第78話 机の上のラビリンス
放課後、五人が部室に揃った頃には、机の上が見事にばらばらだった。
佳奈子の前には数学のノートと教科書。
志帆はスマートフォンを見ていて、千尋は椅子に浅く座りながらペットボトルのお茶を飲んでいる。
絵美里もノートを開いていたが、さっきからほとんど同じページのままだった。
そしてみつみだけは、昨日からずっと気になっていたものを眺めている。
「ねえ、これ見て」
スマートフォンを机の中央へ置く。
表示されているのは、昨日の通尾ダンジョンで撮った一枚だった。
鏡が何枚も重なり、その中に五人が何組も映っている。
どこまでが通路で、どこからが反射なのか、撮った本人にももうよく分からない。
佳奈子がシャープペンを置き、画面を覗き込んだ。
「昨日より分かんなくなってない?」
「でしょ?」
「なんで嬉しそうなの」
「昨日言ったじゃん。あとで見ても絶対分かんないやつだって」
「そこ狙って撮ってたの?」
「うん」
みつみは満足そうに画面を拡大した。
「ほら。ここにも私たちいる」
「それは昨日もいたでしょ」
「でも今見ると、どの私たちが最初の私たちか分かんない」
佳奈子が少し考えてから、画面の奥を指差す。
「これじゃない? みつみの帽子が一番大きいところ」
「それ、一番手前に映ってる私たちでは?」
絵美里がノートから顔を上げた。
「え、違うの?」
「たぶん反射です。その右に同じ向きの姿がもう一組ありますから」
そう言って、絵美里も椅子を寄せてくる。
画面をじっと見ていたが、十秒もしないうちに眉間へ小さく皺が寄った。
「……これ、どこで撮った写真ですか?」
「四階」
「それは分かってます」
「どの辺かってこと?」
「はい」
「分かんない」
みつみの返事に、佳奈子が吹き出した。
「撮った人が最初に脱落した」
「昨日ずっと迷ってたんだから仕方ないじゃん」
千尋も横から画面を覗く。
「これ、私が前にいるから、たぶん最初の方じゃない?」
「千尋ずっと前の方にいたでしょ」
「あ、そっか」
「使える情報がない」
佳奈子が呟く。
志帆もスマートフォンから顔を上げ、今度は四人の間へ入ってきた。
「でも、写真としては面白いわね。こうして見ると、本当に奥まで通路が続いているみたい」
「昨日は普通に騙されたもんね」
「私は何回か壁に行きそうになった」
「何回か?」
千尋がみつみを見る。
「……結構」
「帽子から行ってたよね」
「先にぶつかるから便利だった」
「そういう装備じゃないから」
四人が笑う横で、絵美里はまだ写真を見ていた。
指で少し動かし、別の部分を拡大する。
「昨日メモした順番と照らし合わせたら、ある程度は場所を絞れると思います」
「まだやるの?」
佳奈子が聞く。
「気になるので」
絵美里は自分のスマートフォンを取り出した。
昨日、四階で記録していたメモを開く。
「最初が直進。そのあと右、左……ここまでは合ってると思うんですけど、その先で一度、同じ場所に戻ったように見えて――」
「あ、待って」
みつみが止めた。
「こっちの写真もある」
別の写真を表示する。
さっき以上に何が写っているのか分からなかった。
五人の姿が正面と左右に並び、その後ろにも小さな五人が続いている。
絵美里が黙った。
「どう?」
「情報が増えました」
「お」
「分からない場所が二枚になりました」
今度は千尋まで笑った。
「みつみ、役に立ってないじゃん」
「写真としては面白いって志帆が言ってた」
「私は写真として褒めたのよ」
佳奈子はそのやり取りを聞きながら、開いたままのノートへ視線を戻した。
シャープペンを持ち直し、問題を一行読んだところで手が止まる。
「……こっちも分かんない」
「何?」
「数学」
みつみが覗こうとすると、佳奈子はノートを少し押し出した。
「これ。今日出たやつ」
「私まだやってない」
「知ってる。授業終わった瞬間、閉じてたから」
「家でやる予定だった」
「じゃあ今やれば?」
「今は鏡の写真見てる」
「そっち昨日のじゃん」
「昨日の続き」
みつみはそう言って、またスマートフォンを手元へ戻した。
千尋は佳奈子のノートを引き寄せ、問題を眺める。
「これ途中までは授業でやったやつじゃない?」
「途中まではね。その途中から分かんないの」
「あー……」
「その顔やめて。千尋も分かってないでしょ」
「分かりそうなところまでは分かる」
「一番信用できないやつ」
志帆も覗き込み、三人でしばらくノートを見る。
さっきまで鏡の話をしていたはずなのに、いつの間にか机の中央を占領しているのは数学の問題になっていた。
みつみだけは写真を見続けていたが、しばらくするとそちらにも飽きたらしい。
「お菓子ない?」
「あるよ」
佳奈子はバッグの中から、小袋に入ったクッキーを出した。
「でも宿題手伝わない人、一枚ね」
「手伝えるかもしれないじゃん」
「じゃあこれ解いて」
「やっぱ一枚でいい」
差し出されたクッキーを受け取る。
佳奈子はそのまま袋を千尋と志帆の方へ回した。
最後に絵美里の前まで来る。
「エミリンもいる?」
「いただきます」
「今日は迷わないんだ」
「昨日も別に、お菓子を食べるかどうかで迷ってません」
