第87話 花火のとなり
夏休みの夕方。
駅前から祭りの会場へ続く道は、まだ空が明るいうちから人で埋まり始めていた。
「思ったより混んでる」
みつみは前を歩く人の肩越しに、通りの先を覗き込んだ。赤や白の提灯が道路の両側に続き、その下に焼きそば、たこ焼き、かき氷と、屋台の看板が並んでいる。
絵美里は少し上を見ながら歩いていた。
「こういう日本の夏祭り、写真では見たことありましたけど、実際だと音がすごいですね」
「まだ花火始まってないよ?」
「屋台です。人の声とか、店の音とか。もっと静かな感じを想像してました」
「これからもっと増えるんじゃない?」
志帆が人の流れを避けて少し端へ寄ると、絵美里もほとんど同じタイミングでその隣へ移った。
「先に見る場所を決めますか?」
「まだ早いでしょ。せっかく屋台があるんだし、先に回りたい」
みつみが答えるより先に、志帆が通りの向こうへ目を向けた。
「私も。座る場所を探すのは、もう少し暗くなってからでいいんじゃない?」
「じゃあ、そうします」
絵美里はあっさり頷いた。
今日は三人だった。
千尋は父方の実家へ行くため東北にいて、佳奈子は別の友達と先に予定が入っている。五人のうち三人だけになったからといって、何か特別な感じがするわけでもない。
予定が合った三人で、近くの夏祭りへ来ただけだった。
「何から食べる?」
みつみが左右の屋台を見比べる。
「いきなり食べる前提なのね」
「だっていい匂いするじゃん」
「私はあとでもいいけど……あ、でも焼きとうもろこしはちょっと気になる」
志帆が言った瞬間、みつみが立ち止まった。
「じゃあそれ行こう」
「みつみが食べたいもの聞いたんじゃないの?」
「志帆が気になるなら私も気になった」
「何それ」
笑いながら、志帆が屋台の列へ向かう。
絵美里もその後ろへ続き、三人で焼きとうもろこしを一本ずつ買った。
熱い醤油の香りが近くなる。みつみは一口かじってすぐ、口元を押さえた。
「熱っ」
「買ったばっかりなんだから当たり前でしょう」
「分かってたけど、思ったより熱かった」
志帆は笑いながら少しずつ食べている。
絵美里は一口食べてから、とうもろこしを見た。
「これ、食べにくいですね」
「そこ?」
「おいしいですけど、歯に挟まりません?」
「挟まる」
みつみが即答すると、志帆まで吹き出した。
「食べ始めて最初に気にするところじゃないでしょ」
「気になったので」
三人で歩きながら食べ終え、次はかき氷の色で迷い、みつみが見つけた輪投げを一回だけやった。
景品は取れなかった。
「今の絶対入ったと思ったのに」
「輪っか、一回かかってから落ちたじゃない」
「それは入ったに入れてほしい」
「ルール変えないでください」
絵美里に言われ、みつみは残った一本の輪を指で回した。
「エミリンやる?」
「いいです。見てる方が面白いので」
「じゃあ志帆」
「私はさっきやったでしょう」
「もう一回」
「自分で投げなさい」
最後の輪も外れた。
みつみが肩を落として屋台を離れたところで、少し先に並んでいる小さな露店が目に入った。
食べ物ではなく、アクセサリーや小物を並べた店だった。細いチェーンのついた飾りや、革紐のブレスレット、金属製の小さなチャームが、木の台の上にぎっしり並んでいる。
「待って、あれ見たい」
さっきまで輪投げを引きずっていたのを忘れ、みつみはすぐそちらへ向かった。
「切り替え早いわね」
志帆が笑いながら追い、絵美里も二人のあとに続いた。
みつみは台の端から順番に見ていたが、黒っぽい金属で作られた小さな羽根の飾りを見つけて手を止めた。
「これ、志帆好きそう」
「どれ?」
志帆が隣から覗き込む。
小さな羽根が二枚、少し重なるように作られていて、中央には紫色の石が一つ入っている。
「……あ、これ結構いい」
「でしょ? なんか志帆のバングルにも似てない?」
「雰囲気は近いけど、こっちは羽根の向きが逆ね。それに、この石はたぶん普通のガラス。魔石っぽく見せてるだけだと思う」
「見ただけで分かるの?」
「たぶんよ。光り方が違うもの。でも、普通のアクセサリーなら、これで十分でしょうね」
志帆は手に取らず、少し角度を変えて飾りを見ている。
みつみも同じように顔を傾けた。
「じゃあ、ダンジョン装備っぽいけど普通につける用?」
「そうね。用品店の装備なら実際に使う前提で見るけど、これは見た目だけで選べるでしょう? こういうのはこういうので好き」
「それならこっちも見て。月のやつ」
みつみがすぐ隣のチャームを指す。
「あ、それもいいわね。こっちは少し細すぎるかな。でも――」
そこから話が早かった。
羽根と月ならどちらがいいか。黒一色より銀が入った方がいいか。石が大きいと安っぽく見えるか。チェーンを長くした方が合うのか。
最初にみつみが見つけた一つから、いつの間にか二人で台の半分近くまで見比べている。
