第31話 静かな湖畔の森の陰から
「脚痛い」
朝の教室で、みつみは自分の席に座るなり机へ突っ伏した。
「分かる」
佳奈子が、その前の席の背もたれに手を置く。
「私も太もも痛い」
「私はふくらはぎ」
「私はそこまででもないけど」
千尋が言うと、みつみは顔だけを上げた。
「裏切り者」
「何が?」
「一緒に岩登ったじゃん」
「登ったけど」
「なんで平気なの」
「知らないよ」
昨日の虎ヶ崎ダンジョン。
細い獣道へ入った四人は、倒木を渡り、斜面を登り、岩を越え、その先で大きな湖を見つけた。
帰りは湖から続いていたメインルートを使った。
驚くほど歩きやすかった。
「帰りの道、ほんと楽だったよね」
佳奈子が言う。
「行きの苦労なんだったのってくらい」
「でも楽しかったじゃん」
「それは楽しかった」
みつみは椅子に座ったまま片足を伸ばす。
太ももが少し張る。
「次も獣道行く?」
「私は普通の道」
佳奈子は即答した。
「早い」
「だって湖まで行けるの分かったし。次は普通に行ってみたい」
「私も」
志帆が鞄を机へ置いた。
「正規の道を知った今、あえて同じ試練へ挑む必要は――」
途中で口を閉じる。
三人が志帆を見る。
「何?」
「今の続きは?」
「ない」
「学校だもんね」
みつみが笑うと、志帆が少しだけ目を細めた。
「分かってるなら聞かないで」
「ダンジョンだと普通に言うのに」
「場所が違うのよ」
佳奈子が志帆の肩を軽く叩く。
「大丈夫。今のも半分くらい出てたから」
「出てない」
「出てたよ」
チャイムが鳴った。
「あ」
「戻ろ」
四人は話を切り上げ、それぞれ自分の席へ戻っていく。
さっきまでダンジョンの岩や獣道の話をしていたのに、教室の前では授業の準備が始まっていた。
みつみも教科書とノートを机へ出す。
授業が始まり、黒板へ文字が増えていく。
みつみはノートへ書き写しながら、椅子の下で少しだけ足を伸ばした。
痛い。
昨日、倒木をわざわざ歩いた。
普通にまたげたのに。
斜面も横から回れたのに、真っすぐ登った。
岩も脇を通れそうだったのに、上へ登った。
自分でやったことなので、誰にも文句は言えない。
前のほうを見る。
少し離れた席の千尋は、普通に授業を受けていた。
やっぱりずるい。
そう思っていたら、先生がこちらを向いた。
みつみは慌ててノートへ視線を戻した。
◇
「次、これ持っていかない?」
昼休み。
机を寄せて昼食を食べている途中、佳奈子がスマホを三人へ見せた。
画面には、小分けになったお菓子の袋が映っている。
「いい」
みつみが即答する。
「まだ何も説明してないけど」
「お菓子でしょ?」
「そうだけど」
「じゃあいい」
千尋が箸を止め、画面を覗いた。
「次って虎ヶ崎?」
「うん。今度は普通の道で湖まで行こうよ」
「賛成」
「私も」
志帆も頷く。
みつみだけが少し考えてから、
「途中まで獣道は?」
「行かない」
佳奈子に即座に却下された。
「まだ言い終わってない」
「言い終わらなくても分かる」
「ちょっとだけ入って、途中で戻るとか」
「なんで?」
「楽しいから」
「また筋肉痛になるよ」
「……普通の道にしよっか」
「学んだ」
千尋が笑う。
みつみは卵焼きを口へ入れた。
「湖で何する?」
「休憩」
「それだけ?」
「昨日、着いたときにはもう結構疲れてたじゃん。今度は最初から湖でゆっくりするのもよくない?」
「いいね」
佳奈子がスマホを操作する。
「私、帰ってから虎ヶ崎の湖のこと調べたんだけど、湖畔の一部、セーフゾーンなんだって」
「ほんと?」
みつみが身を乗り出した。
「ほら」
差し出された画面を三人で見る。
