第85話 夏休みは一日じゃない
期末テストが終わってから、学校全体の空気が明らかに軽い。
答案が返ってくるまでは何も確定していないはずなのに、廊下でも教室でも、聞こえてくるのは夏休みの話ばかりだった。
旅行に行くとか、部活の合宿があるとか、去年と同じところでアルバイトをするとか。
昼休みには、窓際の席で夏祭りの日程を調べている子もいた。
まだ終業式さえ来ていないのに、みんなの気分だけはもう夏休みへ向かっている。
みつみも例外ではなかった。
去年の夏休みは、四人でいろいろなダンジョンへ行った。
今年は五人いる。
だから何が変わるのかと聞かれても、まだ分からない。ただ、去年と同じにはならない気がして、それだけで少し楽しみだった。
放課後。
部室には、ダン活部の五人が揃っていた。
「海行きたい」
椅子に座るなり、佳奈子が言った。
みつみは鞄を机に置く途中で振り返る。
「行く?」
「行きたい。夏休みだし。海」
「二回言った」
「大事だから」
佳奈子は机に頬杖をつき、そのままスマートフォンを取り出した。
ダンジョンへ行きたいでも、新しい場所へ行きたいでもない。
ただ海へ行きたい。
佳奈子がそういうことを言い出すのは珍しくなかったけれど、みつみはもう行く気になっていた。
「どこの海?」
「そこからなんだよね」
佳奈子が検索画面を開く。
「普通に海水浴したいんだけど、夏休み入ったら混むよね」
「場所によるんじゃない?」
千尋が隣の椅子を引きながら言うと、志帆も鞄を置いた。
「海水浴場なら、もう混み始めてると思う。夏休み入ったらもっと増えるでしょ」
「朝早く行く?」
「海のために早起きするの?」
佳奈子が嫌そうな顔をする。
「佳奈子が行きたいんでしょ」
「行きたいのと早起きしたいのは別」
「じゃあ混んでても我慢しなよ」
「それも嫌」
「わがまま」
「楽しく遊ぶための条件を詰めてるの」
佳奈子はそう言い切って、画面をスクロールした。
みつみも自分のスマートフォンを出したところで、ふと思いつく。
「じゃあ尾洗は?」
佳奈子の顔が上がった。
「あ。あるじゃん、海」
「ダンジョンだけどね」
「海は海でしょ」
千尋の指摘を、佳奈子は気にしなかった。
尾洗町ダンジョンには海がある。
以前行ったときは攻略することが目的だったから、泳ぐどころか海を見て喜んだあと、そのまま先へ進んだ。
砂浜で遊ぶために立ち止まるなんて考えもしなかった。
みつみは尾洗町ダンジョンのページを開く。
「行こうよ。今度は泳ぐだけ」
「ダンジョンに行って、ダンジョンしないの?」
志帆が笑った。
「海する」
「海するって何よ」
「泳いだり、浮いたり」
「それは海水浴」
「じゃあ海水浴する」
「最初からそう言いなさいよ」
言い直したみつみに、千尋が小さく笑う。
みつみは画面に表示された尾洗の海岸を眺めた。
前に行った場所なのに、今日は写真の見え方が少し違う。
前なら、その先に何がいるのか、どこまで続いているのかの方が気になった。
今は、佳奈子がここで何をして遊びたいのかが気になる。
「佳奈子、何する?」
「海で?」
「うん」
「泳ぐ。浮く。なんか食べる」
「三個目、海じゃなくない?」
「海で食べれば海」
「じゃあスイカ?」
「持ってくの大変でしょ」
「割る?」
「だから持ってくの大変だって」
佳奈子は呆れたように言ったあと、少し考えた。
「ビーチボールくらいなら持ってってもいいかも」
「やる」
「まだ買うって言ってない」
「持ってる?」
「家にあった気がする」
「じゃあ決まり」
「勝手に決めないで」
そんなやり取りをしている向かいでは、絵美里が尾洗町ダンジョンのページを開いていた。
「でも、モンスターは出ますよね」
「出るね」
「水着だけで入るのは危ないと思います」
「確かに」
佳奈子が画面から顔を上げた。
「誰か見張ってればよくない? 交代で」
志帆が少し考える。
「それならいけそう。泳ぐ組と、普通に装備してる組で分かれればいいんじゃない?」
「装備して砂浜にいるの?」
「誰かはね。全員水着でモンスター出てきたら困るでしょ」
「確かに困る」
「着替える場所も確認した方がいいわね。あと荷物をどこに置くかと、海に入る範囲。遊ぶのに夢中になって奥まで行ったら普通に危ないし」
