第39話 来てくれると思ってた
「いない」
曲がり角を抜けた千尋が足を止めた。みつみもすぐ隣まで行き、通路の奥を覗き込む。
白い人影が消えた先には、古びた石造りの通路が続いていた。左右に柱が並び、ところどころ崩れた壁の隙間から淡い光が差している。
「絶対こっち来たよね。走ってた感じもしなかったし、そんなに先まで行けないと思うんだけど」
千尋は白い人影が消えた先を見たまま、少し眉を寄せた。
「《マーキング》、つかなかったんだよね」
「使ったの?」
「さっき見えたときに。つけようとしたんだけど、何も分かんなかった。ダンジョンラットとかにつけたときは、見えなくなっても方向が分かる感じになるのに、今回はそれ自体がない」
みつみが振り返る。
「モンスターじゃないから?」
「分かんない。普通の人に使ったこともないし、あれが何なのかもまだ分かんないしね。ただ、使えないのは確か。だから追うなら、普通に見失わないようについてくしかなさそう」
志帆は二人より少し後ろで、白い影が消えた辺りを見ている。
「半透明で、足音もなくて、千尋の《マーキング》まで通らない。いよいよ普通の人ではなさそうね」
「幽霊?」
「レイスとか、その辺りはありそう。でも、まだ決めつけるには早いわ。何もしてこなかったし、敵かどうかすら分からないもの」
そう言う志帆は、少し楽しそうだった。
みつみは通路の先へ数歩進む。
「もう一回出ないかな。今度はもうちょっと近くで見たい。さっき一瞬だったし、顔もよく見えなかった」
「近くで見ても、いきなり触ったりしないでよ。何が起きるか分かんないから」
「分かってるって。見るだけ」
「その『見るだけ』から手が出るのが、みつみじゃん」
「今日は出さない」
「今日はなんだ」
みつみが笑い、三人は歩き出した。
柱の向こうや壁の穴、崩れた石の陰。みつみは気になる場所を覗きながら進んでいくが、白い影はなかなか現れない。
「見失ったかなあ。あれが普通に歩いて移動してるなら、そのうち追いつけそうなんだけど」
「普通に歩いてるかも分かんないしね。壁とか抜けられたら、もう探しようないよ」
千尋がそう言った直後、志帆が「あ」と足を止めた。
通路の先、二本の柱の間に白い人影が立っている。
今度は三人とも、はっきり見た。
長い髪に、白っぽい服を着た女の人だった。輪郭は薄く、その身体を通して向こうの石壁が透けている。
「……いる」
みつみが声を落とす。
女は三人を見ていた。逃げるでも近づいてくるでもなく、ただそこに立っている。
千尋が女をじっと見つめた。
「今もう一回やってみたけど、やっぱダメ。目の前にいるのに、何にもつかない」
「じゃあ、ほんとにマーキングできないんだ」
「うん。少なくとも今の私には無理っぽい」
みつみが一歩前へ出る。
「ねえ」
その声に反応したのか、女が動いた。
「あっ」
逃げるような速さではない。すっと柱の向こうへ消えていく。
「行ってみよ。今度は見失わないうちに」
千尋が歩き出し、二人も続く。柱を回り込むと、女はさらに先でこちらを見ていた。
「やっぱ待ってない?」
みつみが足を速める。
「そう見えるわね。ただ逃げてるだけなら、わざわざ見える位置で止まる必要ないもの」
志帆も続いた。
「遺跡を彷徨う亡霊が、三人の探索者を奥へと誘う……これはなかなか――」
白い女がまた角を曲がり、志帆の言葉も止まった。
「……先に行きましょう。見失ったら嫌だし」
「続きは?」
「着いてから考える」
みつみが笑った。
◇
三人が辿り着いたのは、小さな石室だった。
白い女はその中央に立っている。壁はあちこちが崩れ、倒れた石が床に散らばっていた。壁際には低い石台があり、部屋の隅には古びた容器のようなものが転がっている。
「ここまで連れてきたかったのかな。さっきみたいに、またどっか行く?」
みつみが尋ねても、女は答えなかった。しばらく三人を見たあと、その姿がふっと薄くなる。
「あ、待って」
みつみが手を伸ばしたときには、白い姿は消えていた。
「……今のは完全に消えたね。向こうへ移動したって感じじゃなかった」
千尋が部屋を見回す。
