第53話 一本道は寄り道びより
冬休みが明けてしばらくした休日、みつみと千尋と志帆は茨城県の尾洗町に来ていた。
佳奈子は今日は別の予定があって不参加だった。前日に「三人で行ってきて。変なのいたら写真だけ送って」と言っていたので、予定をずらす話にもならず、そのまま三人で出かけることになった。
受付を済ませ、装備を整えてダンジョンへ入る。
最初に聞こえたのは、波の音だった。
「海だ」
千尋が足を止める。
視界の左いっぱいに海が広がり、右には砂浜と岩の多い磯が延びている。遠くへ行くほど海岸線は細くなっていくのに、どこまで続いているのかは見えない。洞窟でも森でもないのに、進める方向だけは妙にはっきりしていた。
「ずっとあっち?」
みつみが進行方向へ杖を向ける。
「たぶん。でも一本道って言っても、砂浜歩くか岩のほう行くかくらいは選べそう」
千尋はそう言うと、さっそく波打ち際から離れ、砂の上を歩き始めた。
志帆は海のほうを見たまま少し遅れてついてくる。
「中なのに、潮の匂いまで普通にするのね。ここまで海っぽいと、ダンジョンにいる感じが薄いわ」
「泳げるかな」
「今日はやめなさいよ」
「聞いただけだよ」
みつみが笑い、三人は海岸線を進み始めた。
◇
最初に三人の足を止めたのは、モンスターではなかった。
「これ、持てる?」
砂浜に落ちていた太い流木の前で、千尋がしゃがみ込んでいる。
見た目は、海岸に打ち上げられた普通の流木とほとんど変わらない。千尋は片手で端を掴み、軽く持ち上げようとして――動きを止めた。
「重っ」
「そんなに?」
みつみがすぐ寄ってきたので、千尋は場所を譲った。
「やってみて」
みつみも両手で掴んだが、流木は砂から少し浮いただけで、すぐ元の位置へ落ちた。
「何これ。木じゃないみたい」
「尾洗町の流木は装備素材になるのよ。かなり硬くて、剣や槍の柄にも使われるって」
志帆は二人の横でしゃがみ、木の表面を指で軽く叩く。
「そのぶん重いらしいけど――」
「来てる」
説明の途中で、千尋が立ち上がった。
砂の向こうを、大きなカニが横向きに走ってくる。食卓で見るようなカニとは比べものにならない大きさで、口元からは白い泡がぶくぶくと溢れている。
「カニだ。泡出してる!」
「バブルクラブね」
志帆が立ち上がるのと、千尋が《黒月》を抜くのはほぼ同時だった。
みつみも流木から手を離し、杖を構える。
バブルクラブが近づく前に《マジックボール》が甲羅へ当たり、その向きがずれる。千尋は正面から受けず、横へ回って《黒月》を入れた。
すぐに倒れるほどではなかったが、三人とも慌てる相手でもなかった。志帆の《プロテクション》が千尋を包み、もう一度みつみの魔法が当たったあと、千尋の二撃目でバブルクラブは光の粒になって消えた。
三人は、その場所をしばらく見た。
何も残らない。
「泡、落ちないんだ」
みつみが言うと、志帆はまだ光の消えた場所を見ながら頷いた。
「ドロップ品が設定されてても、毎回出るわけじゃないもの。むしろ出ないほうが普通よ」
「じゃあ今のカニ、ほんとに戦っただけ?」
「経験値は入ってるでしょ」
千尋は《黒月》を鞘へ戻しながら、さっきの流木へ目を向けた。
「で、これどうする?」
「置いていく」
みつみの返事が早かった。
「さっきまで持ちたがってたのに」
「持ってみたかっただけ。持ち帰りたいとは言ってない」
志帆が笑い、三人は流木を砂浜に残して先へ進んだ。
◇
しばらく歩くと、砂浜が狭くなり、代わりに黒っぽい岩が増えてきた。
波が当たった跡の残る岩場を、千尋は足を置く場所を選びながら先へ進む。みつみは少し遅れてついていき、志帆は二人とは違う方向を見ながら歩いていた。
「ちょっと待って。これ、そうじゃない?」
しゃがみ込んだ志帆の指先に、小さな貝殻があった。
白っぽく見えた表面が、角度を変えると青や緑、紫へ薄く色を変える。
「虹色貝殻?」
みつみがすぐ隣へしゃがみ込む。
「たぶん。何かのポーションの材料になるやつ。種類までは知らないけど、写真で見るよりちゃんと虹色ね」