絵美里は、その少し横に立っていた。
二人の会話を聞きながら、並んでいる小物へ視線を落とす。
みつみが隣の列へ目を移し、星形のチャームを指した。
「これ、星もあるよ」
「待って。今、こっち見てるから」
「こっちの方が絶対いいって」
「だから待ってって。……あ、本当。そっちは形がいい」
志帆がみつみの指した方へ寄る。
絵美里は何も言わず、一歩だけ後ろへ下がった。
しばらくして、みつみが黒い羽根のチャームを一つ買うことにした。
「志帆先輩が買うんじゃないんですか?」
店を離れてから、絵美里が初めて口を挟んだ。
「私?」
「さっき、ずっと見てたので」
「欲しいとは思ったけど、今日はいいかな。みつみは?」
「私はこれ、バッグにつける」
小さな袋を持ち上げるみつみに、志帆が笑う。
「私が好きそうって言って見つけたのに、自分で買ったのね」
「見てたら欲しくなった」
「まあ、そうなると思ったけど」
二人がまた笑った。
絵美里は少しだけ黙り、それから志帆の反対側へ回った。
「志帆先輩、喉渇きませんか? さっき飲み物の屋台ありましたよね」
「ん? ああ、そうね。ちょっと飲みたいかも。絵美里ちゃんは?」
「私はレモネードにします。じゃあ行きましょう。みつみ先輩も来ますか?」
「行く。何あったっけ」
「ラムネと、レモネードと、お茶もありました」
「よく見てたね」
「通ったので」
絵美里はそう答え、志帆の横を歩き始めた。
みつみは二人の少し前へ出たり、屋台を覗いて遅れたりしながらついていく。
飲み物を買った頃には、空の青がかなり濃くなっていた。提灯の明かりが目立ち始め、通りを歩く人もさっきより増えている。
「そろそろ場所探した方がよくない?」
みつみがスマートフォンで時間を確認する。
「そうね。ここで見てたら人の頭しか見えなさそう」
志帆も周囲を見回した。
「少し外れた方へ行きますか?」
絵美里が人の流れの先を見る。
三人で通りを抜け、花火が見えそうな場所を探して歩く。すでに座って待っている人も多く、よさそうな場所はかなり埋まっていた。
「もっと早く探せばよかったかな」
「さっき『まだ早い』って言った人がいるんだけど」
みつみが志帆を見る。
「そのときは本当に早かったのよ」
「先輩、あっち少し空いてます」
絵美里が指した先に、三人で並べそうな隙間があった。
「ほんとだ。行こ」
みつみが先に向かい、三人分の場所を確保して端へ座る。
志帆がその隣へ腰を下ろすと、絵美里は迷う様子もなく志帆の反対側へ座った。三人で並んだまま、みつみは買ったレモネードを膝の間へ置く。
「エミリン、今日ちょっと静かじゃない?」
思ったまま口にすると、絵美里が一瞬だけみつみを見た。
「そうですか?」
「さっきまで普通だった気もするけど……今ちょっとだけ?」
志帆も絵美里へ目を向ける。
「別に何もないですよ」
絵美里はそう答え、レモネードの蓋を開けた。
「ならいいけど」
みつみも深く考えず、自分の飲み物へ戻る。
志帆もそれ以上は聞かなかった。ちょうどそのとき、周りから小さな声が上がった。
少し遅れて、夜空の低いところから光が昇っていく。
「始まる」
みつみが顔を上げた。
最初の花火が開く。
音は一拍遅れて腹の奥まで響き、赤い光が夜空に丸く広がった。続いて青、緑、白と色が重なり、さっきまで暗かった空が一瞬ずつ明るくなる。
みつみはスマートフォンを出して一枚撮ったものの、画面を見てすぐ下ろした。
「全然違う」
「何が?」
「写真。見た方がいい」
「それはそうでしょうね」
志帆は空を見たまま笑う。
絵美里もスマートフォンを出さなかった。
次の花火が大きく開いたとき、絵美里が小さく息を漏らした。
「……きれいですね。写真で見たのとは全然違います」
隣の志帆が頷く。
「うん。これは来てよかった」
「でしょ?」
なぜかみつみが得意げに言う。
「みつみが上げてるわけじゃないでしょう」
「でも来たじゃん」
「それは来たけど」
三人で笑ったあと、また空を見る。
花火が続いている間は、ほとんど話さなかった。
大きな音がするたびに周りから歓声が上がり、煙の向こうに次の光が開く。途中でみつみが「あれ好き」と指を差せば、志帆が「ああいう色の重なり方いいわね」と返し、絵美里も二人の視線を追った。
やがて最後の大きな花火が連続して上がり、空が昼間みたいに明るくなる。
音が途切れると、少し遅れて周囲に拍手が広がった。
「終わったね」
みつみが立ち上がり、少し痺れた足を伸ばす。
「帰る前に、もう一回だけ屋台見ない?」
「まだ見るの?」
「さっき食べてないのある」
「結局食べるのね」
志帆も立ち上がった。
絵美里はその隣へ並び、少し先の通りを見た。
「私、さっきのかき氷なら食べてもいいです」
「じゃあ決まり。行こ」
三人は人の流れに混ざって、もう一度明るい屋台の方へ歩き出した。




