第88話 宿題の横に地下都市
夏休みの午後、四人は図書館の学習スペースにいた。
冷房の効いた室内は静かで、聞こえるのはページをめくる音と、シャープペンシルが紙の上を走る音くらいだった。
みつみの足元には、いつものバッグが置かれている。ファスナーの近くでは、夏祭りで買った黒い羽根のチャームが小さく揺れていた。
三人の二年生はそれぞれ夏休みの課題を広げ、向かいに座る絵美里だけは一年生用の別の教材を開いている。
最初のうちは四人とも真面目だった。
みつみは課題の冊子を一枚めくり、少し考えてからまた前のページへ戻る。今度は残りの厚さを横から確かめ始めた。
隣の千尋が気づき、声を落とす。
「数えても減らないよ」
「分かってる。でも、あとどれくらいか知りたい」
「さっきも見てなかった? 一ページしか進んでないから、たぶん思ってるほど変わってないよ」
「一ページは減ってるじゃん」
みつみは納得したような、していないような顔で冊子を戻した。
向かいでは志帆が一度だけ顔を上げたものの、口は挟まずに自分の課題へ戻っている。絵美里も会話には入らず、手を止めていなかった。
それからまた、しばらく誰も話さなかった。
やがて、みつみのシャープペンシルが止まる。
そのまま数秒、問題を見つめたあと、声を出さずに両腕を伸ばしかけ、周囲を思い出したように途中でやめた。
「……休憩しない?」
千尋が顔を上げる。
「ちょうど私も切ろうと思ってた」
志帆もノートへ挟んでいた付箋の位置を確認してから、ペンを置いた。
「私もここまでで一区切り」
絵美里はあと一行だけ書き終えてから、遅れて手を止めた。
「先輩たち、思ったよりちゃんとやるんですね」
「どういう意味?」
「もっと途中で話し始めると思ってました」
「図書館だから我慢してた」
みつみが言うと、志帆が小さく笑った。
「理由が弱いわね」
千尋は椅子にもたれながらスマートフォンを手に取る。
「佳奈子、今ごろプールか」
「いいなあ」
みつみが即座に反応した。
「この前、海であれだけ遊んだでしょう」
「海とプールは別じゃん」
「水に入るという意味では大体同じですけど」
絵美里に言われ、みつみは首を振る。
「違うよ。海は海で、プールはプール」
「説明になってません」
「でも違う」
「そこだけ強く言われても」
絵美里は納得していない顔だったが、それ以上は追及しなかった。
佳奈子は今日は別の友達とプールへ行っている。四人で宿題をする話が出たときから、今日はそちらへ行くと言っていた。
みつみが机の上の消しゴムを指で転がしていると、絵美里がスマートフォンの画面を見たまま口を開いた。
「そういえば、美部谷はいつ行きますか?」
「あ」
みつみの手が止まる。
「行く」
「行くかどうかではなくて、いつです」
「そうだった」
千尋もスマートフォンを開き直した。
「尾洗はもう行ったし、次は美部谷でいいんだっけ?」
「両方行こうって話だったでしょう」
志帆が答えると、絵美里も頷いた。
「私はそのつもりでした。美部谷、前から行きたかったので」
「じゃあ日、決めよっか」
千尋の一言で、四人ともカレンダーを見る。
夏休み中とはいえ、それぞれ別の予定もある。埋まっている日を外しながら見比べていくと、候補はすぐに二つまで絞られた。
「私はこっちなら空いてる」
みつみが画面を中央へ向ける。
「その日は私も大丈夫」
志帆が自分の予定を確認する。
「私はどちらでも行けます」
絵美里も二つの日を見比べた。
千尋は三人の画面を順番に見てから、自分のカレンダーへ戻る。
「じゃあ、この日が一番楽そうかな。佳奈子にも聞いとく?」
「聞く」
みつみがすぐグループチャットを開いた。
候補の日を送り、美部谷へ行く予定だと一言つける。