「もう一個ないかな」
「私も今それ思った」
二人がその場で岩の隙間を覗き始める。
千尋は少し先まで行ってから振り返った。
「二人ともそこで貝殻探すの?」
「ちょっとだけ」
「見つけたら行く」
「じゃあ私、あそこ見てくる」
千尋が指したのは、少し先の岩が低くなっている場所だった。
三人がそれぞれ手の届く範囲を見ているうちに、みつみのすぐ横で大きな巻貝が動いた。
「うわ、動いた!」
みつみが一歩下がる。
巻貝の下から脚が出て、前には鋏まである。殻を背負ったまま岩陰から這い出してきた姿は、どう見ても巨大なヤドカリだった。
「ヤドカリだ」
戻ってきた千尋が、その場で《黒月》へ手を掛ける。
「シェルハーミット。貝殻だけ見たら、採取アイテムと間違えそうね」
「これは間違えないよ。でかいし脚あるし」
みつみはそう言いながらも、さっきまで手を伸ばしていた場所からきっちり距離を取っていた。
シェルハーミットは岩の間を進み、そのまま三人が通ろうとしていた側へ出てくる。
「回り込める?」
志帆が反対側を見る。
「行けなくはないけど、あっち濡れてる。こっち倒したほうが早そう」
千尋が答えた。
「じゃあやろう」
今度はみつみから杖を上げた。
足場の悪い場所なので、三人とも動きは大きくしない。千尋が前へ出すぎずに注意を引き、みつみが岩の隙間から魔法を通す。志帆は必要なところだけ《プロテクション》を重ねた。
倒したあと、巻貝の貝殻は残らなかった。
「またなし」
「そんなものよ」
志帆はそれよりも、さっき見つけた虹色貝殻をバッグへしまう。
みつみも探し物を再開しかけたが、今度は千尋が別の岩を指した。
「ねえ、あれ何?」
濡れた岩の上に、黒紫色の大きな軟体生物が張りついていた。背中側にはひらひらした部分があり、ゆっくり動く姿はアメフラシにも、ウミウシにも、大きなナメクジにも見える。
「アメフラシ?」
「ウミウシじゃない?」
みつみと志帆が同時に言う。
千尋は少し離れた位置から眺めた。
「私にはでかいナメクジに見える」
「じゃあ海水で……」
志帆が海のほうを見た。
「何する気?」
「何もしないわよ。ちょっと思っただけ」
三人はしばらくインクスラッグを眺めたが、こちらへ来る様子もなく、進路からも外れている。
「倒す?」
みつみが聞く。
千尋は一度見てから首を振った。
「別にいいんじゃない? 邪魔じゃないし」
「私も今はいい。見た目分かったし」
志帆も頷き、三人はインクスラッグを岩の上へ残して先へ進んだ。
少しあとで、みつみは虹色貝殻をもう一枚見つけた。
そのとき一番喜んだのは、最初に探し始めたみつみではなく志帆だった。
「ちょっと見せて。さっきのと色の出方が全然違う」
「そんなに?」
「こっちは青が強い。並べると分かるわよ」
みつみが渡すと、志帆は二枚を手のひらに並べてしばらく角度を変えていた。
千尋はその横で「まだやってる」と笑い、先の海岸を見ていた。
◇
砂浜へ戻ってからも、三人は何度かモンスターと出会った。
全部と戦ったわけではない。遠くにいるものはそのまま通り過ぎ、進路に出てきたバブルクラブやシェルハーミットだけ相手にする。
何体か倒しても、ほとんどは光になって消えるだけだった。
だから白い泡が砂の上に初めて残ったとき、みつみは戦闘が終わるなり駆け寄った。
「出た!」
「やっとだね」
千尋も横から覗く。
「見た目、本当に泡なんだ」
「泡って持って帰れるんだ……」
「そこから?」
志帆が笑う。
少し離れたところで休憩することになり、三人は飲み物と軽い食べ物を出した。
海を見ながら座っていると、一本道をずっと進んできたはずなのに、今日やったことは思ったよりばらばらだった。
千尋はさっき拾った泡を見ていて、志帆は二枚の虹色貝殻を並べ、みつみはスマートフォンを触っている。
「……あ」
みつみの声で、二人が顔を上げた。
「十になってる」
公式アプリのステータス画面には、LV10と表示されていた。
「いつ上がったの?」
「分かんない。今見たら十だった」