志帆は女が立っていた場所へ近づいた。
「ここを調べろってことなのかもしれないわね。わざわざ私たちを連れてきて、ここで消えたんだから」
「じゃあ何か探そ。何もなかったら、またあの人探せばいいし」
三人で部屋を調べ始めた。
最初に何かを見つけたのは千尋だった。
「これ、何だろ」
壁際でしゃがんだ千尋のところへ、みつみと志帆が寄っていく。
石壁には、同じくらいの長さの細い傷が何本も縦に並んでいた。
「数えてた?」
みつみが指で追う。
「日数とか?」
「かもしれない。最初のほうは同じくらいの間隔でついてるし」
十本以上ある傷は、最初のほうこそほぼ同じ高さと間隔だったが、下へ行くほど位置が乱れ、浅くなっていた。最後の数本は途中で途切れている。
三人とも少し黙った。
「こっちにもある」
志帆が少し離れた壁を指す。
そこには、大きさも形も揃っていない小さな星がいくつも刻まれていた。
「星ばっかりだね。こっちは数えてた感じじゃないけど」
「そうね。同じものを何度も描いてる。何か意味があったのか、それとも単に好きだったのか」
千尋は床の隅にあった容器を覗き込んだ。
「これ、水入れるやつっぽい。今は空だけど、ここに誰かいたなら普通に使ってたのかも」
みつみは壁の傷と、空の容器、いくつもの星を順番に見た。それから、さっきまで白い女が立っていた場所へ目を向ける。
「ここにいたのかな。あの人」
「閉じ込められてた可能性はありそう。今は出入りできるけど、壁も天井も結構壊れてるし、崩れた直後は塞がってたのかもしれない」
千尋の言葉に、みつみはもう一度傷へ目を戻した。十本以上ある。
「だとしたら、結構長くいたことになるよね」
誰もすぐには答えなかった。
その間も石台の周りを調べていた志帆が、ふと手を止める。
「ちょっと待って。ここ、何か挟まってる」
二人が振り返った。
石台と壁の隙間に、薄い冊子のようなものが挟まっている。志帆が慎重に引き出すと、表紙はひどく傷み、角が欠け、紙も黄色く変色していた。
「本?」
「日記……っぽい。文字が書いてある」
「読める?」
「全部は無理そうだけど、残ってるところなら」
三人は石台の周りに集まった。
志帆が表紙をめくる。
最初のページには、本文とは少し離して、小さく一つの名前が書かれていた。
ミリア。
「ミリア……名前かな」
「たぶん。この日記を書いた人の名前だと思う」
志帆がページをめくった。
最初のほうに書かれていたのは、ごく普通の日々のことだった。
姉の名前は何度も出てくる。
リナ。
ミリアより年上の姉らしい。
二人で食べたものや、リナが外で見つけた変な形の石。ミリアが欲しがっているもの。姉が帰り道で転んだことや、頼んでもいないのに髪を結ばれたこと。
そんな小さな出来事が、いくつも残っていた。
「仲良かったんだね。リナって人の話ばっかり出てくる」
みつみが言った。
「かなりお姉ちゃん好きだったみたいね」
志帆が次のページをめくる。
ある日から、内容が変わった。
ミリアは身体が弱く、しばらく調子を崩していたらしい。手元にあった薬が少なくなったため、リナが離れた町まで買いに行くことになった。
一晩だけ。遅くても次の日には戻る。
日記にはそう書かれていた。
その日のミリアは、姉が出かけることをあまり心配していなかったらしい。薬のついでに甘いものを買ってきてほしい。戻ったら一緒に食べたい。そんなことまで書いてある。
「普通に、明日帰ってくると思ってたんだ」
千尋がページを見ながら言う。
「そうでしょうね。これを見る限り、何日も離れる予定じゃなかったみたい」
次の記録には、大きな音がして部屋が揺れ、通路が崩れて外へ出られなくなったことが書かれていた。
それでも、その日のミリアはまだ強く不安がってはいなかった。
姉が帰ってくれば、きっと気づく。人を呼んで助けてくれる。だから大丈夫。
さらに次の日。
水はまだある。食べ物も少しある。暗いけれど、怖くない。
今日はお姉ちゃんが帰ってくるから。
みつみがページの端へ指を置いたまま止まる。
「これ……一日目?」
「崩れた次の日でしょうね」
みつみは黙って次をめくった。
