第81話 鏡の国にウサギはいない
右側の壁を追い始めてから、しばらくミラーレイスは出てこなかった。
さっきまでなら、出ない方がありがたいはずだった。けれど今は、五人とも鏡の奥へ黒い影を探している。
「探すと出ないね」
みつみが言うと、佳奈子が弓を下げたまま笑った。
「別に呼ばなくていいよ。出たら見るってだけで、会いたいわけじゃないから」
「私はちょっと会いたい」
「みつみ先輩はそうでしょうね」
絵美里の返しに、みつみが振り向く。
「エミリンは?」
「確かめたいことはあります。でも、わざわざ戦闘を増やす必要はないです」
「それ、会いたい寄りじゃない?」
「違います」
即答した絵美里の横で、志帆は右側の鏡を眺めていた。
さっきまでとは、見方が少し変わっている。
通路の奥に見えるものだけでなく、その像がどの鏡に映っていて、自分が一歩動くとどうずれるのかまで気になるようになっていた。
「……これ、自分たちでも結構変ね」
志帆が一歩横へ動く。
正面の鏡にいた志帆の姿が端へ流れ、別の鏡の奥へ同じ姿が現れた。
「今、志帆消えた」
「私はここにいるけど」
「鏡の中の志帆」
「それなら分かるわ」
みつみも同じ場所へ立ち、身体を左右へずらしてみる。
何重にも映ったとんがり帽子が、鏡の境目を越えるたびに消えたり増えたりした。
「おお」
「遊び始めた」
佳奈子も口ではそう言いながら、みつみの少し後ろへ立って鏡を見ている。
「でも、さっきのクラウドジェリーと同じだね。本人は普通に動いてるだけなのに、鏡だけ見てると急に別のとこに出る」
「そうなのよね」
志帆はそこで言葉を切った。
まだ答えにするには早い。
千尋が少し先の角を覗き、何もいないことを確認してから振り返った。
「じゃあ、出てきたら私が気配見る。志帆は鏡見る?」
「お願い。無理そうなら普通に倒しましょう。確認のために危ないことするほどじゃないし」
「了解」
「私も見る」
みつみがすぐ加わる。
「みつみは敵も見てて」
「両方見る」
「欲張るなあ」
佳奈子が笑ったところで、千尋の表情が変わった。
そのまま左手を上げる。
「いた」
声の調子だけで、四人もすぐに切り替わった。
正面の鏡の奥。
少し離れたところに、人型の黒い影が立っている。
今度は誰も、そこへ向かってすぐ攻撃しなかった。
「《気配察知》」
千尋が意識を集中する。
鏡に見える影は正面だ。
けれど、千尋が顔を向けたのは右だった。
「右前。五メートルくらい」
「やっぱり違う」
志帆が小さく言った。
右前に直接見えるのは、鏡と、その手前で折れている通路だけだった。
絵美里がタワーシールドを構える。
「私が受けます。長く見る必要はないですよね?」
「うん。少しだけ」
「なら大丈夫です」
志帆が黒銀のバングルへ指を添えた。
「《プロテクション》」
淡い光が絵美里を包む。
「これで少し余裕ができるわ。危ないと思ったら、すぐ倒しましょう」
「了解です」
絵美里が右前へ向き直る。
鏡の中では、正面にいるミラーレイスがゆっくりこちらへ近づいてきた。
その姿だけを見ていると、本当に正面から来ているようにしか見えない。
「動いた」
みつみが鏡を指す。
「でも千尋は右って言ってる」
「まだ右前。近づいてる」
千尋の言葉に合わせて、絵美里も盾の角度を変えた。
次の瞬間、通路の右側にある角から黒い腕が現れた。
「そこ!」
絵美里が盾を押し出す。
ミラーレイスの腕がタワーシールドへぶつかり、鈍い音が響いた。
志帆は戦闘より一歩外側にいながら、鏡から目を離さない。
「みつみ、さっきの正面」
「見てる。……あ、消えた」
ミラーレイスの実物は、絵美里の前にいる。
それなのに正面の鏡にあった黒い影は、鏡の端へ滑るように消えていた。
「左にもいる」
佳奈子が別の鏡を示す。
左奥の鏡には、絵美里と向き合うはずのレイスが、まるで壁の向こう側へ移ったような角度で映っている。
志帆が二歩ほど横へ移った。
左奥にいた影が消える。
同じ瞬間、さらに奥の鏡へ別の黒い姿が現れた。
「……そういうこと」
「分かった?」
千尋が《黒月》を抜きながら聞く。
「たぶん。もういい、倒して」
その一言で、佳奈子が矢をつがえた。
絵美里がレイスを正面で受け、千尋が横へ回る。鏡像ではなく、今度は実際にそこにいる黒い身体へ狙いが集まった。
佳奈子の矢が入り、みつみの《マジックボール》が続く。
レイスが向きを変えかけたところへ、千尋が踏み込んだ。
《黒月》が黒い影を斬り抜ける。
