第56話 If Spring Comes
入試の日の学校は、いつもの校舎なのに少しだけ別の場所に見えた。
昇降口から廊下の角まで、普段はない案内板や矢印が立っている。教室の前には受験生向けの紙が貼られ、歩いているのも制服の違う中学生と先生ばかりだった。
「毎日来てると分かんないけど、この学校けっこう迷路っぽいね」
みつみは廊下の突き当たりに置く案内板を両手で持ったまま、矢印の向きを確かめた。
「初めて来たら分かりにくいかもね。階段も何か所かあるし」
隣で別の案内板を持っていた千尋が、壁に貼られた校内図を見上げる。
少し後ろでは、志帆と佳奈子が文房具の入った箱を運んでいた。今日は四人とも、高校入試の手伝いで朝から学校に来ている。
「去年はこっちに案内される側だったんだよね」
佳奈子が箱を抱え直しながら言うと、志帆も廊下を見回した。
「一年で見る側が変わると、同じ学校でもちょっと変な感じがするわね。普段なら、この廊下に受験生が並んでるところなんて見ないもの」
みつみは手元の案内板を見ながら、去年のことを思い返す。
「私は去年、矢印しか見てなかった気がする」
「それは今日もでしょ。案内されるんじゃなくて、持ってる側になっただけで」
千尋に返され、みつみは案内板を持ち上げた。
「今日は置く側だから、ちゃんと分かってるって」
「じゃあ向き間違えないでよ」
みつみは矢印をもう一度確かめてから、自信ありげに頷いた。
「合ってるって。たぶん」
佳奈子が箱を持ったまま笑い、志帆は「たぶんは駄目でしょう」と言いながら先へ歩いていった。
先生に頼まれた物を運び終えると、四人の担当はいったん分かれた。
志帆と佳奈子は一階で備品の移動と案内の補助。みつみと千尋は二階から三階へ続く廊下の案内表示を確認し、受験生が増えてきたらそのまま誘導に回ることになった。
しばらくすると、校舎の空気がさらに静かになった。
話しながら歩く受験生はほとんどいない。案内の紙を見たり、受験票を確かめたりしながら、それぞれの試験室へ向かっていく。
「なんか緊張するね」
みつみが小声で言うと、千尋が横目を向けた。
「受けるの私たちじゃないけどね」
「分かってるけど、みんな静かだから。こっちまで喋っちゃ駄目な気がする」
「じゃあ今の声くらいでちょうどいいんじゃない?」
千尋も声を落としたまま笑う。
二人で廊下の角を曲がったところで、千尋の足が少しだけ緩んだ。
窓際に、一人だけ立ち止まっている受験生がいた。
周囲の流れから外れ、壁の案内表示を見ては手元の受験票へ視線を戻している。背は高めで、肩には届かないダークブロンドの髪が柔らかく波打っていた。
千尋が先にそちらへ寄る。
「どこか分かんない?」
声をかけられた女子は顔を上げた。日本人寄りの顔立ちの中で、青い瞳だけが廊下の白い光をはっきり映している。
「すみません。この試験室に行きたいんですけど、どっちか分からなくなって」
女子受験生が、手にしていた受験票をこちらへ向ける。
試験室――3-E。
その下には、受験番号と『久央 絵美里』という名前が印字されていた。
「あ、3-Eならこの階段じゃないよ。もう一個向こうの階段で上がるやつ」
みつみが案内図を確かめると、千尋が廊下の先を指した。
「こっち。途中まで一緒に行くよ」
女子受験生もすぐ隣についてきた。
「ありがとうございます。さっき同じところを一周した気がして」
「それは迷うね。この辺、曲がる場所が似てるし」
千尋は途中の分かれ道で一度立ち止まり、進む先を指した。
「ここをまっすぐ行って、突き当たりの階段を上がれば、次の案内が出てるから」
女子は指された先と受験票を見比べてから、ほっとしたように息を抜いた。
「分かりました。本当にありがとうございます」
「試験、頑張ってね」
みつみがそう言うと、女子は一度だけ笑って「はい」と頷き、二人へもう一度頭を下げてから廊下の先へ向かった。
二人もその背中を見送ったのは数秒だけだった。
「じゃ、こっちの矢印も見に行こ」
「うん。さっき一枚、ちょっと斜めだった」
「千尋、そういうの気になるんだ」
「受験生が迷ってた直後なんだから気になるでしょ」
みつみは納得し、今度は自分から案内板の向きを確かめながら歩き出した。