姉は帰ってこなかった。
途中で道が悪くなったのかもしれない。町で泊まることになったのかもしれない。でも、明日には帰ってくる。
さらに次の日になると、文章は少し短くなっていた。
どうして帰ってこないんだろう。
私がここにいるって分かるかな。
声は届かない。
でも、帰ってくればきっと探してくれる。
次のページには、水が少なくなってきたこと、寒いこと、暗いことが書かれていた。
今日は帰ってくると思った。
明日は帰ってくると思う。
その次のページには、姉の名前が何度も書かれていた。
リナ。
リナ。
リナ。
みつみの指が止まる。
誰も続きを急かさなかった。千尋は壁にもたれ、日記を見ている。志帆も口を閉じたままだった。
みつみが、ゆっくり次のページをめくる。
置いていかれたわけじゃないよね。
その一文だけは、はっきり読めた。
みつみの指が、その文字の上で止まる。
さらに先には、姉が帰ってきたら怒ってやろうと思う、と書かれていた。遅すぎると言う。怖かったとも言う。でも、たぶん顔を見たら先に泣く。
それから、一緒に帰りたい。
文章はそこで大きく乱れていた。
次のページは半分以上が滲んでいる。
最後に近い一文だけが残っていた。
――来てくれると思ってた。
みつみが日記を閉じた。
すぐには誰も話さなかった。さっきまで白い人影を追うこと自体を面白がっていた志帆も、何も言わない。
千尋がゆっくり顔を上げる。
「あの人、ミリアなのかな。ここまで見せて、ミリアって名前の日記まで残ってるなら、たぶんそうだと思うけど」
「うん。私もそう思う。ずっとお姉ちゃん待ってたんだね」
「少なくとも、この日記に書いてある間はずっと。途中まで、本気で次の日には帰ってくると思ってたみたい」
千尋の声も少し小さい。
みつみが壁を見る。一本ずつ刻まれた傷と、いくつもの星がそこに残っている。
「でも、リナはなんで帰ってこなかったんだろ。薬を買いに行っただけなら、こんなに何日も帰らないのおかしいよね」
「そこは日記だけじゃ分からないわ。ミリアが知っていたのは、お姉さんが町へ薬を買いに行ったことまでだから」
志帆は日記から部屋の入口へ視線を移した。
「でも、あの人がわざわざ私たちをここまで連れてきたなら、まだ何かあるのかもしれない。ミリア自身が知らないことまで残ってるかは分からないけど」
みつみは日記をそっと抱えた。
「探したい。リナがどうなったのか、何か残ってるなら知りたい」
千尋が立ち上がる。
「じゃあ、あの人をもう一回探そ。さっきみたいに、またどっかで待ってるかもしれないし」
三人は石室を出た。
◇
白い女は、それほど遠くには行っていなかった。
「いた」
今度は千尋が先に気づいた。
通路の端で、女は三人を待つように立っている。みつみが日記を持ったまま近づいた。
「ミリア?」
女の輪郭が、わずかに揺れた。
三人が足を止める。
「今、反応したよね」
「うん。名前は合ってそう」
千尋も女を見る。
志帆が少しだけ声を落とした。
「だったら、これからはちゃんとミリアって呼びましょう」
ミリアが歩き始めた。
三人はその後を追い、何度か角を曲がって短い階段を下りる。辿り着いた先で、ミリアは崩れた壁の前に立ち止まった。
正面には大量の石が積み重なり、もともとは通路だったように見える。
みつみがミリアの隣に立った。
「この向こうに何かあるの?」
答えはない。
ミリアはずっと壁を見ている。
千尋も崩落跡の前へ行った。
「これだけ崩れてたら、三人でどかすのは無理そう。下手に触ったら、また崩れるかもしれないし」
志帆は周囲の壁へ目を向けた。
「壊すんじゃなくて、何か仕掛けがあるんじゃない? 鳴田南はそういうダンジョンだし、ミリアがここまで連れてきたなら、調べてみる価値はありそう」
「じゃあ探そ。この向こうに何があるのか、私も見たい」
三人が散った。
みつみは石柱の陰を、千尋は反対側を、志帆は床と壁の境目を調べていく。
しばらくして、みつみが声を上げた。
「これじゃない?」
石柱の陰に、丸い窪みがあった。中を三本の細い溝が走っている。
千尋も別の窪みを見つける。