輪郭が崩れ、ミラーレイスは光へ変わって消えた。
静かになった通路で、みつみがすぐ志帆を見る。
「で?」
「抜けてないと思う」
志帆はさっきまでレイスが映っていた鏡へ近づいた。
「本体はずっと通路を動いてた。私たちが場所を変えると、映る鏡が変わるでしょう? その切り替わるところだけ見てると、こっちの鏡へ消えて、向こうの鏡から出てきたみたいになる」
「ああ」
千尋が自分の位置から鏡を見る。
「だから気配察知だと右なのに、正面に見えたりしたんだ」
「そう。たぶん反射が何回も重なって、実際とは違う場所にいるように見えてる」
佳奈子が左奥の鏡を覗く。
「じゃあ、壁抜けじゃなくて、鏡が勝手にワープさせてた感じ?」
「見た目だけね」
「それなら分かりやすい」
みつみは鏡の前に立つと、少しずつ横へ移動した。
「私も消える?」
「今消えた」
佳奈子が答える。
「どこ出た?」
「あっち。エミリンの横」
「私の横にはいません」
絵美里が真顔で言う。
「鏡の中」
「それならいます」
みつみは今度は逆方向へ動き、自分の反射がどの鏡へ移るかを追い始めた。
千尋も《黒月》を鞘へ戻し、その隣に立つ。
「ほんとだ。ここからだと、みつみが壁の向こう歩いてるみたい」
「私、壁抜けできる」
「できてない」
「一瞬できた気がしたのに」
「気だけね」
佳奈子まで位置を変えながら鏡を覗き始め、五人はしばらく、その場で自分たちを映して遊んだ。
仕組みが分かったからといって鏡が減るわけではない。
それでも、さっきまで何を見せられているのか分からなかった場所が、急に少しだけ素直になった。
「じゃあ、行きましょうか」
絵美里が言った。
「右側の壁を追うのはそのままで、鏡に見える道を本物だと思わなければ、さっきよりは整理できます」
「エミリン、ちょっと楽しそう」
佳奈子が言う。
「分かるようになった方が進みやすいので」
「そういうことにしとく」
「そういうことです」
五人はまた歩き出した。
◇
違いはすぐに出た。
右へ曲がった先で、正面と左の二方向へ通路が伸びているように見えたが、今度は千尋がすぐには進まなかった。
「左の方、たぶん鏡だよね」
「端がある」
佳奈子が壁際を指す。
近づいてみると、本当に左は鏡だった。
前なら分岐として扱っていたものが、一枚の鏡だと分かる。
「昨日の私たち、これ何個か道に数えてたかも」
みつみが言う。
「絶対数えてる」
「だから地図っぽくならなかったのね」
志帆が苦笑する。
絵美里はスマートフォンに残した前回の記録を開きかけ、少し考えて閉じた。
「今見ても、どこまでが実際の分岐だったか分からないですね」
「じゃあ今日のでいいじゃん」
佳奈子が先へ進む。
「そうですね」
絵美里もそのままスマートフォンをしまった。
右手法を続けながら、五人は鏡の端や壁のつながりを見るようになった。
時々、少し離れた場所に自分たちの姿が現れる。
そのたびにみつみが「また向こうにいる」と面白がり、千尋が立ち位置を変えて確かめる。志帆は反射の重なりを追い、佳奈子は「本物こっちだからね」と自分の足元を指した。
絵美里だけは最初、通路の整理に集中していたが、何度目かの鏡で足を止めた。
「これ、後ろから見ると全然違いますね」
「どれ?」
みつみがすぐ戻ってくる。
絵美里が指した鏡には、五人が今歩いてきた通路とは別方向へ進んでいるような姿が映っていた。
「ほんとだ」
「前回これ見てたら、戻ってきたと思ってもおかしくないかも」
千尋も横へ並ぶ。
結局、三人で少し眺めてから、佳奈子に「右の壁、置いてくよ」と呼ばれて歩き出した。
仕組みが分かっても、鏡面区画そのものが急につまらなくなることはなかった。
むしろ分かるようになった分だけ、「これは本物」「こっちは反射」と確かめる遊びが増えている。
それから何度か角を曲がったところで、先を歩いていた佳奈子が止まった。
「……あれ、階段じゃない?」
全員が佳奈子の見ている方を向く。
正面の鏡の脇に、細い石壁がある。
その奥へ少し入り込むと、上へ続く階段が見えた。
「階段!」
みつみが先に駆け寄りかけ、途中で千尋を見る。
「これ本物?」
「触れば?」
「そうだった」
みつみが石の手すりへ手を置く。
「本物」
「そこまで疑うようになったんだ」
佳奈子が笑う。
志帆も階段の下から上を見上げた。
「ようやく鏡の外ね」
「五階ですか」
絵美里がスマートフォンをしまい、盾を持ち直す。
