかったね」
「だから見てませんって」
佳奈子が笑い、千尋も肩を揺らした。
志帆は水を一口飲んでから、五人を見回す。
「とりあえず休みましょう。私はもう喉が渇いたわ」
「私、お腹すいた」
「みつみはそればっか」
「歩いたし走ったし」
「じゃあ休んだら、なんか食べて帰ろ」
佳奈子が言うと、誰も反対しなかった。
美部谷ダンジョンは、まだクリアしていない。
それでも今日見たものは、前回よりずっと多かった。
五人はしばらく、次の攻略の話をしなかった。
春休みの4人を描いた短編を公開しています。
ダンジョンへ行く目的は、攻略でもレベル上げでもなく――お花見。
▼短編はこちら
女子高生4人、春休みにダンジョンへ花見に行く。
https://ncode.syosetu.com/n5580mv/