返事を待つ間、みつみはそのままスマートフォンで美部谷を検索し始めた。
「待ってる間だけ」
「誰も止めてないわよ」
志帆も自分のスマートフォンを手に取る。
画面には、石造りの街並みを思わせるダンジョンの写真が出ていた。
「地下にこういうのがあるんだよね」
みつみの声が少しだけ大きくなり、すぐ自分で音量を落とした。
「建物とか、道とか、実際に見たらどうなってるんだろ」
「そこは私も気になる。地下都市型って書いてあっても、階層ごとの細かいところまではあまり出ていないのよね」
志帆は写真を何枚か見たあと、今度はモンスターの一覧へ移った。
「ネオンバットも実物を見てみたい。青紫に光る模様って、止まってる写真と飛んでるところじゃ印象が違いそう」
「私は写真より、実際に歩いてみたいかな」
千尋が横から画面を覗く。
「こういう場所って、行ってみないと距離感とか分かんないし。道が分かれてたら、どっち行くかその場で決めるのも面白そう」
「私はまず、中級者向けで今の私たちがどこまで行けるか見たいです」
絵美里は三人と同じページを開いていたが、見ているのはクリア条件や難易度の欄だった。
「地下五階の《シャドウウルフ》がボスですけど、最初からそこまで行ける前提では考えません。実際に入って、普通のモンスター相手にどのくらい戦えるかも確認したいです」
「やっぱエミリン、見るところそこなんだ」
「そこです。中級者向けへ行くのに、そこを見ない方がおかしくないですか?」
「おかしくはないけど、私は街の方が気になる」
みつみが写真へ戻る。
「私は両方ね。構造もモンスターも見たい」
志帆が続き、千尋もスマートフォンを自分の方へ戻した。
「私はとりあえず歩ければいいかな。奥まで行けそうなら行けばいいし、無理そうなら戻ればいいし」
「私は行けるならボスまで行きたいですけどね」
絵美里はそう言ってから、みつみの画面に出ている地下都市の写真へ目を向けた。
「まあ、先に中へ入ってみないと何も分かりませんけど」
「じゃあ決まり。まず入る」
みつみが簡単にまとめる。
「それは最初から決まってたでしょ」
千尋が笑った。
そのとき、みつみのスマートフォンが震えた。
「あ、佳奈子」
四人の視線が画面へ集まる。
返ってきたのは短い一文だった。
『遊びすぎで金欠だから今回はパス』
みつみは一度読んでから、顔を上げた。
「金欠だって」
「夏休みだしね」
千尋は特に驚いた様子もなく、自分のカレンダーへ戻る。
「じゃあ今回は四人ね」
志帆も候補の日を予定へ入れた。
「了解です」
絵美里もそれだけ返し、自分のカレンダーを閉じる。
みつみはグループチャットへ『了解。行ってくる』と送り、四人で決めた日を確定させた。
「集合どうする?」
千尋が聞く。
「東骨橋駅でよくない?」
みつみが答えると、絵美里も頷いた。
「はい。そこから一緒に行きましょう」
「じゃあそれで」
大まかな予定まで決まると、志帆がスマートフォンを伏せた。
「そろそろ宿題へ戻らない? 休憩のつもりだったのに、結構話してる」
みつみが自分の教材を見る。
その横にはまだ、美部谷の地下都市の写真が表示されたままだった。
「あとちょっとだけ見てから」
「みつみ先輩、それを言ったら戻らない気がします」
絵美里に言われ、みつみは画面と宿題を交互に見る。
「……閉じる」
名残惜しそうに検索画面を閉じた。
千尋は笑いながら自分のスマートフォンも伏せ、志帆は途中だったページを開き直す。絵美里も一年生用の教材へ戻った。
しばらくすると、四人のテーブルにはまた紙をめくる音と、ペンの走る音だけが残った。
美部谷へ行く日は決まった。
宿題の方も、今度はちゃんと進み始めた。




