第8話 ダンジョンで、初めての魔法
「そこ、ちょっと狭いから気をつけて」
前を歩く千尋が、振り返らずに言った。
三人のライトが、細い通路の岩肌を順番に照らしている。みつみは千尋の後ろを歩きながら、自分の右手を何度目か分からないくらい見た。
メイジ。
さっきジョブを取得した。そして今、自分には《マジックボール》という魔法がある。あるはずだ。
「ねえ千尋。あとどのくらい?」
「もうちょっと」
「さっきもそれ言わなかった?」
みつみが不満そうに言うと、千尋が少し笑った。
「言ったかも」
「早く使いたいんだけど」
「分かってるよ。でも、この辺で撃つの嫌でしょ」
千尋がライトで前方を示した。
通路は人が二人並べるかどうかという幅しかない。両側から岩がせり出している場所もあり、ところどころ足元にも石が転がっている。
「壁に当たったら?」
「知らない」
「爆発する?」
「知らない」
「跳ね返ってきたりする?」
「それも知らない」
「怖っ」
「だから広いところまで行くんでしょ」
後ろから志帆が口を挟んだ。
「《マジックボール》について、もう少し調べてから来てもよかったんじゃない?」
みつみは歩きながら振り返る。
「調べたよ。でも動画で見るのと自分でやるのは違うじゃん」
「発動の仕方は?」
「使おうと思えば使えるって書いてあった」
「それだけ?」
「それだけ」
志帆は少し考えるように眉を寄せた。
「もっと何かあるでしょ。狙い方とか、飛ぶ速度とか、どのくらいの距離まで届くとか」
「志帆。私、今から初めて魔法使うんだよ?」
「うん」
「そういう細かいことは、使ってから考えたい」
志帆が少し黙った。
「……まあ、それはちょっと分かる」
「分かるんだ」
前を歩く千尋が笑った。
志帆は少し早足になって、みつみの隣まで来る。
「だって実際に使ってみないと分からないことはあるでしょ。情報だけ集めても、自分で使った感覚までは分からないし」
「じゃあ志帆も楽しみなんじゃん」
「魔法を実際に見るのは初めてだから」
「私が使うんだよ」
「分かってる」
「もっとそこ大事にして」
「何を?」
「私が魔法使いになる瞬間」
「もうメイジにはなってるでしょ」
「そういうことじゃなくて」
みつみが志帆の方を向いて言い返した、そのときだった。
上着の袖から出ていた右腕が、せり出した岩肌に擦れた。
「いたっ」
反射的に腕を引く。
前を歩いていた千尋がすぐに振り返った。
「どうした?」
「擦った」
ライトを向けると、肘の少し下に細い擦り傷ができていた。うっすらと血もにじんでいる。
「大丈夫?」
志帆もすぐに近づいてきた。
「うん。全然。ちょっと擦っただけ」
千尋が傷を覗き込む。
「ほんとに軽いやつだね」
「痛いけどね」
「さっき狭いから気をつけてって言ったじゃん」
「言われた直後にやったから、今それ言わないで」
「ごめんごめん」
みつみが傷を指で触ろうとすると、志帆がその手を止めた。
「触らない方がいいよ」
「これくらい平気じゃない?」
「平気でも触る必要ないでしょ」
「はい」
みつみは素直に手を離した。
三人がまた歩き始めて数歩進んだところで、今度は志帆が立ち止まった。
「……待って」
「なに?」
みつみが振り返ると、志帆はさっきの擦り傷を見ていた。
「それ、ちょうどよくない?」
「何が?」
「《ヒール》」
みつみも自分の腕を見る。
「あ」
千尋も気づいたらしい。
「ほんとだ。軽い怪我だし、試すにはちょうどいいかも」
みつみの顔が明るくなる。
「じゃあ志帆、これ治してよ」
「まだここ狭いでしょ。広いところ行ってから」
「《ヒール》は撃たないじゃん」
「初めて使うんだから、落ち着いてやりたいの」
「志帆らしい」
「何が?」
「なんでもない」
今度はみつみが笑った。
◇
少し進むと、道の脇が少し広くなった。細い水が流れ、足元も比較的平らになっている。
みつみは周囲を見回した。
「あ、ここ覚えてる」
「前も来たの?」
志帆が聞く。
「うん。前にここで休憩した」
「じゃあ、周り見てくるね」
千尋が一人で少し離れていった。