「何があるか分からないので、上がったら一度止まりましょう」
「うん」
千尋を先頭に、五人は階段を上った。
◇
階段の先は、思っていたより小さな部屋だった。
鏡はない。
石壁に囲まれた静かな空間で、奥には帰還ゲートがある。
みつみが部屋の中を見回した。
「……え、ここ?」
「何もいないね」
佳奈子も弓を下げたまま、少し拍子抜けした顔をする。
千尋が数歩進む。
「もしかして、ゴール?」
「もう?」
志帆がそう言った直後だった。
五人が部屋へ入ったところで、視界の端に文字が浮かぶ。
――ダンジョンクリア。
一瞬、全員が黙った。
「……クリアした」
みつみが最初に声を出す。
その下へ、もう一つ表示が続いた。
――経験値ボーナス獲得。
「ほんとにゴールだ」
千尋が笑った。
「ボスなし?」
「ゴール到達型ですから、いなくてもおかしくないです」
絵美里はそう答えながら、表示をもう一度確かめている。
佳奈子が帰還ゲートを見た。
「さっきまで鏡であんなに迷ってたのに、最後あっさりだね」
「でも、クリアはクリアでしょ」
みつみの声が少し弾む。
「通尾、クリア!」
「ええ」
志帆も笑った。
「迷宮を抜けた先に待つものが、静かな帰り道だけというのも悪くないわ」
「それ、ちょっと格好つけた?」
「少しだけ」
自分で認めた志帆に、千尋が笑う。
絵美里は四人のやり取りを聞きながら、もう一度部屋を見回した。
「二回でクリアできましたね」
「エミリンはそこなんだ」
佳奈子が言う。
「成果は成果ですから。嬉しいですよ」
その言い方がいつもより少しだけ素直で、みつみが絵美里の顔を見る。
「じゃあ、記念写真撮る?」
「ここでですか?」
「クリアしたし」
「いいんじゃない?」
佳奈子がスマートフォンを取り出した。
鏡の階では何枚撮っても誰が何人いるのか分からなかったのに、今度は五人しか映らない。
「普通」
みつみが画面を見て言う。
「写真って普通はそうだから」
「でも今日ずっと増えてたから」
「じゃあ五人しかいない記念で」
佳奈子がスマートフォンを構える。
五人は帰還ゲートを背に並び、通尾をクリアした日の写真を一枚残した。
◇
帰還ゲートを抜け、一階へ戻る。
一階で施設を出る支度を済ませ、外へ出るころには、さっきまでの鏡だらけの景色が少し遠く感じられた。
駅へ向かう途中、みつみがスマートフォンを取り出す。
「そういえば、ボーナス入ったじゃん。レベル見よ」
「今?」
「今」
歩きながらは危ないので、五人は道の端で一度止まった。
公式アプリを開いたみつみが、すぐ顔を上げる。
「十二になってる」
「私も十二」
志帆も画面を見せた。
千尋は少し遅れて自分の表示を確認する。
「十四。上がった」
「私は九です」
絵美里も続く。
最後に佳奈子が自分の画面を見て、肩をすくめた。
「私は十一のまま。まあ、この前上がったばっかだしね」
新しいスキルが増えた者はいなかった。
みつみはそれを確認すると、すぐアプリを閉じる。
「でも十二」
「数字だけでも嬉しい?」
佳奈子が聞く。
「嬉しいよ。次また何か増えるかもしれないし」
「私は十四って、なんか半端」
千尋は言いながらも少し嬉しそうだった。
「でも前よりできることは増えてるし、まあいいか」
絵美里は自分のLV9をもう一度見てから画面を閉じた。
「通尾は、一度仕組みが分かった状態でもう一度歩けば、かなり正確にルートを取れると思います」
「また来る気あるんだ」
佳奈子が言う。
「クリアしたら来ないんですか?」
「いや、そういう意味じゃないけど」
みつみがすぐ会話へ入る。
「次は鏡で動画撮りたい。写真より分かりやすそう」
「私は反射の組み方をもう少し見たいわね。どう繋がって見えていたのか、まだ全部分かったわけじゃないし」
「私は今度、気配察知なしでレイスの本体当てられるかやってみたい」
千尋まで乗ると、佳奈子が三人を順番に見た。
「クリアしたばっかなのに、もう次やることあるんだ」
「佳奈子先輩はないんですか?」
絵美里に聞かれ、佳奈子は少し考えた。
「鏡じゃないところで休憩したい」
「それ通尾でやる必要ある?」
千尋が笑う。
「塔の外なら普通にできるし」
「じゃあ今でいいじゃん。なんか飲まない?」
「あ、それは賛成」
みつみの返事は早かった。
通尾ダンジョンはクリアした。
それでも今日が終わったわけではない。
五人は駅へ向かいながら、冷たいものにするか温かいものにするかで、また別の話を始めていた。




