第80話 見えてはいる
右側の壁は、そのまま奥へ続いていた。
千尋が壁の位置を確かめながら先を歩き、その少し後ろを絵美里が続く。みつみ、志帆、佳奈子も並びを変えながらついていき、五人は前回より先の鏡面区画へ入っていった。
細い通路の先は、すぐ二つに分かれているように見えた。
「右と、正面?」
みつみが右を覗き込む。
千尋は一歩だけ前へ出たあと、首を傾げた。
「……いや、正面だけじゃない?」
「え?」
「右、鏡だよ」
言われて近づくと、右へ続いているように見えた通路は、正面の景色が斜めに映り込んでいるだけだった。
佳奈子も少し離れたところから見直す。
「今の、普通に曲がるとこだと思った。右の壁追ってなかったら絶対そっち行ってる」
「私も行ってた」
みつみが鏡へ手を伸ばすと、千尋が笑った。
「こういうときは触っていいかも」
「でしょ?」
「ずっと触って歩かなくていいからね」
佳奈子に付け足され、みつみは伸ばした手で鏡を軽く叩いた。
「ちゃんと壁」
「それを確認してるんだから当然でしょ」
右側の壁を追う方法そのものは、前回よりずっと楽だった。
分岐へ来るたびに、その場の見た目だけで進む方向を選ばなくていい。右側の壁がどこへ続いているかだけ確認すれば、とりあえず次の一歩は決まる。
ただし、それで現在地まで分かりやすくなるわけではなかった。
いくつか角を曲がったところで、千尋が足を緩める。
「これ、さっきの通路に見えない?」
「さっきどころか、もう全部同じに見える」
佳奈子が左右の鏡を見比べる。
絵美里はスマートフォンを取り出し、途中で記録していた曲がった方向と回数を確認した。
「右側の壁は途中で変えていません。ですから、見た目が同じでも同じ場所へ戻ったとは限らないです。ただ、現在地を正確に聞かれると私も分かりません」
「エミリンでも?」
「地図があるわけではないので」
「じゃあ、今は右だけ信じればいいんじゃない?」
佳奈子が言うと、絵美里は少し考えてからスマートフォンをしまった。
「今のところは、それでいいと思います」
「ほら」
「佳奈子先輩は、分からなくなるのが早すぎる気もしますけど」
「分からないものを分かったふりするよりいいじゃん」
その横で、みつみは別のものを見ていた。
「エミリン、八人いる」
「はい?」
「鏡の中。あ、九人目もいる」
「全部私です」
「知ってる」
「なら数えなくていいじゃないですか」
「何人まで増えるかなって」
志帆が笑いながら、みつみの見ている鏡へ目を向けた。
「こうして見ると、道より先に目の方が迷わされるわね。歩き方を決めても、見えているものまで整理されるわけじゃないみたい」
「前回より今日の方が、それ分かる」
佳奈子が正面の通路と鏡の中の通路を交互に見る。
「行く方は決まってるのに、どこ見てるのか分かんなくなる」
その言葉が終わる前に、千尋が片手を上げた。
「待って」
四人の足も止まった。
少し先の鏡の奥に、人の形をした黒い影が立っている。
「レイス?」
みつみが杖を構えた。
「いるね。でも……」
千尋はすぐには《黒月》を抜かなかった。
正面の鏡に一体。
その左奥にも、少し小さな黒い影が見える。右側の鏡にも、それらしいものが一瞬だけ映った。
佳奈子が弓を持ち上げる。
「どれが本物?」
「分かんない。ちょっと待って」
千尋が鏡から目を離さないまま意識を集中する。
「《気配察知》」
一瞬のあと、千尋の顔が右へ向いた。
「右後ろ。近い。三、四メートルくらい」
「右後ろ?」
佳奈子が振り返る。
そこにあるのは、さっき通ってきた通路と鏡だけだった。
みつみも杖を向けるが、敵らしい姿は見えない。
「いないよ?」
「いる。そっち」
千尋は迷わず右後ろを指した。
絵美里がタワーシールドをそちらへ向ける。
「何も見えませんけど――」
その瞬間、鏡の中で黒い影が膨らんだ。