「じゃあ、そこで休めるね」
「だからお菓子」
「なるほど」
志帆が頷いた。
「ゆっくりするなら、飲み物とかもちゃんと持っていったほうがよさそうね」
「飲み物もいるよね」
みつみが自分のスマホを取り出した。
「それぞれ自分の分でよくない?」
「お菓子は?」
「持ち寄りにしよ」
「何持ってく?」
「まだ決めてない」
「甘いのとしょっぱいの両方ほしい」
「分かる」
佳奈子が指を一本立てる。
「あと、溶けるのはやめよう。チョコとか」
「じゃあグミ」
「またグミ?」
「グミ好きなんだもん」
「私はポテチ」
みつみが言うと、千尋が首を傾げた。
「ダンジョンに持ってくと潰れない?」
「上のほうに入れる」
「装備とポテチが同じバッグに入ってるの面白いね」
「現代の冒険者だから」
「便利な言葉増えたね」
そこからしばらく、お菓子の話になった。
何を持っていくか。
飲み物はどのくらいにするか。
湖まで普通に歩いたらどれくらい楽なのか。
話している内容だけ聞けば、遠足の相談とそれほど変わらない。
違うのは、バッグの中に武器やダンジョン用の道具も入ることくらいだった。
◇
放課後。
「じゃあ、またね」
「また明日」
校門の近くで四人は別れた。
今日はダンジョンへ行かない。
用品店へ寄るわけでもない。
みつみはそのまま家へ帰る。
昼休みに話したお菓子を途中で買ってもよかったけれど、次に虎ヶ崎へ行くのはまだ先だ。
普通に学校へ来て、授業を受けて、友達と昼ご飯を食べて、帰る。
そんな日の昼休みに、次のダンジョンへ持っていくお菓子の相談をしていた。
みつみにとっては、それもすっかりいつものことになっていた。
◇
「はやっ」
休日。
虎ヶ崎ダンジョンの森を歩いていたみつみは、思わず声を上げた。
「もうここ?」
「たぶん」
千尋が道の脇を見る。
細い獣道が、木々の間へ伸びていた。
前回、自分たちが入った場所だ。
「ほんとに早い」
佳奈子が笑う。
「前回の私たち、何してたんだろ」
「楽しかったからいいじゃん」
「それはそう」
みつみは獣道を見る。
「……ちょっとだけ」
「行かないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「書いてない」
千尋が先へ歩き出す。
「今日は湖でしょ」
「はーい」
みつみも追いかけた。
同じ森なのに、歩きやすさが全然違った。
人が何度も通った跡は土が固く、木の根を一つずつ越える必要もない。倒木が道を塞いでいることもなく、大きな岩をわざわざよじ登る必要もない。
「快適」
「前回とは大違い」
佳奈子が言う。
「でもちょっと物足りなくない?」
「みつみだけね」
その少し先で、千尋が足を止めた。
「いる」
三人もすぐに立ち止まる。
「どこ?」
「前。見えてる」
道の端。
木の根元で、緑がかった半透明の身体が揺れていた。
「森スライム」
前にも戦った相手だった。
千尋がショートソードを抜く。
森スライムが身体を縮め、跳ねる。
「《マジックボール》!」
みつみの魔力弾が先に当たった。
森スライムの身体が大きく揺れる。
千尋が横から踏み込み、黒い刃を振った。
もう一度、森スライムが跳ねようとする。
その前に矢が刺さった。
佳奈子が弓を下ろす。
森スライムはその場で形を崩し、ほどなく消えた。
「終わり」
「早いね」
みつみが杖を下ろす。
「前も戦ったしね」
千尋が落ちた《スライムゼリー》を拾った。
志帆は出番のなかったメイスを持ったまま、少しだけ肩をすくめる。
「癒やしの力を振るう間もなかったわ」
「いいことじゃん」
「いいことだけれど、ヒーラーとして少し複雑」