志帆が尾洗の施設情報を調べ始める。
「あと水分。普通の海より気を抜きそうだから、多めに持ってった方がいいかも」
「志帆、急に本気じゃん」
佳奈子が言う。
「行くならちゃんと遊びたいでしょ」
「分かる」
みつみは頷いた。
行けるかどうかを考えていたはずなのに、志帆が話し始めると、もう実際に行く前提で準備が進んでいく。
そういうところも面白い。
「じゃあ、海で遊んで、疲れたら交代」
「遊んでる方が疲れる前提なんだ」
千尋が言う。
「泳ぐと疲れるよ」
「知ってる」
「千尋、泳げる?」
「普通に」
「志帆は?」
「泳げるわよ」
「佳奈子」
「泳げる」
みつみは最後に絵美里を見る。
「エミリンは?」
「泳げます」
「全員いけるじゃん」
「なんで誰か泳げないこと期待してたの?」
千尋が笑う。
「期待してないよ。確認」
「みつみは?」
「泳げる」
「じゃあ問題なし」
佳奈子がまとめた。
絵美里はまだ尾洗のページを見ている。
みつみはそれに気づいた。
「エミリン、海好き?」
「嫌いではないです。ただ、ダンジョンの中の海で泳ぐというのはやったことがないので」
「そこなんだ」
「気になりません?」
「気になる」
みつみはすぐに答えてから、少し笑った。
自分なら、ダンジョンの海というだけで行きたくなる。
でも、絵美里も同じところを気にしているのが少し意外だった。
「エミリンも、そういうの気になるんだね」
「どういうのですか」
「攻略じゃないやつ」
絵美里は一瞬だけ黙り、開いていた画面へ目を落とした。
「……まあ、せっかくあるなら、一回くらいは」
「泳ぐだけだよ?」
「分かってます」
「モンスター探さない?」
「探しません」
「素材も?」
「採れそうなら採ります」
「採るんじゃん」
佳奈子が笑った。
「目の前にあるものまで無視する必要はないでしょう」
「それ海水浴じゃなくなってない?」
「海水浴しながら採ればいいんです」
「それ、ちょっと楽しそう」
みつみが言うと、絵美里も小さく笑った。
攻略しなくてもいい。
何かを倒すのが目的じゃなくてもいい。
同じダンジョンでも、誰と何をしに来るかが変われば、前とは別の場所みたいになるのかもしれない。
「じゃあ決まり」
みつみが言うより早く、佳奈子が予定表を机の中央へ出した。
「ここ。夏休み入って最初の休み、みんな空いてる?」
五人がそれぞれ予定を確認する。
「私は大丈夫」
千尋が最初に答えた。
「私も」
「私も空いてる」
志帆に続いて、佳奈子も頷く。
最後に絵美里が予定を確認した。
「大丈夫です」
「全員空いてるじゃん」
みつみが言う。
「じゃあここ」
佳奈子が満足そうに予定を入れた。
「海、決定」
「尾洗ね」
「尾洗で海」
みつみも予定表に入れようとして、ふと思い出した。
「あ、美部谷」
指が止まる。
その名前に、千尋も「ああ」と反応した。
この前、次に行くダンジョンを探していたとき、中級者向けまで候補を広げて見つけた場所だ。
「そこも行きたいんだった」
「海と別にすればいいじゃん」
佳奈子があっさり言った。
みつみは顔を上げる。
「両方?」
「夏休み、一日しかないわけじゃないし」
「確かに」
言われてみれば当たり前だった。
次のダン活を一つに決めるつもりで考えていたから、どちらかを選ぶものだと思っていた。
夏休みなら、一つ終わったら次へ行けばいい。
「じゃあ美部谷も行こう」
「まだ何するかも決めてないでしょ」
千尋が言いながら、美部谷を検索し直している。
「でも千尋も行きたいんでしょ?」
「行きたいよ」
返事が早かった。
みつみは千尋のスマートフォンを覗き込む。
「何が気になる?」
「ダンジョンもだけど、この辺」
千尋が地図を拡大した。
「駅の近く、結構いろいろあるよ。店も多いし」
「ダンジョンじゃないんだ」
「ダンジョンも行くって言ったじゃん」
「でも最初に街見せた」
「そこ気にする?」
千尋が笑う。
志帆も自分のスマートフォンで美部谷を調べ始めた。
「ほんとだ。駅前だけでも結構ある。ダンジョン目的で行って、帰りに寄るでもいいし、先に街で遊ぶでもいいんじゃない?」
「それ、一日で足りる?」
「足りなかったらまた行けばいいでしょ」
千尋の答えに、みつみは画面から顔を上げた。
「それもありか」
