第21話 ひとりで潜るダンジョン
日曜日の朝、千尋はベッドの上で天気予報を見てから、続けて乗換案内を開いた。
この前、みつみと志帆と行った二つ隣の町の初心者向けダンジョン。三人で歩いた範囲には選ばなかった分岐がいくつもあり、帰ってからも何となく、その先が頭に残っていた。
起きたときから行こうと決めていたわけではない。それなのに電車の時刻を調べているうちに、頭の中ではもう出かける段取りができている。
グループチャットを開きかけて、やめた。
今日は一人でいい。
千尋はベッドから降りると、出かける服を選びながら階下へ向かった。
◇
前回と同じ駅へ降りたのは、午前十時を少し回った頃だった。
みつみと志帆と歩いた道を、今日は自分のペースで進む。駅から施設までの道順はもう分かっているので、スマホを取り出す必要もない。
歩道の端に落ちた色づき始めの葉を踏まないよう避けながら歩いていると、やがて見覚えのある建物が現れた。
特別な予定を立てて来たわけではない。休みの日に時間が空いていて、行きたい場所があったから来ただけだ。
千尋にとっては、それで十分だった。
受付も装備の準備も一度経験している。必要な手続きを済ませ、保管庫からショートソードを受け取ると、刃や柄に異常がないことを確かめて腰へ下げた。
今日はデイパックも軽い。昼食と飲み物、最低限の消耗品、それから普段使っている探索用の道具だけなので、歩き始めてみても肩への負担はほとんど感じなかった。
入口を通り抜ける。
空気が変わる感覚も、足元の硬さも前回と同じだったが、横に誰もいないだけで聞こえる音はずいぶん違う。会話がないぶん、自分の靴底が地面を擦る音や、歩くたびにデイパックの中で何かが小さく揺れる音まで耳に入ってきた。
最初の分岐で足を止める。
前回は右へ行った。
「じゃ、今日は左」
それだけ決めて、知らないほうへ進んだ。
◇
しばらくはモンスターに遭遇しなかった。
通路は緩く曲がりながら続き、ときどき岩が張り出して視界を遮る。前回歩いた場所より道幅が狭く、二人並べば少し窮屈そうなところもあったが、一人なら気にならない。
曲がり角へ近づいたところで、千尋は自然に歩幅を落とした。視界の先には何もいない。それでも角へ身体を出す前に《気配察知》を使うと、右前方の見えない場所に反応が一つある。
距離は近い。
千尋は腰の剣へ手を置き、壁際へ寄ったまま少しだけ先を覗いた。
岩の陰から現れたのはゴブリンだった。前傾した獣じみた身体で辺りをうろつき、こちらにはまだ気づいていない。
一体だけなら避ける理由もない。
千尋はショートソードを抜いて通路の中央へ出た。
金属音に反応したゴブリンが顔を上げる。次の瞬間には地面を蹴り、牙を見せながら真っ直ぐ距離を詰めてきた。
速さそのものは知っている。剣を正面へ置いたまま相手の足運びを見て、千尋は飛びかかる寸前まで動かなかった。
ゴブリンの身体が沈んだところで半歩左へずれると、爪が探索用ウェアの脇を抜けていく。すれ違う勢いを利用して身体を回し、相手が着地して向きを変えるより早く踏み込むと、脇腹へ剣を叩き込んだ。
一撃では消えない。
ゴブリンが振り向きざまに腕を振ったため、無理に二撃目を狙わず距離を取る。追ってきた相手がもう一度前へ出たところで、今度は身体を外へ逃がしながら剣を返した。
刃が入ると、ゴブリンの姿が消えた。
千尋はすぐに剣を下ろさず、周囲へ視線を巡らせる。《気配察知》にも新しい反応がないことを確かめてから鞘へ戻し、ひとつ息を吐いた。
「よし」
呼吸はほとんど乱れていない。
さっきまでゴブリンがいた場所の先には、戦う前と同じ静かな通路が続いていた。千尋はそのまま歩き出し、しばらくしてから少しだけ笑った。
一人だと、戦闘が終わったあとも静かだった。倒した直後から周囲を確認し、問題がなければそのまま次へ進む。
以前から何度もしてきたソロ探索の感覚は、久しぶりでも身体に残っていた。
◇
二つ目の戦闘は、さらに奥へ進んだ先で起きた。
《気配察知》に二つの反応を捉えた千尋は、すぐには前へ出ず、少し戻って周囲を見た。通路の片側には腰ほどの高さまで岩が張り出しており、その向こうはやや広くなっている。
姿を確認すると、ダンジョンラットが二体いた。
低い位置から素早く来る相手を、開けた場所で左右から受けるのは面倒だ。千尋は一度後ろへ下がり、道幅の狭いところまで戻った。
「こっちのほうが楽かな」
剣を抜いて待っていると、やがてこちらに気づいた二体が走り出した。狭い通路へ入ったところで自然に前後へずれ、速いほうが先に距離を詰めてくる。
千尋は先頭の一体に意識を絞った。
低い身体が地面を蹴った瞬間、横へかわして剣を振る。刃は背中へ入ったが、倒しきれない。
