第77話 鏡の中のラビリンス
三階へ上がったみつみは、最初の数歩で足を止めた。
「二階と同じだ」
目の前には、灰色の石壁と石床の通路が続いている。
幅も高さも、さっきまで歩いていた二階とほとんど変わらない。
「安心したような、ちょっと残念なような」
佳奈子が階段を上り切りながら言うと、千尋も周囲を見回した。
「いきなり全部鏡だったら、それはそれで困るでしょ」
「でも少しくらい変わっててもよくない?」
「まだ三階に来たばっかりじゃん」
みつみはそう言われても、通路の先を見ながら歩き出している。
休憩したばかりで足取りは軽かった。
二階ほど一つ一つの角に驚くこともなくなり、分岐があれば覗き、行き止まりなら戻る。
途中でゴブリンファイター二体とも遭遇したが、五人とも二階で一度戦っている。
初めて見たときほど、相手の装備に気を取られることもなかった。
戦闘が終わると、千尋は《黒月》を鞘へ戻しながら前を見た。
「三階も結構長いね」
「塔の外から見たら、この辺どこなんだろ」
みつみは壁の向こうに外があるような気がするのか、また石壁へ顔を近づける。
「見えないよ」
「分かってる。なんとなく」
「帰ったら写真と照らし合わせるんじゃなかった?」
「やる」
その予定はまだ忘れていなかったらしい。
絵美里は二人の会話を聞きながら少し先の分岐を確認し、右側へ視線を向けた。
「こっちはさっき通ってません。左は一度戻ったところです」
「じゃあ右」
千尋が自然にそちらへ向かう。
「今度はちゃんと理由ある」
「前もちゃんと進めたからいいでしょ」
佳奈子が笑い、五人も続いた。
その先でも何度か曲がり、二度ほど行き止まりから戻ったところで、ようやく上へ続く階段が見えた。
「四階!」
みつみが先に見つけて声を上げる。
階段の手前まで来た志帆は、上を見ながら少しだけ笑った。
「ここからが鏡面区画ね」
「ついに来た」
「私はもう今の通路で十分迷ったけど」
佳奈子が言うと、絵美里は階段の先へ目を向けた。
「情報では、ここより分かりにくいはずです。入ったら一度、進んだ方向は記録した方がいいと思います」
「エミリン、やる気じゃん」
「迷いたくないだけです」
千尋に返してから、絵美里も階段を上り始めた。
◇
四階へ出た瞬間、みつみが立ち止まった。
「……増えた」
「何が?」
後ろから来た佳奈子が、その横に並ぶ。
すぐに意味が分かった。
「私たちか」
通路の床は三階までと同じ石だったが、壁の広い範囲が鏡になっている。
正面にも横にも五人の姿が映り、そのさらに奥の鏡へ、また別の五人が続いていた。
とんがり帽子を被ったみつみが、見えるだけでも何人もいる。
「すご。私めっちゃいる」
みつみが右手を上げると、鏡の中で何人ものみつみが一斉に同じ手を上げた。
「帽子まで増えてる」
「そりゃ増えるでしょ」
「なんか得した感じしない?」
「しない」
佳奈子は即答したものの、自分でも一度だけ鏡へ顔を向けた。
「……でもこれ、普通に迷うでしょ。通路あるように見えるところ、半分くらい鏡じゃない?」
「半分かどうかは分からないけど、境目がかなり見づらいわね」
志帆は鏡面へ近づき、角度を変えながら奥を見ている。
「見えているのに、そこにあるとは限らない。こういうの、ちょっと好き」
声が少し弾んでいた。
「志帆、今テンション上がってる?」
「上がるでしょう。鏡の迷宮よ?」
言ってからも恥ずかしがる様子はない。
ダンジョンの中なので、三人も特に突っ込まなかった。
その横では、千尋がすでに通路の先へ数歩進んでいた。
「あ、これ壁だ」
右へ曲がれるように見えた場所まで行き、手を伸ばす。
指先が平らな鏡へ触れた。
「そこ道じゃないの?」
「道に見えた。でも壁」
みつみもすぐ隣まで行き、鏡を覗き込む。
「向こうにも通路あるのに」
「それ、後ろのが映ってる」
「分かりづら」
「さっき面白がってなかった?」
「面白いのと分かりやすいのは別」
みつみはそう言ってスマートフォンを取り出した。
「写真撮っとこ」
「何の?」
「これ。あとで見ても絶対よく分かんないやつ」
何枚か撮った画面を見て、本人が先に笑う。
「ほら。もうどっち向いて撮ったか分かんない」
佳奈子も画面を覗く。
「早すぎるでしょ」
「でも明日見たらもっと分かんなそう」
「それはちょっと見たい」
写真はそのまま残すことになった。
一方、絵美里はスマートフォンのメモを開き、今いる場所から進んだ方向を書き始めていた。
「最初はまっすぐ。次の分岐で、実際に通れる方を確認してから記録します」
「全部書くの?」
「途中で分からなくなるよりいいです」
