第55話 春は答案用紙の向こう
二月の終わりが近づいた昼休み、みつみは机の上にスマートフォンを置き、尾洗町ダンジョンの写真を開いていた。
画面いっぱいに映っているのは、砂浜の向こうにいた巨大なスパインスターである。
「これ、次いつ行く?」
みつみが聞くと、向かい側に座っていた佳奈子が写真を拡大した。
「私は次でもいいよ。前回行ってないし、実物見たい。写真でも十分でかいけど」
「じゃあ今度は四人でボスだね」
千尋はそう言いながら、みつみのスマートフォンを横から覗き込む。
「でも尾洗町って、ボスまでそこそこ歩いたんでしょ? 前みたいに寄り道してたら、また着くころには夕方じゃない?」
「前みたいにっていうか、あそこ寄り道するもの多いんだよ。流木とか、貝殻とか、変なナメクジとか」
「ナメクジじゃないわよ。たぶん」
志帆は弁当箱を閉じながら会話へ入った。
「アメフラシかウミウシかは結局分からなかったけど、少なくとも陸のナメクジではないと思う。次に行ったら、もう少し近くで――」
そこで教室前方の扉が開いた。
入ってきた担任が、数枚の紙を教卓へ置く。昼休み終了にはまだ少し早い。教室のあちこちで続いていた会話が、何となくそちらへ向いた。
「帰りのホームルームで配るけど、先に言っとくぞ。期末テストの日程と範囲、出たからな」
みつみの手が止まった。
千尋も止まった。
佳奈子はスマートフォンから顔を上げ、志帆は閉じたばかりの弁当箱へ手を置いたまま教卓を見る。
四人の間だけ、さっきまでの尾洗町が急に遠くなった。
「……期末?」
みつみが小さく言う。
佳奈子が教室の壁に掛かったカレンダーへ目を向けた。
「二月後半だよ」
みつみもつられて日付を見て、眉を寄せる。
「早くない?」
「早い気はする。でも二月後半だよ」
佳奈子の返事を聞きながら、千尋もカレンダーを見る。そこには当たり前のように二月の残り少ない日付が並んでいた。
「この前、冬休み終わったばっかりじゃなかった?」
志帆が指を折るように、ここまでの出来事を数える。
「クリスマス、正月、尾洗町、狩造。それにバレンタインももう終わってる。数えたら、ちゃんと二月よ」
みつみは少し考えてからスマートフォンを伏せた。
「いっぱいやってた」
「やってたね」
佳奈子も頷く。
教室の後ろでは、別のクラスメイトが「もう学年末じゃん」と声を上げていた。
その言葉に、みつみはもう一度カレンダーを見る。
一年生の終わり、という言葉が、初めて少しだけ現実のものに見えた。
◇
帰りのホームルームで配られた紙は、昼休みに聞いたとおり期末テストの日程と範囲表だった。
放課後。
四人はいつものようにすぐ帰るでもなく、教室に残っていた。
ただし机の上にあるのは、ダンジョンの情報を開いたスマートフォンではない。教科書、ノート、学校のワーク、範囲表、筆箱。それぞれの机の端に、昼休みまで主役だったスマートフォンが伏せて置かれている。
みつみは範囲表を上から下まで見たあと、裏返した。
「見なかったことにしたら減らないかな」
斜め前に座る千尋は、もう数学のワークを開いて問題を解き始めていた。
「増えもしないけど、減りもしないね。私は先にやって、分かんないところだけ残す」
「千尋、こういうとき始めるの早いよね」
「考えてても終わらないし」
その言い方が普段のダンジョンとほとんど同じで、みつみは少し笑った。
志帆は範囲表を見ながら、使う教材を科目ごとに重ね直している。
「私は先に順番決める。全部同時にやろうとすると、どこまで終わったか分からなくなるから」
佳奈子はその手元を見てから、自分の範囲表に目を落とした。
「私は一番やりたくないところからやる。最後に残すと絶対もっと嫌になるし」
「みんな違う」
みつみが三人を順番に見た。
佳奈子が範囲表を指で軽く叩く。
「で、みつみは?」
「今、一番短そうなところ探してる」
「それは分かる」
「終わった感ほしいじゃん」
「それも分かる」
佳奈子が笑い、自分のノートを開いた。
誰かが全員へ教える形にはならなかった。
分からないところがあれば、そのとき近くにいる相手へ聞く。聞かれた側も分からなければ教科書を開く。それでも分からなければ印を付けて後回しにする。
千尋は問題を解きながら、途中で何度かシャープペンシルを置いて肩を回した。志帆は最初に決めた順番どおり進めていたが、ひとつ気になるところが出ると、その周辺まで読み始めてなかなか戻ってこない。佳奈子は区切りのいいところまで進むたびに、小さく伸びをして机へ戻る。みつみはワークを数ページ進めると別の科目へ移り、その途中でまた元へ戻った。
四人とも勉強はしている。
やり方だけが、全然同じではなかった。
◇
三十分ほど経ったところで、千尋がシャープペンシルを机へ置いた。
「一回休憩しない?」
その言葉を待っていたように、みつみが顔を上げる。
「する」
「早い」
佳奈子は言いながらも、自分もペンを置いた。
志帆だけはあと数行読み、ページの端へ小さく印を付けてから教科書を閉じる。
「五分くらいなら。長くすると戻れなくなりそう」
「じゃあ五分」
千尋がスマートフォンでタイマーを設定した。