「ケガしたほうがいい?」
「それはやめて」
四人はそのまま歩き出した。
前回のように寄り道はしない。
薬草がすぐそばにあれば少し足を止めるけれど、森の奥まで探しには行かなかった。
そして。
「あ」
木々の向こうが明るくなる。
みつみは足を速めた。
「見えた」
湖だ。
前回は斜面を登り、岩を越え、フォレストウルフと戦って、ようやく辿り着いた。
今日は拍子抜けするほど簡単だった。
「ほんとに普通に着いた」
佳奈子が言う。
「楽」
千尋も笑った。
「これはこれでいいね」
「でしょ?」
「なんで佳奈子が得意げなの」
「普通の道を推したの私だから」
湖のそばまで進む。
前に調べた場所を確認しながら、四人は湖畔のセーフゾーンへ入った。
比較的平らな草地に荷物を下ろす。
「着いたー」
みつみはその場へ座った。
「早くない?」
「何が?」
「座るの」
「今日はこれしに来たんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
佳奈子も隣に座る。
志帆と千尋も荷物を下ろした。
湖面には森の緑と空が映っている。
ときどき風が吹くと、水面の光が細かく揺れた。
「じゃあ」
みつみがバッグを開ける。
「お菓子」
「着いて何分?」
「いいじゃん」
次々と袋が出てくる。
みつみはポテトチップス。
佳奈子はグミ。
千尋は小さな袋に分かれた煎餅。
志帆はクッキーだった。
「意外」
みつみが志帆の袋を見る。
「何が?」
「もっと黒いやつ持ってくるかと思った」
「黒いやつって何?」
「黒いクッキー」
「《黒月》に合わせて?」
佳奈子が言った。
志帆の手が止まる。
「誰も《黒月》なんて言ってないけど」
「今言った」
「佳奈子がね」
千尋が自分のショートソードを見る。
「その名前まだ生きてるの?」
「私は気に入ってる」
みつみがポテトチップスの袋を開ける。
「黒いし」
「名前つけなくていいから」
「でも普通に『黒いショートソード』って長くない?」
「ショートソードでいいじゃん」
「他のと区別つかない」
「今、私それしか持ってないでしょ」
「《黒月》なら一発で分かる」
「定着させようとしないで」
佳奈子がグミを一つ口へ入れる。
「学校で志帆に言ってみようよ」
「やめて」
返事が早かった。
「ダンジョンならいいの?」
「よくはないけど、ここならまだいい」
「やっぱ場所で変わるんだ」
「変わるわよ」
志帆がクッキーを一つ取る。
「教室で『漆黒の魔剣《黒月》』とか言ってるところ、想像してみて」
三人が少し考える。
「……きついね」
千尋が言った。
「でしょう?」
「でも見たい」
みつみが言う。
「絶対やらない」
「一回だけ」
「やらない」
「じゃあ文化祭とか」
「何の関係があるの?」
そこから話は、いつの間にか学校のことへ移った。
次の授業のこと。
クラスで最近あった小さな出来事。
昼休みに何を食べたか。
途中でまたダンジョンの話になり、《黒月》へ戻ったと思ったら、今度は佳奈子のグミが最後の一個になったことで話が止まった。
「誰食べた?」
「みつみじゃない?」
「二個しか食べてない」
「最初から何個入ってたの?」
「知らない」
「じゃあ分かんないじゃん」
「志帆は?」
「三個」
「ちゃんと数えてるんだ」
「聞かれたから答えただけよ」
千尋が袋の中を覗く。
「もうないね」
「まあいいか」
佳奈子は空になった袋を畳んだ。
誰が何個食べたかは、それで終わった。
湖の向こうから風が吹く。
森の葉が揺れ、ざわざわと音を立てた。
みつみは後ろへ手をつき、空を見上げる。
「眠くなってきた」