昼の休憩で四人が合流したころには、朝の慌ただしさはかなり落ち着いていた。
手伝いの生徒が休むために使っている部屋の隅で、佳奈子は椅子に座るなり足を前へ伸ばした。
「立って案内するだけって、思ったより疲れる。ダンジョン歩いてるほうがまだ気が紛れるかも」
「動いてるほうが楽なやつだね。私たちは階段けっこう往復したよ」
千尋が飲み物の蓋を開ける横で、みつみは朝から使っていた案内用の紙を机へ置いた。
「迷ってた子もいたし。案内板、もっと増やしたほうがいいと思う」
「増やしすぎても、今度はどれ見ればいいか分からなくなりそうだけど」
志帆はそう返しながら椅子に座り、佳奈子が持っていた菓子の袋から一つ受け取った。
佳奈子は袋を机の真ん中へ置く。
「こっちは『トイレどこですか』が多かった。試験室より先にそっち探してる子、けっこういたよ」
志帆が頷いた。
「朝だし、緊張してるしね」
佳奈子自身も一つ口に入れ、少しだけ笑った。
「でも一年前は、私たちもあっち側だったんだよね。今は普通に校内歩いて、こっちですって案内してるの、なんか変」
みつみは窓の外を見た。普段なら授業中の時間なのに、今日はチャイムが鳴っても自分たちの教室へ戻る必要がない。
「次にあの子たちが来るときは、一年生か」
「受かればね」
千尋の言葉に、みつみが「あ、そっか」と頷く。
志帆は机の上の入試日程表へ目をやった。
「その頃には私たちは二年生。……って言っても、その前にこっちの期末が残ってるけど」
「春って、まだ遠いじゃん」
みつみが机に額をつけると、佳奈子が笑った。
「この前まで期末の話してたのに、受験生見てもう春の気分にならないでよ」
「だって新一年生が来る話してるから」
「来るのは春。みつみのテストはその前」
「分かってるよ」
口ではそう言いながら、みつみは机に伏せたままだった。
午後になると担当は入れ替わり、みつみは志帆と物品を運び、千尋と佳奈子は一階の案内へ回った。
四人で同じ場所にいる時間はむしろ少なかったが、廊下ですれ違えば「あとどれくらい?」「そっち終わった?」と短く声を交わし、仕事が片づくころにはまた自然に昇降口へ集まった。
外へ出る準備をしながら、千尋がスマートフォンを取り出す。
「そういえば、春休みのお金の話。あれ、結局どうする?」
「あ」
靴を履き替えかけていたみつみの手が止まる。千尋がその顔を見て笑った。
「忘れてたでしょ」
「忘れてない。期末が間に入っただけ」
佳奈子はロッカーを閉めながら、みつみの言い訳を聞き流した。
「泊まりとか遠出するなら、交通費もあるしね。今ある分だけで決めるなら、そんな遠くは行けないんじゃない?」
「じゃあ増やす?」
みつみが立ち上がると、千尋が少し考えてから自分のスマートフォンを操作した。
「ダンジョンで売れるもの集めるのは? 今の私たちなら、初心者のころよりはまとまった素材を狙えるでしょ」
みつみが思い出したように顔を上げる。
「それなら、虎ヶ崎のフォレストウルフの毛皮とか?」
志帆もスマートフォンを出し、検索画面を開く。
「売値は悪くないみたい。ただ、倒せば毎回落ちるわけじゃないから、何枚集められるかは行ってみないと分からないわね」
佳奈子が志帆の画面を横から覗き込んだ。
「でも四人で遊びに行って、お金も増えるならいいじゃん。ちゃんと増えればだけど」
「増やすために行くんだから、今度はちゃんと稼ぐよ」
みつみが胸を張る。
その言葉に千尋が笑い、佳奈子はすぐスマートフォンを持ち上げた。
「今の、覚えとこ。あとで『毛皮よりこっち面白そう』ってなったとき用に」
「ならないって」
みつみが即答すると、千尋は笑いながら靴を履き終えた。
「どうだろうね」
志帆も少し笑ってから画面を閉じる。
「とりあえず候補は虎ヶ崎。日程は期末が終わってから決めればいいでしょう」
みつみがすぐに頷いた。
「賛成。まず答案用紙を倒す」
「それは倒したら駄目でしょ」
千尋に言われ、みつみは「じゃあ攻略する」と言い直した。
受験生を案内していた一日は、そのままいつもの四人の次の予定へつながっていった。
一年前には受験票を持って歩いていた校舎を出るころ、四人の次の遊び先には、まだ日付の決まっていない虎ヶ崎が一つ増えていた。