「エミリンが分からなくなったら、私もう無理だと思う」
佳奈子が言うと、絵美里は少し眉を寄せた。
「まだ分からなくなってません」
「まだ、ね」
五人は奥へ進み始めた。
最初のうちは、鏡のせいで広く見えるだけだと思っていた。
ところが一つ角を曲がり、さらに分岐を二つ越えたあたりから、どこまでが実際の通路で、どこからが反射なのかを一目で判断できなくなってくる。
「こっち、さっき通った?」
みつみが右側を見る。
「通ってないと思う」
千尋が答えると、佳奈子が反対側を指した。
「でも、あそこに私たちいるよ」
「それこっちの鏡じゃない?」
「どの鏡?」
「……あれ?」
千尋まで一度足を止めた。
絵美里がメモを見直す。
「今のところ、右、左、直進です。なので同じ場所には戻ってないはずです」
「じゃあ似てるだけ?」
「そのはずです」
答えながらも、絵美里は鏡の奥を少し長く見た。
みつみは楽しそうに自分たちの像を見比べている。
「エミリンが二人いるように見える」
「鏡なので」
「右のエミリンの方がちょっと遠い」
「反射です」
「分かってるけど」
「みつみ先輩、遊んでると本当に置いていきますよ」
「待って」
みつみは素直についてきた。
次の分岐へ差しかかったところで、千尋が急に手を上げる。
「ちょっと待って」
五人の足が止まった。
千尋は通路の左右を見比べてから、小さく息を吐く。
「《エクストラセンス》」
しばらく黙ったまま周囲を見る。
佳奈子が待ちきれずに聞いた。
「分かる?」
「答えは分かんない。左の方、なんか嫌」
「嫌って何?」
「嫌は嫌。危ないのか、何かいるのか、それも分かんない」
千尋自身も困ったように笑う。
「鏡多すぎて、普通に見てても変だから余計分かりづらい」
「じゃあ右?」
みつみが聞く。
「右が正解とは言ってないよ」
「でも左嫌なんでしょ?」
「今はね」
五人は結局、右へ進んだ。
数十歩も行かないうちに、先頭の千尋がまた止まる。
「……今、誰かいた?」
「どこ?」
佳奈子が弓へ手を伸ばす。
「前。いや、鏡の中かも」
正面の鏡に五人が映っている。
その少し後ろに、誰のものでもない黒い人影が立っていた。
「いる」
志帆の声が低くなる。
五人が振り返ったが、後ろには誰もいない。
「え?」
佳奈子がもう一度鏡を見る。
黒い影だけが、鏡の中でこちらへ近づいていた。
輪郭は人型だが、顔も服も分からない。
光の当たり方とは無関係に、そこだけが暗く抜け落ちたように見える。
「ミラーレイス」
志帆が名前を口にした直後、影が鏡面からこちらへ抜け出すように形を持った。
「来る!」
絵美里が前へ出て、タワーシールドを構える。
黒い腕が振られ、盾の表面で鈍い音がした。
千尋が横へ回る。
だが鏡の中にも同じ黒い影がいくつも動き、どれが実際の相手なのか、一瞬だけ目が迷う。
「見づらっ!」
佳奈子も弓を引いたまま狙いを変える。
「本物どれ!」
「絵美里の前!」
志帆の声に合わせ、みつみが杖を向けた。
「《マジックボール》!」
魔力弾が黒い胴へ当たる。
ミラーレイスが横へ流れるように動き、千尋が追う。
《黒月》を振ろうとした瞬間、影が鏡の中へ沈んだように見えた。
「消えた!」
「右!」
佳奈子が叫ぶ。
右側の鏡の奥で、さっきとは別の位置に黒い影が見えている。
千尋がそちらへ向き直ったが、影はさらに奥の鏡にも重なっていた。
「どこから出るの、それ!」
答えを待つ間もなく、絵美里が盾を向け直す。
鏡際から現れた影を受け止めたところへ、佳奈子の矢が飛んだ。
今度は当たる。
千尋も実際に見えている身体へ踏み込み、《黒月》を振り抜いた。
影が大きく揺れる。
みつみの二発目の魔力弾が重なると、ミラーレイスは輪郭を崩した。
鏡面へ溶けるように見え、そのまま姿が消える。
しばらく誰も動かなかった。
千尋が左を見て、佳奈子は右の鏡を見ている。
「……終わった?」
「たぶん」
「たぶん多いな、今日」
佳奈子が弓を少し下げる。
みつみはレイスが消えた鏡へ近づいた。
「今、ここ入ったよね?」
「そう見えた」
千尋も隣へ来る。
「で、違うとこから出てきた」
「鏡の中、移動してるとか?」
「そういうモンスターなのかもしれないわね」
志帆は鏡面と、その向こうに重なって見える通路を交互に見ていた。
「でも……」
「何?」
「ううん。まだ分からない」
志帆はそれ以上言わなかった。
絵美里がスマートフォンへ視線を戻す。
「とりあえず、今の場所まで記録します。ここで一度向きが変わって――」
言いかけて止まった。
「どうしたの?」
千尋が聞く。
「……この分岐、さっきのメモだと来てないはずなんですけど」
佳奈子が周囲を見回す。