机の上から勉強道具が消えたわけではない。四人とも椅子に座ったまま、飲み物を出したり、窓の外を見たりする。
最初の一分は、本当にただの休憩だった。
次の一分で、みつみが伏せていたスマートフォンを手に取った。
「そういえば尾洗町、次行くなら朝からのほうがいいよね」
佳奈子がすぐ画面を覗く。
「私は朝でもいいよ。ボスやるなら時間ほしいし。でも前みたいに貝殻探し始めたら、また遅くなるんじゃない?」
「私はそんなに探してないよ。志帆のほうが二枚並べてずっと見てた」
話を振られた志帆は否定しなかった。
「色の出方が違ったから。次に行ったら、同じ場所で拾えるものに偏りがあるかくらいは見たい」
千尋がスマートフォンのタイマーを見る。
「もう五分じゃ終わらない話になってる」
そのまま話題はスパインスターへ移り、《ファイアボール》をどこへ当てるか、佳奈子がどこから射るか、トゲのある相手へ千尋がどう近づくかという話になった。
誰かが真面目に作戦会議を始めたわけではない。ただ思いついたことを口にしているうちに、四人とも少しずつ前のめりになっていった。
机の上でタイマーが鳴る。
みつみが画面を見て目を丸くした。
「え、もう?」
佳奈子も時間を確認して、眉を上げる。
「五分って短いね。全然休んだ感じしない」
「ダンジョンの話したからでしょ」
千尋がタイマーを止める。
志帆は教科書を開き直しながら、まだ少し尾洗町のことを考えていたらしい。
「次はボスを見るだけで帰らないんだから、前回より準備はしておきたいわね。……でも、それはテストのあと」
みつみが笑う。
「志帆が戻ってきた」
「戻るわよ」
四人はまた勉強へ戻った。
◇
二回目の休憩は、五分を守った。
三回目は、休憩する前に佳奈子が先に鞄を開いた。
「私、これ終わったら今日は帰る。家でもやるけど、ここで全部やろうとしたら遅くなる」
千尋が開いているワークへ目を落とす。
「私もあと一ページ」
みつみは自分の机の上を見た。
「私は……どの科目をどこまでやったか、なんか分かんなくなってきた」
志帆がみつみの机に広がった教材を覗き込む。
「範囲表に、今日やったところへ印を付ければ?」
「それいい」
「最初からやればよかったのに」
「今知ったから今やる」
みつみは範囲表を表へ返し、今日終わったところへ印を付けていく。
その様子を見ていた佳奈子が、自分の範囲表にも同じように印を付けた。
「私もそれやろ。どこまでやったか見えるほうが楽」
志帆が少しだけ不満そうに言う。
「さっき私は順番決めてたのに、誰も乗らなかったじゃない」
千尋は手を動かしたまま笑った。
「志帆のは細かかったんだよ。印付けるだけならすぐできるし」
「細かいほうが後で楽なのに」
「そういうとこだよね」
志帆が千尋を見る。
「何が?」
代わりに答えたのはみつみだった。
「志帆っぽい」
志帆は何か言い返そうとして、やめた。
「……まあ、いいわ」
少しだけ口元が緩んでいた。
窓の外は、いつの間にか昼よりずっと暗くなっていた。日が長くなり始めているとはいえ、まだ二月である。
佳奈子が時計を見て、鞄へ教科書を戻す。
「ほんとに帰る。これ以上いたら、また休憩のほうが長くなる」
「じゃあ私も帰る」
千尋も続いて教材を片づける。
みつみはまだ途中のワークを見たが、数秒考えてから鞄へ入れた。
「私も家でやる。今日ここで全部終わらせようとすると、たぶん嫌になる」
志帆も自分の教材をまとめた。
「私も切る。続きは明日でいい」
四人で教室を出た。
◇
昇降口へ向かう途中、廊下の掲示板に貼られた学校行事予定が目に入った。
みつみが足を止める。
「テスト終わったら、もう三月じゃん」
昼休みにカレンダーを見たときより、今度はその先まで見えた。
期末テストが終わり、三月が来る。その先には一年生最後の日があり、さらに先には春休みがある。
千尋も掲示板の前へ戻ってきた。
「春休み、どっか遠いとこ行きたいな。日帰りじゃなくてもいいし」
佳奈子が千尋を見る。
「泊まり?」
千尋は少し考えてから頷いた。
「行けたら。ダンジョンあるところで一泊とか、楽しそうじゃない?」
みつみの目がすぐに明るくなる。
「やりたい。朝から潜って、次の日も行けるじゃん」
佳奈子が笑った。
「二日とも潜る前提なんだ」
それから少しだけ現実的な顔になり、掲示板へ視線を戻す。
「でも泊まりって、お金いるよね。交通費もあるし」
四人の視線が一度だけ集まった。
志帆が先に口を開く。
「春休みに何をするかは、テストが終わってから決めればいいんじゃない? 行きたいところを探すだけなら今でもできるけど、今それを始めたら勉強より確実にそっちを見るでしょ」
「見る」
みつみは迷わず答えた。
千尋も苦笑する。
「私も見ると思う」
佳奈子は二人を見てから、掲示板の予定へ視線を戻した。
「じゃあ、まずテスト。終わったら春休み。で、遊ぶならお金」
みつみが肩を落とす。
「現実が多い」
「高校生だからね」
佳奈子は笑った。
そのまま四人は昇降口へ向かった。
少し前まで、次にどのダンジョンへ行くかで予定を見ていた。
今は、その予定の前に期末テストがある。
そして期末テストの向こうには、もう春が見え始めていた。