「こっちにもある。形は違うけど、同じ仕掛けっぽい」
志帆が二つを見比べた。
「溝が三本なら、三つある可能性もあるわね。先にもう一つ探しましょう」
ほどなく三つ目も見つかり、三人がそれぞれの窪みの前へ立った。
「三つ同時かな」
「たぶん。やってみよ」
「待って。押す前に足元だけ確認しておきましょう。何が動くか分からないから」
三人が一度、床を見る。少なくとも、すぐに動きそうな継ぎ目は見当たらない。
「大丈夫そう」
「じゃあ、せーの」
三人が同時に手を押し込むと、石の奥から低い音が響いた。
崩れた壁の手前にあった薄い石板が左右へずれ、その奥から本当の崩落跡が現れる。
ミリアがゆっくりとそこへ近づいた。
けれど、崩れた石の前で止まる。
その先へは行けない。
みつみの表情から笑みが消えた。
「ここだったんだ。ミリアが閉じ込められてた場所」
千尋が崩落跡の前でしゃがみ、しばらく石を見ていたが、不意に顔を近づける。
「……待って。これ、さっきの部屋側からついた傷じゃない」
「どういうこと?」
「ここ見て。何回も硬いものをぶつけた跡があるんだけど、たぶん向こう側から削ってる」
みつみもしゃがむ。
石の下側には、自然に崩れたときについたものとは違う細かな傷がいくつも残っていた。同じ場所を何度も叩いたように、石の角が削れている。
志帆も近づき、少し角度を変えて見る。
「本当ね。ミリアがいた側から掘ったなら、傷のつき方が逆になるはず」
三人の視線が、塞がれた壁へ集まった。
ミリアも同じ場所を見ている。
みつみが立ち上がる。
「……誰か、向こうにいた?」
ミリアの輪郭が大きく揺れた。
三人とも息を止める。それまでほとんど反応を見せなかったミリアが、みつみへ顔を向けた。
「今の、絶対反応した」
「うん。誰かが向こうから掘ってたんだ。ここまで削ってるなら、一回や二回じゃないと思う」
千尋の言葉を聞きながら、みつみは腕の中の日記を見る。
そして、すぐに顔を上げた。
「リナ?」
ミリアの姿が、また揺れた。
みつみが壁へ一歩近づく。
「向こう側、行けないかな。この壁を抜くんじゃなくて、別の道から」
「ありそう。ここまで来る途中、まだ入ってない分岐がいくつかあったし、下へ続く階段もあった」
千尋は来た道を振り返る。
志帆もスマートフォンを取り出した。
「位置関係を考えると、完全に反対側へ回り込めなくても、近くまでは行けるかもしれない。探してみましょう」
「行こう」
みつみが先に通路へ戻る。
数歩進んでから振り返ると、ミリアは崩れた壁の前に残っていた。
「待ってて。向こう見てくるから」
◇
「こっち、まだ行ってない」
千尋が、ミリアを追ってきた途中で通り過ぎた細い通路へ入った。
みつみが続き、その後ろを志帆が来る。
「方向は合ってそう?」
「たぶんね。さっきの壁がこの辺だから、ここから回れれば反対側に出そう。まあ、こういう場所って真っすぐ繋がってるとは限らないけど」
「ゲームのマップ欲しい」
「今はちょっと欲しい。いつもなら自分で探すのも面白いけど」
みつみが小さく頷く。
「早く向こう行きたいもんね」
三人の歩く速度が少し上がった。
途中でダンジョンラットが現れると、千尋がショートソードを抜いて前へ出た。みつみもすぐ右へ開いて杖を構え、志帆は二人の後ろへ回りながら背後の通路にも目を配る。
戦闘はすぐに終わった。
ドロップを回収すると、そのまま先へ進む。
「こっち」
今度はみつみが下へ続く階段を見つけた。
三人で階段を下り、細い通路を抜ける。さらに一度曲がったところで、先を歩いていた千尋の足が止まった。
「……あった」
正面に、崩れた壁がある。
反対側から見た、さっきの場所だった。
三人は近づいた。
こちら側には、もっとはっきりと跡が残っている。
壁の一ヶ所だけではなく、右にも左にも、少し上にも、硬いものを何度も打ちつけた跡があった。崩れやすい場所を探しながら、何度も掘ったように見える。
床には、柄の折れた小さなつるはしのような道具が落ちていた。持ち手には布が巻かれ、その布は擦り切れ、ところどころ黒く染みている。
みつみがしゃがんだ。
「ずっと掘ってたんだ」