「経験値の数字は出ないから、途中のどこかね」
志帆が画面を覗き込むと、みつみは新しく増えたスキルを開いた。
「《ファイアボール》。火属性の範囲攻撃。着弾する場所を自分で決められて、そこから直径三メートル……味方も巻き込むって」
最後だけ、少し声の調子が変わる。
千尋も説明を読んで頷いた。
「じゃあ、近くに誰かいるときは使いにくいね。でも離れてる敵なら面白そう」
「火だよ」
「うん」
「火の魔法だよ!」
「そこが一番なんだ」
みつみは明らかに嬉しそうだった。
「だって今まで光っぽいのばっかりだったじゃん。火、やってみたい」
「いいんじゃない? 広い砂浜だし、ちょうどいい相手いたら」
千尋が言うと、志帆も画面から目を離した。
「最初は範囲を見るほうが大事ね。威力より、どこまで近づいたら危ないか分かったほうが使いやすい」
「じゃあ次、ちょうどいいのいたら試す」
みつみはスマートフォンをしまった。
休憩が終わるころには、三人の話題はもう火の魔法から、波打ち際に見える変な形の岩へ移っていた。
◇
《ファイアボール》を試せる場面は、思ったよりあとに来た。
次の砂浜にバブルクラブが二体いたが、最初は離れすぎている。三人はそのまま進み、片方がもう片方へ近づくまで少し待った。
「今なら二体入るかも」
みつみが杖を構える。
「私たちはここにいる。敵そのものじゃなくて、間の砂に落としてみたら?」
千尋が言うと、みつみは一度狙いを下げ、二体の間へ杖先を合わせた。
「それやってみる。《ファイアボール》!」
飛んだ火球は、二体のちょうど間あたりで爆ぜた。
炎と熱が砂の上へ円く広がり、二体のバブルクラブをまとめて巻き込む。けれど、一撃で両方が消えるほどではなかった。
「おお……!」
みつみが見とれている横で、千尋はもう《黒月》を抜いていた。
「まだいるよ」
「あ、そうだった」
みつみもすぐ杖を戻す。
弱った二体を相手にするのは長くかからなかった。戦闘が終わったあと、今度は何も残らない。
「火だね」
千尋が《黒月》を戻しながら言う。
「火だよ!」
みつみは満足そうだった。
「でも思ったより範囲ある。千尋が近かったら絶対使わない」
「それが分かったなら一回目としては十分じゃない?」
志帆は火球が爆ぜたあたりを見ながら、少し考える。
「敵が固まってるときには便利そう。でも一体だけなら《マジックボール》でもいいわね。使い分ける感じかも」
「次は壁とか岩に当てたらどうなるか見たい」
「それは敵がいないときに撃つ必要ある?」
「……ないか」
みつみは少し残念そうに杖を下げた。
◇
そこから先は、また岩の多い海岸になった。
三人で同じところを歩いているのに、歩き方は少しずつ違う。千尋は足を置けそうな岩を選んで先へ行き、みつみは途中で貝殻や穴を見つけるたびに覗き込み、志帆は海水が溜まった窪みを見つけては中を確かめている。
そのせいで何度も距離が開き、また自然に三人へ戻った。
次のシェルハーミットと戦ったあと、志帆が自分のスマートフォンを開いた。
「私も十になってる」
「お、何増えた?」
千尋が近づく。
「《フィジカルブースト》。十秒間、自分の身体能力を少し上げる……自分だけなのね」
志帆は説明をもう一度読み直した。
「ヒーラーのスキルっぽくない」
みつみが言う。
「確かに。でも、こういうの嫌いじゃないわ」
「試す?」
「試したいけど、ここでは嫌。足場悪いもの」
三人は少し先の砂浜まで出てから、志帆が立ち止まった。
ちょうどそこには、朝見たものと同じような太い流木が打ち上げられている。
千尋が先に気づいた。
「これで試したら?」
志帆も流木を見る。
「身体能力が上がるからって、急に力持ちになるわけじゃないでしょう」
「だからどのくらい変わるか分かるじゃん」
「なるほど」
志帆は少し考えたあと、本当に流木の端を掴んだ。
みつみが期待した顔で横にしゃがむ。
「いく?」
「いくわ。――堕ちた翼よ、今だけ我が身に力を。《フィジカルブースト》」