「食べたからじゃない?」
千尋が言う。
「ちょっとだけ寝たい」
「ダンジョンで?」
「セーフゾーンだよ?」
「そうだけど」
佳奈子も膝を抱えたまま、湖を見る。
「私もちょっと眠い」
「五分だけにする?」
「五分で起きられる?」
「誰か起こして」
「誰が?」
四人が顔を見合わせた。
「千尋」
「なんで私?」
「一番起きそう」
「どういう理由?」
「朝強そう」
「知らないよ」
千尋はそう言いながら、荷物を自分の近くへ寄せた。
「じゃあ五分ね」
「やった」
みつみは草の上へ身体を倒した。
「本当に寝るの?」
志帆が聞く。
「五分」
「私は起きてるから」
「じゃあ志帆が起こして」
「任せなさい」
みつみは目を閉じた。
草の匂いがする。
湖から吹いてくる風が頬を撫で、少し離れたところで木の葉が揺れている。
誰かが袋を片づける音がした。
そのあと、佳奈子の声。
「私も横になろ」
「五分よ」
「分かってる」
少し間が空いた。
「千尋?」
「何?」
「寝た?」
「まだ」
「私も」
それが最後だった。
◇
「……ん」
みつみは目を開けた。
最初に見えたのは空だった。
次に木の枝。
それから、少し傾いた光。
「……あれ?」
身体を起こす。
隣で佳奈子が寝ていた。
少し離れたところには千尋。
志帆も、自分のバッグを枕代わりにして目を閉じている。
「全員寝てるじゃん」
誰も答えない。
みつみはスマホを取り出した。
画面を見て、一度止まる。
「え」
もう一度見る。
「ちょっと起きて」
佳奈子の肩を揺らす。
「んー……」
「五分じゃない」
「何が?」
「寝た時間」
佳奈子が目を開ける。
みつみのスマホを見る。
「……うそ」
「ほんと」
「千尋起こして」
「千尋も寝てる」
「なんで?」
「知らないよ」
二人で千尋と志帆を起こした。
しばらくして、四人が座った状態で顔を見合わせる。
「誰が起こす予定だったっけ」
佳奈子が聞く。
「志帆」
みつみが答える。
三人が志帆を見る。
「……私?」
「任せなさいって言った」
「覚えてない」
「言ったよ」
「寝るつもりはなかったの」
「一番ダメなやつじゃん」
千尋が大きく伸びをする。
「でもよく寝た」
「うん」
佳奈子も目元をこする。
みつみは湖を見る。
来たときより、光が少し低くなっていた。
「どうする?」
「奥行く?」
問いかけてから、誰もすぐには立たなかった。
千尋がスマホを確認する。
「今日はもう帰ってもよくない?」
「賛成」
佳奈子が即答した。
「私も」
志帆もバッグを引き寄せる。
みつみは湖の向こうを見た。
ここから先がどうなっているのかは、まだ知らない。
でも今日は、不思議と見に行かなきゃという気分にならなかった。
「今日、全然進んでないね」
佳奈子が言う。
みつみは立ち上がり、服についた草を払った。
「別にいいんじゃない?」
「だね」
千尋も立ち上がる。
志帆が荷物を背負った。
「ダンジョンへ来て、湖まで歩いて、お菓子を食べて、昼寝して帰る……」
「何?」
「……これはこれで、立派なダン活ね」
「でしょ?」
みつみが笑った。
モンスターをたくさん倒したわけでもない。
奥まで進んだわけでもない。
何か珍しいものを手に入れたわけでもない。
それでも今日は楽しかった。
「次は寝ないようにしよ」
佳奈子が言う。
「五分ならいいんじゃない?」
「今日も五分の予定だったんだけど」
「あ」
「もう忘れたの?」
四人の笑い声が、静かな湖畔へ広がった。
荷物を持ち、来たときと同じ歩きやすい道へ戻る。
今日は攻略しなかった。
でも、ダンジョンにはちゃんと来た。
そういう日があってもいい。