「夏休み長いんだから、全部一回でやる必要ないでしょ」
千尋は美部谷のページを少し眺めてから、予定表にはまだ入れなかった。
「私は美部谷も行きたい。でも日程はあとでいい。海のあとで」
「珍しい」
佳奈子が言うと、千尋が眉を上げる。
「何が?」
「千尋が、あとでいいって言うの」
「別にいつも急いでないけど」
「ダンジョンだと割と決めるの早いじゃん」
「行きたいのは決まってるから。日にちまで今決めなくていいってだけ」
千尋はそう言ってスマートフォンを伏せた。
みつみはそのやり取りを聞きながら、なんとなく笑った。
「何?」
千尋が気づく。
「千尋、美部谷行きたいんだなって」
「今言ったでしょ」
「うん。だから」
「意味分かんない」
「私も分かんない」
自分でも、何が面白かったのかうまく説明できない。
でも、千尋がいつもより少し早く答えたことも、ダンジョンより先に駅前の地図を見せたことも、なんとなく気になった。
美部谷という場所そのものより、千尋がそこへ行ったら何を見つけるのかの方が、今は少し面白そうに思える。
「エミリンは美部谷どう?」
「行きたいです」
今度も返事は早かった。
「何が気になる?」
みつみが続けて聞く。
絵美里は少し考えた。
「中級者向けですし、内部の情報も少ないので。実際に見た方が早いです」
「やっぱりそっちか」
佳奈子が笑う。
「でも街も見ますよ」
「お」
「せっかく行くなら」
絵美里が付け足すと、志帆がにやっとした。
「エミリン、最近それ増えたね」
「何がですか」
「せっかくだから、ってやつ」
「そうですか?」
「前は効率悪いって言いそうだった」
「言いません」
絵美里は否定したあと、少し間を置いた。
「……内容によります」
「ほら」
志帆が笑い、絵美里も困ったように口元を緩めた。
みつみは五人の顔を順番に見た。
佳奈子は海へ行きたい。
千尋は美部谷へ行きたい。
絵美里は中級者向けのダンジョンが気になるけれど、街を見るのも嫌ではないらしい。
志帆は、行くと決まればどうすればちゃんと楽しめるのかを考え始める。
そして自分は、全部ちょっとずつ気になる。
前なら、新しいダンジョンの名前を見つけただけで、そこへ行きたいと思っていた。
今もそれは変わらない。
ただ、誰かが楽しそうに話していると、その人が何を見つけるのかまで見てみたくなる。
「みつみ?」
志帆に呼ばれた。
「何?」
「ぼーっとしてたけど」
「してないよ。みんな何したいのかなって思ってた」
「今ずっとその話してたでしょ」
千尋が笑う。
「そうなんだけど」
うまく説明できなくて、みつみも笑った。
結局、美部谷の日程は決めなかった。
代わりに、尾洗へ行く日だけが五人の予定表に入った。
佳奈子が椅子の背にもたれ、満足そうにスマートフォンを眺める。
「よし。夏休み一個目」
「一個目ってことは、二個目もある?」
みつみが聞く。
「あるでしょ。美部谷もあるし、祭りとかもあるし」
「祭り」
「そこ食いつくんだ」
「花火ある?」
「まだ何も決めてないって」
「屋台は?」
「だから決めてないって」
「エミリン、祭りは?」
突然振られた絵美里が顔を上げる。
「行きますよ。予定が合えば」
「何したい?」
「今ですか?」
「うん」
「……かき氷?」
「疑問形じゃん」
「急に聞くからです」
みつみが笑うと、絵美里も少し笑った。
「千尋は?」
「何が?」
「祭りで何したい?」
「なんで急に全員に聞き始めたの?」
「気になった」
「じゃあ私は焼きそば」
「食べ物ばっかり」
「みつみが聞いたんでしょ」
今度は志帆が笑った。
「志帆は?」
「私はまだ行くって言ってないわよ」
「行かないの?」
「そういう意味じゃなくて、予定も見てないでしょ」
「じゃあ予定合ったら?」
「……花火は見たいかな」
「私も」
みつみがすぐに答える。
「みつみの希望聞いてないけど」
「一緒だったから」
海へ行く予定を一つ決めただけなのに、話はもう美部谷を越えて、その先へ進んでいる。
誰かが一つ言うたびに、別の誰かが何かを思いつく。
それを聞くと、みつみもやりたくなる。
夏休みはまだ始まっていない。
それなのに、五人の予定表には、これからやりたいことだけが少しずつ増えていった。
次回は明日12:20更新です。