千尋は壊れた道具を見つめた。
「途中でやめた感じじゃないね。これ、壊れるまで使ってる」
少し離れた場所へ歩いていた志帆が、足を止めた。
「……こっちに何かある」
声が小さかった。
壁際の崩れた石の陰に、古びた鞄があった。そのすぐ横には、形も分からないほど朽ちた布が残っている。
三人とも、何となく足音を小さくした。
志帆が鞄の前へしゃがむ。
「かなり傷んでる。持ち上げたら崩れそうだけど、中は見られると思う」
みつみも隣へしゃがんだ。
「開けよう」
鞄の口を慎重に開く。
中に入っていたものは少なかった。
古びた櫛と、空になった小さな薬包。布袋。小さな金属の飾り。
そして、折り畳まれた紙。
千尋が紙を見る。
「何か書いてある。読めそう?」
「ちょっと待って。破れそうだから、ここで広げる」
志帆が慎重に紙を開いた。
文字はかなり薄れている。全部は読めない。
けれど、それが誰かの行動を記録したものではないことは、すぐに分かった。
ミリアへ。
最初に、そう書かれていた。
みつみが息を止める。
「……手紙?」
「みたいね」
それは、リナからミリアへ宛てた手紙だった。
帰り道で大きな崩落が起き、いつもの道が塞がれて、すぐには戻れなくなったこと。遠回りをして別の入口を探し、ようやく遺跡の中へ入れたこと。そこまで来るのに時間がかかってしまったこと。
そして、ミリアが一人で待っていることを心配する言葉が何度も書かれていた。
怖がっていないか。薬は残っているか。水はあるか。ちゃんと眠れているか。
心配しなくていい。
必ずそっちへ行く。
だから、もう少しだけ待っていてほしい。
そんな言葉が、途切れながら残っていた。
「……リナも、帰ろうとしてたんだ」
みつみが言う。
志帆は紙から目を離さない。
「うん。町に残ってたわけじゃない。道が塞がれて、それでも別の道を探して、ここまで来たみたい」
千尋が崩れた壁を見る。
「じゃあミリアがずっと待ってた間、リナもずっとこっちに来ようとしてたんだ」
誰も続けなかった。
手紙の最後。
そこだけは、まだ文字がはっきり残っていた。
――もう少しだから。待ってて。
三人とも黙った。
みつみは、抱えていた日記へ目を落とす。
――来てくれると思ってた。
ミリアが最後に残した言葉。
――もう少しだから。待ってて。
姉が残した言葉。
千尋が壁を見る。
「……ここまで来てたんだ」
すぐそこだった。
壁一枚。
その向こうで妹は姉を待っていた。
こちらでは姉が、妹のところへ行こうとしていた。
でも、届かなかった。
みつみが顔を伏せ、一度、鼻をすすった。
「ちょっと待って」
袖で目元を拭く。
「これ、無理」
千尋も目を逸らした。
「……分かる。私も今、結構きてる」
志帆は何も言わなかった。その代わり、手紙を持つ手に少し力が入った。
鞄の底に残っていた金属の飾りを、みつみが手に取る。
二つの星が、大きいものと小さいものとで、寄り添うようにつながっていた。
裏には二つの名前が刻まれている。
リナ。
ミリア。
「あの部屋の星……」
みつみが呟く。
志帆も飾りを覗き込んだ。
「これを描いてたのかもしれないわね」
壁の向こうには、ミリアが何度も刻んだ星がある。
こちらには、姉が最後まで持っていた二つの星。
みつみは飾りを両手で包んだ。
「これ、持っていこう。ミリアに見せたい」
千尋が頷く。
「うん」
みつみは二つの星を握ったまま、もう一度壁を見た。
ミリアは何日も姉を待っていた。今日こそ帰ってくる。明日なら帰ってくる。置いていかれたわけじゃない。そう思おうとしながら、最後には「来てくれると思ってた」と残した。
けれど、姉は来なかったわけではなかった。
みつみの手の中には二つの星がある。
足元には壊れたつるはし。
目の前の壁には、何度も掘った跡。
そして、ミリアへ宛てた手紙。
そのすぐ向こうに、ミリアはいた。
「……来てたじゃん」
みつみの声が震えた。
千尋が唇を噛む。
志帆は壁を見たまま、何も言わなかった。
みつみは二つの星を握る。
「ちゃんと、来てたじゃん」
三人は来た道を戻り始めた。
今度は、ミリアに伝えるために。