みつみがその背中を見送っていると、志帆も同じ方向を見ていた。
「何してるの?」
「近くにモンスターいないか確認してるんじゃない?」
「なるほど」
しばらくして千尋が戻ってくる。
「今のところ大丈夫そう」
「じゃあ魔法!」
みつみがすぐに言った。
「その前に傷じゃない?」
志帆に言われて、みつみは自分の腕を見る。
「あ、そっか」
「忘れてたでしょ」
「魔法が目の前にあるから」
「自分の腕なのに」
志帆は呆れながらリュックを下ろした。みつみも、その横へしゃがむ。
「どうすればいい?」
みつみが聞くと、志帆が少し困った顔をした。
「私が聞きたいんだけど」
「ヒーラーでしょ?」
「今日なったばっかり」
「でも私より調べてるじゃん」
「調べてるのと使ったことがあるのは別」
志帆は自分の手を見たあと、少し考えてからみつみへ向き直った。
「腕、出して」
「はい」
みつみが右腕を差し出す。
志帆は擦り傷の近くへ手を伸ばし、触れる直前で止めた。
「……《ヒール》」
小さく言った。
何も起きない。
三人とも黙ったまま数秒が過ぎる。
みつみが志帆を見る。
「……今、使った?」
「使おうとはした」
「治ってないよね?」
「見れば分かる」
志帆の眉間に少しだけしわが寄った。
「声に出す必要はないはずだから、そこじゃないと思うんだけど……」
「もう一回やってみれば?」
千尋が言う。
「うん」
志帆は一度息を吐いた。
今度は何も言わず、傷を見ながら手をかざす。
そのまま少し待った。
ふっと、志帆の手元に淡い光が生まれた。
「あ」
みつみが声を漏らす。
白っぽい光が、志帆の指先からみつみの腕へ落ちてくる。熱くはない。むしろ、少しだけ温かい。
擦った直後から残っていたひりつきが、すっと薄くなった。
光は数秒で消えた。
「……え?」
みつみは自分の腕を見る。
さっきまで赤くなっていた場所が、元の肌に戻っている。血もない。指で触れてみても、痛くない。
「消えた」
志帆も身を乗り出して覗き込む。
「ほんとに?」
「ほら。傷ない」
みつみが腕を近づけると、志帆は自分の手とみつみの腕を交互に見た。
「……治った」
その声が少し上ずっていた。
「志帆、今のすごくない?」
「ちょっと待って。ほんとに何もない?」
「ないって。痛くもない」
「さっきの傷、どこだった?」
「この辺」
「赤みも残ってない……」
志帆がさらに近くから確認する。
みつみは思わず笑った。
「近い近い」
「あ、ごめん」
志帆が少し離れた。それでも視線は、みつみの腕から離れない。
「今、どうやったの?」
千尋が聞いた。
「分からない」
「分からないの?」
みつみが笑う。
「使った本人なのに?」
「最初は《ヒール》って言って、治すことを考えた。でも何も起きなかったから、二回目は傷だけ見て……治すっていうより、元に戻す感じを考えたら出た」
志帆は自分の手を見つめた。
「たぶん。まだ一回だから分からないけど」
「もう一回やる?」
みつみが言うと、志帆が顔を上げた。
「何を?」
「もう一回擦る?」
「やめて」
千尋と志帆がほぼ同時に言った。
「冗談じゃん」
千尋が笑う。
「みつみならやりそうだから嫌」
「そこまでしないよ!」
言い返しながらも、みつみはもう一度腕を見る。
傷がない。さっきまで確かにあったのに。
「すごいね、《ヒール》」
「……うん」
志帆はまだ自分の手を見ていた。いつもの落ち着いた声に戻そうとしているのに、少しだけ口元が緩んでいる。
「これ、もっと大きい傷だったらどうなるんだろ。軽微な怪我って、具体的にどの範囲まで――」
「志帆」
「なに?」
「めっちゃ楽しそう」
「今それ関係ないでしょ」
「あるよ。顔がさっきの私みたいになってる」
「なってない」
「なってる」
「なってないって」
二人のやり取りを聞いていた千尋が笑った。
「じゃあ次、みつみね」
その一言で、みつみの意識が全部そちらへ戻った。
◇
「どこに撃てばいい?」
みつみは広くなった場所の中央に立っていた。
「壁はやめとこ」
千尋が答える。
「じゃあ地面?」