「必要かどうか考えてたじゃん」
「それと食べるかどうかは別です」
絵美里は一枚取って、袋を佳奈子へ返した。
一口食べてから、少しだけ手元を見る。
「昨日のより甘いですね」
「昨日の覚えてるんだ」
「味くらい覚えてますよ」
「じゃあ次、どっち持ってくるか迷うな」
「そこはどちらでも」
答えながら、絵美里はもう一口食べた。
佳奈子は何も言わず、自分も一枚取った。
しばらくは、宿題をする音と袋からクッキーを取る音だけが部室に続いた。
千尋が途中で自分の席へ戻り、スマートフォンを触り始める。
志帆は佳奈子のノートに途中式を一つ書き、みつみはそれを横から眺めたものの、すぐにまた昨日の写真へ戻った。
「ねえ」
みつみが画面を見たまま言う。
「次、どうしたら迷わないかな」
「結局戻るんだ」
佳奈子がシャープペンを動かしながら答える。
「だって続きあるし」
昨日の帰りにも似たようなことを言っていた。
千尋がスマートフォンから顔を上げる。
「道覚えようとするから分かんなくなるんじゃない?」
「覚えなかったらもっと分かんなくない?」
「そうじゃなくてさ」
千尋は少し考え、机の端を指でなぞった。
「どっちかの壁だけずっと追ってけばいいんじゃない? 右なら右って決めて」
みつみも机の縁へ指を置く。
「ずっとこう?」
「そう。分かれ道でも右の壁から離れない」
「それなら戻ってきません?」
絵美里がすぐに入る。
一度そこで言葉を止め、机の上を指で簡単になぞった。
「……いえ、通路の作りによりますけど、昨日みたいに感覚で方向を選ぶよりは整理しやすいです。少なくとも、どの壁を追っていたのかは分かります」
「じゃあ右でいいじゃん」
佳奈子が言う。
「なんで右?」
「千尋が右って言ったから」
「別に左でもいいよ」
「もう右で話進んでるし」
みつみはまだ机の縁を指で辿っている。
角まで来ると、そのまま直角に指を曲げた。
「これなら鏡に道が映ってても、壁だけ見ればいいってこと?」
「壁がちゃんと分かればね」
志帆が言った。
「昨日は壁だと思っていなかったところもあったでしょう?」
「触れば分かる」
「全部触って歩く気?」
「たまに」
「みつみ先輩なら本当にやりそうですね」
絵美里が言うと、みつみは否定しなかった。
「でもそれ、昨日より分かりやすそう」
「試すだけならいいんじゃない?」
千尋が軽く頷く。
それで次の歩き方は決まった。
作戦会議らしいものは、それ以上続かなかった。
佳奈子が突然「あ」と声を上げ、全員の視線がそちらへ向く。
「分かった?」
「違う。消しゴム落とした」
「そっち?」
机の下へ潜った佳奈子の代わりに、志帆がノートを見る。
「ここの式、たぶん一個飛ばしてるわよ」
「え、どこ?」
「ここ。だから次が合わなくなってる」
「先に言ってよ」
「今気づいたの」
佳奈子は消しゴムを拾うと、すぐノートへ戻った。
みつみも今度は少し真面目に覗き込む。
「これなら私も分かるかも」
「さっき一枚でいいって言った人は黙ってて」
「ひどい」
「じゃあ解いて」
みつみは数秒ノートを見てから、クッキーへ手を伸ばした。
「もう一枚食べたら分かるかもしれない」
「関係ないでしょ」
佳奈子が袋を遠ざける。
その向こうで、千尋が笑っていた。
◇
気づけば、窓の外は少しずつ夕方の色になっていた。
佳奈子の宿題はどうにか終わり、みつみは結局ほとんど手伝っていない。
志帆は自分の荷物をまとめながら、机に置かれたみつみのスマートフォンをもう一度見た。
「その写真、送って」
「どれ?」
「一番分からないやつ」
「何に使うの?」
「別に。あとでもう一回見たいだけ」
「やっぱ好きじゃん」
「好きよ。分かりにくいけど」
みつみはその場で写真を送る。
すぐ近くで志帆のスマートフォンが鳴った。
「私にも送って」
千尋も言う。
「何で?」
「昨日どこ歩いたか、見てたら思い出すかもしれないし」
「じゃあ私も」
佳奈子まで加わる。
「役に立たないって言ってたじゃん」
「写真としては面白いんでしょ?」
「それ志帆のやつ」
結局、三人へ同じ写真が送られた。
絵美里は少し遅れて、自分のスマートフォンを持ち上げる。
「私にもお願いします」
「エミリンはメモあるじゃん」
「写真と一緒に見ます」
「やっぱまだ調べる気だ」
「次に行くなら、同じ迷い方はしたくないですから」
みつみは写真を送った。
送信済みの表示を確認してから、スマートフォンをバッグへ入れる。
「じゃあ、また行こっか」
誰かが改めて賛成を取るような空気にはならなかった。
「うん」
千尋が答え、佳奈子もノートをしまいながら頷く。
「今度は右の壁ね」
「壁沿いです。ずっと触る必要はありませんよ」
絵美里が念を押す。
「分かってるって」
「みつみは分かってても触りそう」
志帆が笑う。
「だって本当に壁か確かめたいじゃん」
そんな話をしながら、五人は帰る準備を始めた。
昨日は鏡だらけの通路で、どこへ進んでいるのか分からなくなった。
今日は学校で宿題をして、お菓子を食べて、昨日の写真を見ていた。
そして次に行くときは、右の壁を追ってみることになった。
昨日の続きは、もう今日の放課後に始まっていた。