発動してから、志帆が両手に力を入れる。
流木は、さっきよりはっきりと砂から浮いた。
「上がった!」
「上がったけど重い!」
志帆はすぐに下ろした。
十秒も使い切っていない。
「結論。身体能力は上がる。でも重いものは重い」
「分かりやすい」
千尋が笑う。
志帆は手についた砂を払いながら、少し悔しそうに流木を見た。
「今度は走ったときも試したい。避けるときに使えるなら、ヒーラーでも自分で動ける選択肢が増えるし」
「流木運ぶためのスキルじゃなかったね」
「最初から違うわよ」
三人はその流木も持ち帰らなかった。
◇
さらに海岸線を進んだころには、入口からどれくらい来たのか感覚が曖昧になっていた。
道そのものは一本道なのに、途中で貝殻を探したり、岩の上で立ち止まったり、戦う必要のないモンスターを眺めたりしていたせいで、真っ直ぐ来た感じがあまりしない。
「なんか、全然攻略してる感じしないね」
みつみが言う。
「一本道をずっと進んでるんだから、攻略はしてるんじゃない?」
千尋は少し先の砂浜を見ながら答えた。
「寄り道はしてるけど、道からは外れてないし」
「それ面白いわね。一本道なのに寄り道できる」
志帆が言った直後、千尋の足が止まった。
「……あれじゃない?」
かなり先の砂浜に、今まで見たものとは明らかに大きさの違う何かがいる。
近づくにつれて、それが平たい五本の腕を持っているのが分かってきた。表面には硬そうなトゲが並び、人間よりずっと大きな身体が砂の上に広がっている。
「ヒトデでっか!」
みつみの声がそのまま波音に重なる。
「スパインスターだね」
千尋は笑ったあと、さっきまでより少し真面目な顔で立ち止まった。
三人はまだ十分に距離を取ったまま、しばらく大型のヒトデ型モンスターを眺める。
「……どうする?」
先に聞いたのは志帆だった。
みつみは杖を持ったまま、スパインスターと自分たちの距離を見比べる。
「ちょっとやってみたい。でも、あれ相手に初めての《ファイアボール》頼みは嫌かも」
「私も近づき方、今の見た目だけじゃ分かんないな。トゲ多いし」
千尋は《黒月》へ手を掛けたものの、抜かなかった。
「やるならちゃんとやりたい。さっきまで散々寄り道してたし、今から初見ボス始めるのはちょっとな」
「それはそう」
みつみは素直に杖を下ろした。
少しだけ考えてから、今度はスパインスターを見たまま言う。
「じゃあ、次でよくない? どうせなら佳奈子もいるときに四人でやろうよ」
「あ、それがいい」
千尋もすぐに頷いた。
「佳奈子、今日『変なのいたら写真送って』って言ってたし。まずこれ送ろ」
「この大きさなら、十分『変なの』でしょうね」
志帆も笑ってスマートフォンを取り出した。
「今日は二人とも新しいスキルも増えたし、私は十分。次は最初からスパインスターまで行くつもりで来ればいいわ」
「決まり」
みつみは杖をしまい、代わりにスマートフォンを構えた。
「佳奈子に『ヒトデでっか!』って送る」
「文章までそのまま送るの?」
「そのままで伝わるでしょ」
千尋も一枚だけ撮った。
志帆は撮らずに、もう少しだけスパインスターを眺めている。
「志帆は撮らないの?」
「今はいい。次、自分で近くまで行ったときに撮る」
「そういうのあるんだ」
「あるの」
三人はそこで向きを変えた。
クリアはしていない。帰還ゲートも出ていないので、帰りは来た海岸線をそのまま戻る。
けれど行きと同じ景色を歩いているはずなのに、今度は「あの流木まだある」「この辺で最初の泡出た」「こっちの岩、さっき千尋が先に行ってたところ」と、来たときにはなかった目印がいくつも増えていた。
「次、ボスやる?」
みつみが歩きながら聞く。
「たぶん。でも、その前にもう一回試したい」
「私も《フィジカルブースト》、流木以外で試したいわ」
千尋が二人を見た。
「じゃあ次も、ボスまで真っ直ぐ行けなさそうだね」
その言葉に、みつみが笑う。
「一本道なのにね」
海岸線は、帰る三人の後ろでも、まだどこまでも続いているように見えていた。