人型の腕が、鏡の奥からこちらへ突き出してくる。
「来る!」
志帆の声と同時に、絵美里が盾を上げた。
黒い腕がタワーシールドへぶつかり、硬い音が通路へ響く。
「《プロテクション》!」
志帆の光が絵美里を包む。
鏡から抜け出すように現れたミラーレイスへ、千尋が《黒月》を抜いて踏み込んだ。
「やっぱそこ!」
刃が黒い身体を斬る。
佳奈子も狙いをつけたが、すぐには射たなかった。
鏡の中に同じレイスがいくつも見える。実物と鏡像がわずかに重なって、輪郭が二重になっていた。
「動かないで――今!」
絵美里がレイスの正面を押さえたところで、佳奈子が矢を放つ。
今度は胴へ刺さった。
「《マジックボール》!」
続けてみつみの魔力弾が飛ぶ。
青白い光が当たり、レイスが大きく揺れた。
そのまま後退した黒い身体が、鏡へ重なる。
「あ、また――」
みつみの声が止まった。
レイスは鏡の中へ沈んだように見え、その姿が消えた。
「どこ?」
佳奈子が弓を構えたまま周囲を見回す。
正面にも左にも、鏡の奥には黒っぽい影がいくつもある。
千尋も一度視線を走らせたが、見た目だけでは追わなかった。
「待って。近くに来たら分かる」
「気配察知?」
「うん。ただ、範囲に入らないと無理」
五人は背中を完全には預けず、それぞれ周囲を見る。
鏡の中では、自分たちの動きまで別方向から返ってくる。
数秒後、千尋が顔を上げた。
「左前。近い!」
今度は全員がそちらを向いた。
左前にあるのは、角と大きな鏡。
けれど千尋が示した場所には、まだ何もいない。
「また見えない」
みつみが呟いた直後、正面の鏡に黒い影が現れた。
「え、そっち?」
「位置は左前!」
千尋が言う。
絵美里は鏡像ではなく、千尋が示した方へ盾を向けた。
次の瞬間、何もなかったはずの角からミラーレイスが飛び出す。
「いた!」
みつみの魔力弾が飛ぶ。
レイスが身体を捻ったところへ、千尋が横から入った。
黒い影の注意が千尋へ動く。
「《ブラインドサイド》」
相手の意識が自分へ向いているのを感じ取り、千尋は無理に背後へ回らず一度離れた。
その隙に、絵美里が前へ出る。
「こっちです!」
レイスが向きを変えた。
千尋もすぐに動く。
死角側へ一歩回り込み、《黒月》を振り抜いた。
佳奈子の矢が続き、最後にみつみの《マジックボール》が当たる。
黒い輪郭が崩れ、そのまま光へ変わった。
千尋は少しの間その場所を見てから、《黒月》を下ろした。
「もういない」
「今度は断言できるんだ」
佳奈子も弓を下げる。
「気配ないからね」
「それ、最初から使えば前回もっと楽だったんじゃない?」
「前回も使えば敵が近いのは分かったと思うよ。でも道は分かんないし、鏡が何してるかも分かんない」
「そっか。敵専用か」
「専用じゃないけど、生き物がいないと何も分かんない」
みつみが少し残念そうに鏡を見る。
「階段は生きてないもんね」
「生きてたら嫌でしょ」
佳奈子が笑った。
絵美里は盾を下ろしながら、さっきレイスが現れた角を見た。
「気配察知で方向が分かっても、目で見た位置と一致しないのは面倒ですね」
「うん。左前にいるって分かってるのに、正面の鏡に出てきたから一瞬迷った」
千尋も鏡へ目を向ける。
「でも、いる方向が分かるだけマシ」
「次からは、千尋先輩が方向を言ったらそちらを優先します」
「それでお願い」
それだけ決めると、五人は少し水を飲んでから歩き出した。
戦闘が終われば、また右側の壁を追う。
鏡は相変わらず何組もの五人を映し、その奥に実際には存在しない通路まで作っていた。
◇
そのあとも、右手法は半分くらい役に立った。
進む方向を決めるところまでは簡単だが、同じような景色が続くせいで、どれくらい進んだのかは分かりづらい。
途中で、みつみが一度立ち止まった。
「ここ、前通ってない?」
「また?」
佳奈子も辺りを見る。