「少し離れたところに撃ってみれば? まず、どのくらい飛ぶかも分からないし」
「了解」
みつみはライトで少し先の地面を照らした。
何もない場所。人もいない。モンスターもいない。
右手を前へ出す。
「……こう?」
千尋が首を傾げる。
「私たちに聞かれても」
志帆も苦笑した。
「雰囲気なら合ってるんじゃない?」
「適当だなあ」
みつみは手のひらを前へ向けた。
《ヒール》を使ったときの志帆を思い出す。
声に出したから発動したわけではなかった。
使おうと思う。
それだけ。
「《マジックボール》」
言ってみた。
何も起きない。
「あれ?」
千尋が笑った。
「志帆と同じだ」
「ちょっと待って。今のなし」
「私も一回目失敗したから大丈夫」
「失敗って言わないで。今のは練習」
志帆が笑う。
「同じじゃない?」
「違う」
みつみはもう一度、手のひらを前へ向けた。
魔力弾を飛ばす。
説明はそれだけだった。
だったら、自分の手から前へ飛ばす。そこに何かを作って、それを向こうへ撃つ。
そう考えた瞬間だった。
手のひらの少し先に、光が生まれた。
「出た!」
みつみが叫ぶ。
「集中して!」
志帆の声が飛んだ。
「分かってる!」
光は拳より少し小さい球になった。白く、淡く光っている。
自分の手のすぐ前に浮かんでいるのに、熱さはない。重さも感じない。
なのに、そこにある。
みつみは息を止めた。
ゲームの画面でもない。
動画でもない。
自分の目の前に、魔法がある。
「みつみ、飛ばせる?」
千尋の声が聞こえた。
「あ、うん」
みつみは前を見る。
さっき決めた場所。
あそこ。
行け。
そう思った。
光の球が飛んだ。
「わっ」
自分で撃ったのに、みつみが驚く。
光は真っ直ぐ進み、数メートル先の地面へぶつかった。鈍い音がして、小さく砂埃が上がる。
三人とも黙った。
みつみは右手を出したまま、自分の魔法が当たった地面と手のひらを交互に見た。
「……出た」
千尋が笑う。
「出たね」
「出た」
みつみは今度は志帆を見る。
「見た?」
「見てたよ」
「私、今撃ったよね?」
「撃った」
「魔法」
「《マジックボール》」
「私が」
「みつみが」
そこまで確認してから、みつみは両手で顔を覆った。
「やばっ! 私、魔法使った!」
声が洞窟に響く。
「声大きいって」
千尋が笑った。
「だって魔法だよ!? 手から出たんだけど! 普通に今までこの手でスマホ持ったりお菓子食べたりしてたのに、そこから魔法出た!」
志帆も笑う。
「お菓子は関係ないでしょ」
「関係あるよ! 普通の手だったってこと!」
みつみは右手を何度も見る。指を開いて、また閉じた。
「もう一回やっていい?」
「いいけど、ちょっと落ち着いて」
「無理」
千尋が笑う。
「即答」
「志帆だって《ヒール》出たとき、めっちゃ嬉しそうだったじゃん」
「私はそこまで騒いでない」
「顔は騒いでた」
「顔が騒ぐって何」
千尋は二人のやり取りを聞きながら笑っていた。
みつみはもう一度、前を向く。
「次、もっと遠く狙ってみる」
「いきなり変えないで」
志帆が止めた。
「まず同じことをもう一回やって、本当に同じように出せるか確認した方がいいでしょ」
「えー」
みつみが不満そうにすると、千尋も頷いた。
「その方がいいと思う」
「二対一じゃん」
「安全な方がいいからね」
「分かったよ」
みつみはもう一度手を出した。
今度はさっきより少しだけ早かった。光が生まれ、球になって飛ぶ。
地面に当たった。
「できた!」
一回目ほどではない。それでも嬉しい。
「もう一回」
「ちょっと待って」
千尋が止めた。
「使える回数がどのくらいか、まだ分からないでしょ。今日はこのあとも探索するんだから、最初から使い切らない方がいいよ」
みつみの手が止まる。
「……確かに」
志帆も頷いた。
「残量が数字で分かるわけじゃないんだから、最初は余裕を見た方がいいと思う」
「二人とも急に現実に戻すじゃん」
「魔法使えてもダンジョンだからね」
千尋に言われて、みつみは少し先の地面を見る。
自分の魔法が当たった場所には、小さな跡が残っていた。さっきまで、この場所にはなかったものだ。