「でも見たことある気がする」
「私も」
みつみが手を上げた。
「それ、信用していい?」
「自分でもあんまり」
千尋が笑った。
そこから先は、戦うより迷っている時間の方が長かった。
右へ曲がったはずなのに、少し進むと正面にさっきと同じような鏡が並ぶ。
広い分岐だと思って近づけば壁で、行き止まりだと思った横に細い通路が続いている。
絵美里は何度もメモを見返した。
けれど、記録した曲がり方と目の前の景色がうまく重ならない。
「おかしいです。ここまでなら、さっきの場所からもっと離れてるはずなんですけど」
「鏡のせいで近く見えてるとか?」
佳奈子が言う。
「それなら距離だけの問題です。でも、向こうに見えてる通路がどこなのかも分かりません」
絵美里は少し悔しそうに画面を見る。
みつみはその横で、さっき撮った写真を開いた。
「これ、今いるとこじゃない?」
「どれ?」
千尋が覗き込む。
写真には鏡が何枚も映り込み、その中に五人が小さく重なっている。
「似てるけど……」
「同じ?」
「分かんない」
「写真まで役に立たないじゃん」
佳奈子が笑う。
「役に立てるために撮ったんじゃないし」
「じゃあ正解だ」
みつみは写真を閉じた。
さらに進んだところで、今度は千尋が立ち止まった。
「ここ、さっき通った気がする」
「また?」
「今度は結構する」
足元や壁を見比べても、決め手になるものがない。
志帆は鏡に映る五人の位置をしばらく眺めてから、小さく首を傾げた。
「鏡って、ちゃんと見えているのに、見えているものを信じるほど分からなくなるのね」
「それ、今すごく嫌な言葉」
佳奈子が言う。
「褒めてるのよ、この場所を」
「私は褒めない」
それでも声には少し笑いが混じっていた。
何度目か分からない分岐の前で、佳奈子がスマートフォンを取り出した。
「ちょっと待って。時間」
画面を見て、目を少し見開く。
「もう四時近いよ」
「え、そんな経った?」
みつみも自分のスマートフォンを見る。
三階を歩いていた時間もある。
それでも四階へ来てからの感覚は、実際よりずっと短かった。
「鏡見てたら時間なくなった」
「半分くらい迷ってただけじゃない?」
「迷うのも見てたうち」
千尋は周囲を見てから、少し考える。
「もう一回だけ曲がってみる?」
「それで戻るなら」
佳奈子が答える。
絵美里は一度メモを見た。
「私もそれでいいです。今日は一回、どこまで分からなくなるかは分かりましたし」
「それ分かったって言う?」
「次は最初から記録の仕方を変えます」
「やっぱりエミリン、次も来る気じゃん」
みつみに言われ、絵美里は普通に頷いた。
「途中ですから」
五人でもう一つ先の角を曲がった。
十数歩進んだところで、全員の足が止まる。
正面に、見覚えのある広い鏡があった。
みつみがゆっくり千尋を見る。
「これ……」
「たぶん戻ってきた」
「今日最後の一回で?」
「最後まで迷ってるじゃん」
佳奈子が吹き出し、志帆も笑った。
「じゃあ、今日はここまでね」
誰も反対しなかった。
帰ると決めてからも、四階を出るまでに少し時間がかかった。
来たときの階段を見つけた瞬間、佳奈子が「階段がこんなにうれしいの初めて」と言う。
みつみは振り返って、鏡の通路をもう一度見た。
「次来たら、もうちょっと分かるかな」
「同じこと言って迷いそう」
「それでもいいけど」
千尋が笑う。
「続きあるし」
三階、二階と戻る頃には、石壁だけの通路が妙に分かりやすく感じられた。
◇
一階へ戻り、装備を片づける。
千尋が《黒月》を共通保管庫へ戻している間、佳奈子はベンチに座ってスマートフォンを眺めていた。
「あ」
近くにいたみつみが反応する。
「何?」
「私も十一になってる」
「ほんと?」
佳奈子が画面を向ける。
表示はアーチャー、LV11。
「スキルは増えてないけど」
「でも十一じゃん」
「うん。まあ、十一は十一」
佳奈子はそれだけ言ってアプリを閉じた。
戻ってきた千尋に「何かあった?」と聞かれ、「レベル上がってた」と答える。
それで話は終わった。
五人が施設を出ると、まだ空は明るかった。
みつみは塔から少し離れたところで一度だけ振り返る。
「やっぱ細い」
「来たときにも言ってたよ、それ」
「中にあれ入ってると思うと、もっと変」
塔のどこかには、さっきまで五人で迷っていた鏡の通路がある。
そう思って見ても、外からはやっぱり分からない。
「帰り、なんか飲まない?」
佳奈子が駅の方を見ながら言った。
「甘いやつ」
みつみがすぐ答える。
「私は普通のでいい」
「普通って何?」
そんな話を始めながら、五人は駅へ向かって歩き出した。