「でも、さっきエミリン八人いたところとは違う気がする」
「そこ基準なの?」
「九人だったかも」
「余計分かんないじゃん」
絵美里はスマートフォンの記録を確認してから、首を横に振った。
「同じ場所ではないと思います。少なくとも曲がった回数は合いません」
「じゃあ進んでる?」
「たぶん」
「エミリンも『たぶん』増えたね」
みつみに言われ、絵美里が少しだけ眉を寄せる。
「鏡のせいです」
「誰も責めてないよ」
志帆はそのやり取りを聞きながら、少し先を見ていた。
「何かいるわね」
通路の向こうを、半透明のものがゆっくり漂っている。
丸みのある身体の下から、細い触手のようなものが垂れていた。
「クラゲ?」
みつみがすぐそちらへ向く。
「クラウドジェリー」
志帆が答える。
「通尾に出るモンスターとして載っていたわ。前回は会わなかったけど」
「ほんとに雲みたい」
白っぽく透けた身体が、空中をふわふわと移動している。
まだこちらには気づいていないらしく、五人はその場で少し様子を見ることにした。
クラウドジェリーは通路を横切り、右へゆっくり流れていく。
その姿が、鏡の中にも映っていた。
「あっちにもいる」
みつみが指を差す。
「反射でしょ?」
「分かってる。でも、あっちは逆に動いてる」
正面の鏡では、クラウドジェリーが左へ流れているように見える。
さらに奥の鏡では、別の一体が正面へ近づいてくるようにも見えた。
佳奈子が本物のクラウドジェリーと鏡像を交互に見る。
「本体見ながらだと、余計変だね。あれ絶対そっち行ってないのに」
実物は、五人の前から右側の通路へ入っていく。
鏡の中では、その姿が途中で壁の陰へ消えた。
次の瞬間、少し離れた別の鏡に同じ姿が現れる。
「今の、ワープしたみたい」
みつみが言った。
「本物は普通に右へ行っただけだけどね」
佳奈子は実物の方を指す。
「鏡の中だけ、壁の向こうから出てきた」
志帆は返事をしなかった。
クラウドジェリーではなく、鏡を見ている。
一歩横へ移動すると、鏡像の位置が変わった。
もう一歩動く。
さっきまで奥にいたクラウドジェリーが消え、別の鏡へ現れる。
志帆は少し戻って、同じ場所をもう一度見た。
「志帆?」
みつみが呼ぶ。
「ちょっと待って」
クラウドジェリーの実物は、その間もゆっくり通路を進んでいる。
何も消えていない。
何も壁を抜けていない。
それなのに、鏡の中だけを見ていると、途中で姿を消して別の場所から現れたように見える。
志帆の視線が、さっきミラーレイスと戦った方角へ向いた。
「千尋。さっき、二回目にレイスが出てきたとき、気配察知では左前だったのよね?」
「うん。大体だけど、方向はそっち。距離もかなり近かった」
「でも私たちには、最初は正面の鏡に見えていた」
「見えてたね」
佳奈子も鏡を見る。
志帆は少し考え込んだ。
「一回目も、右後ろにいるって千尋が言ってから、鏡から出てきたように見えた」
みつみが頷く。
「うん」
「千尋の気配察知が間違っていたわけじゃないなら……」
そこで志帆は言葉を止めた。
鏡の中には、五人と、すでに角の向こうへ消えたクラウドジェリーの反射がいくつも残っている。
志帆はその一つを見つめたまま、小さく呟いた。
「……これ、本当に壁を抜けてる?」
「ミラーレイスが?」
千尋が聞く。
「うん。まだ分からないけど、次に出てきたら確かめたい」
みつみがすぐ杖を持ち直す。
「じゃあ探す?」
「探し回らなくても、そのうち出るでしょ」
佳奈子が笑う。
「右の壁もまだ終わってないし」
千尋は先の角を見てから、また歩き出した。
「じゃ、続き行こ。出たら今度はちゃんと見る」
五人は再び右側の壁を追い始めた。
さっきまでと同じ鏡の中を歩いている。
ただ今度は、道だけではなく、鏡の中で何がどこに見えているのかも気にしながら進んでいった。