「写真撮っていい?」
「地面を?」
千尋が聞き返す。
「初魔法の跡」
志帆が少し笑った。
「撮るの?」
「撮る」
みつみはスマホを出しかけて、止まった。
「……これ、写真で見てもただの地面じゃん」
千尋が吹き出した。志帆も笑う。
「一応撮れば?」
「いや、やめる。絶対あとで見て何これってなる」
みつみはスマホを戻した。
その代わり、もう一度右手を見る。
写真がなくても、たぶん忘れない。
初めて自分の手の前に光が浮かんだ瞬間も、飛んでいった瞬間も、地面に当たった音も。
全部、ちゃんと覚えている。
◇
少し休んでから、三人は探索を再開した。
今度は千尋が先頭に立ち、その後ろをみつみと志帆が並んで歩く。
「ねえ千尋」
みつみが声をかける。
「ん?」
「千尋のスキルも見たい」
「見たことあるじゃん」
「剣で戦ってるのは見たけど、スキルって意識して見たことない」
志帆もすぐに反応した。
「私も見たい。《気配察知》とかあるんでしょ?」
「あるよ」
「どういう感じなの?」
志帆に聞かれて、千尋が少し困った顔をする。
「どういうって言われても……近くに何かいると、いるなって分かる感じ」
「距離は?」
「そんな遠くまでは分かんないよ」
「方向は?」
「だいたい」
「数は?」
「近ければなんとなく」
志帆の眉間にしわが寄る。
「なんとなく多くない?」
みつみが笑った。
「千尋、説明するの苦手?」
「使ってるものを言葉にするのが難しいんだって」
千尋は少し考えてから、二人を見る。
「じゃあ、もう一個の方見せよっか」
「もう一個?」
「《サイレントステップ》」
みつみが目を輝かせる。
「何それ。名前かっこいい」
「短い距離だけ、音立てないで速く動けるやつ」
「見たい」
志帆もすぐに続く。
「私も」
千尋は周囲を確認してから、少し先を指した。
「あそこまでね」
「うん」
みつみと志帆が千尋の足元を見る。
千尋が軽く姿勢を落とした。
次の瞬間、数歩分の距離を一気に進んだ。
みつみは目で追えた。速い。
けれど、それ以上に違和感がある。
音がまったくしなかった。
「……ほんとに無音だ」
みつみが言うと、少し先で千尋が振り返った。
「でしょ?」
みつみは自分でも同じくらいの距離を歩いてみる。
靴底が岩を踏んで、ざっ、と音がする。小石もわずかに動いた。
志帆は、千尋が通った場所をじっと見ている。
「地面の状態が違っても?」
「そこまで試したことないなあ」
「じゃあ今度――」
「志帆」
みつみが笑った。
「もう調査始まってる」
「気になるでしょ」
「分かる。私も今、もう一回見たい」
千尋が二人のところへ戻ってくる。
「今日は見本市じゃないんだけど」
「いいじゃん。三人とも新しいことできるようになった日なんだから」
みつみが言うと、志帆がすぐ訂正した。
「千尋は今日じゃないでしょ」
「あ、そっか」
「私は前から使えるよ」
「じゃあ二人の新スキル発表会プラス、千尋の再放送」
「再放送って言うな」
三人の笑い声が、洞窟の中に小さく響いた。
千尋が前へ向き直る。
「そろそろ行こ。今日はもう少し先まで行って、適当なところでお昼にしよう」
「賛成」
みつみは歩き出してから、右手を軽く握った。
メイジになった。魔法を使った。
志帆は傷を治した。千尋には、自分たちの知らなかったスキルがまだある。
さっきまで三人で歩いていただけのダンジョンが、少し違って見えた。
今度モンスターが出たら、自分も後ろで見ているだけじゃない。
そう考えると、また右手を前へ出したくなる。
「みつみ」
前から千尋の声が飛んできた。
「なに?」
「歩きながら魔法出そうとしないでね」
みつみは、自分でも気づかないうちに上げていた右手を下ろした。
「……出さないよ」
「今、出そうとしてたでしょ」
志帆も横から笑う。
「絶対してた」
「してないって」
二人が笑う。
みつみも笑って、少しだけ歩く速度を上げた。
初めての魔法は、思っていたよりずっとあっさり出た。
でも、嬉しさは全然あっさりしていなかった。