追撃するより先に二体目が迫ったため、一体目から視線を切り、《サイレントステップ》で前方の空いた側へ抜けた。
足音が消えたまま短い距離を一気に移動すると、二体の向きが揃ってこちらへ変わる。前後が入れ替わり、今度は無傷の個体が先頭になった。
一歩下がって飛び込みを待ち、噛みつきが届く直前に身体を引いて空振りさせる。そこへ頭上から剣を落としたが、まだ消えない。
すぐ後ろから、先に傷を負わせた一体が横へ抜けようとした。
千尋はそこで後退せず、目の前の個体を壁側へ押し込むように位置を変えた。進路を塞がれて二体の動きが重なった一瞬に、先ほど傷つけたほうへ剣を振る。
一体が消えた。
残った相手へすぐ視線を戻したものの、すでに足元まで入り込まれている。
「っ」
反射的に脚を引くと、牙が靴の前をかすめた。
そのまま距離を取り、剣を構え直す。焦って追えば、低い相手に足を取られる。
ダンジョンラットが方向を変える。次の突進はさっきより見やすく、半身になってかわしたところで横を抜けた身体へ一撃を入れた。さらに振り返った相手が飛びついてくるところへ剣を合わせると、今度こそ姿が消える。
静けさが戻ったあとも、千尋は数秒その場に留まり、《気配察知》で周囲に別の反応がないことを確かめてから剣を下ろした。
「今の、ちょっと近かったな」
靴の先を見るが、傷はない。
一体を倒した直後、残っていた相手が思ったより近くまで来ていた。複数を相手にするときは、倒したほうではなく、まだ動いているほうを見る。分かっていることでも、一人ですべて処理すると意識を切り替えるタイミングが難しい。
その忙しさまで含めて、千尋は嫌いではなかった。
水を一口飲み、呼吸が落ち着いているのを確かめてから先へ進んだ。
◇
昼を少し過ぎたところで、千尋は通路脇の平らな場所を選んで休憩した。
座ってデイパックを下ろし、コンビニで買ったサンドイッチを取り出す。壁へ背中を預けるほど油断はせず、曲がり角の見える位置に身体を向けたまま包装を開いた。
食べながらスマホを取り出す。ダンジョン内では通信できないため、新しい通知は当然増えていない。
朝のうちに受信していたグループチャットでは、佳奈子が昨夜送ったスタンプにみつみが反応し、志帆はまだ何も返していなかった。
千尋は画面を見て少し笑い、そのまま閉じる。
別に今いる場所を報告する用事はない。
サンドイッチを食べ終え、水を飲んでから時計を見る。体力にはまだ余裕があり、《サイレントステップ》も一度しか使っていない。
ここで帰るには少し早いが、目的はクリアではなかった。どこまで行けるか試したいわけでもないし、一人で無理をして得るものもない。
「もう一個先まで見よ」
千尋は立ち上がって荷物を背負った。
その先で面倒そうなら戻る。それだけ決めて、また歩き始めた。
◇
次の分岐へ近づいたところで、《気配察知》が反応した。
一つ、二つと続き、少し間を置いてもう一つ増える。
反応は三つ。
姿はまだ見えないので、壁際から慎重に確認すると、少し先の広い場所にゴブリンが二体見えた。残り一体は岩陰にいるらしく、反応だけが続いている。
千尋は剣へ手をかけたまま、その場で考えた。
三体なら戦えない数ではない。けれど、広い場所で好きに動かれると、一体を相手にしている間に横から来られる。手前の通路へ引けば前後に並べられるかもしれないが、見えていない一体がどう動くかは分からない。
今ここで戦う理由もなかった。
千尋は静かに一歩下がり、そのまま来た道へ戻った。少し離れてから剣の柄から手を放す。
「今日はそっちじゃないな」
戦わずに引いたことへの抵抗はなかった。相手を倒せるかどうかと、わざわざ戦うかどうかは別だ。
分岐まで戻り、もう一方の道へ入る。
こちらはさっきより足元に小石が多く、歩くたびに靴底で乾いた音がした。音を立てたくない場面なら歩きにくそうだが、今のところ気配はない。
緩い坂を下った先で、通路が急に広がった。中央には背の低い岩がいくつも突き出し、その間を縫うように進める。視界が完全には通らないぶん、千尋は速度を落とした。
《気配察知》を使うと、すぐ近くに一つ反応がある。
次の瞬間、岩の向こうからホーンラビットが飛び出してきた。
「うわっ」
角を前へ向けた小さな身体が一直線に突っ込んでくる。
千尋は考えるより先に岩の横へ飛び退いた。ホーンラビットは曲がりきれず、そのまま数メートル先まで走ってから向きを変える。
ショートソードを抜くと、今度はこちらから相手がよく見えた。
ホーンラビットが地面を蹴る。
千尋は真正面で待ちながら、周囲の岩の位置を頭に入れた。左へ避ければ足を取られるが、右には空間がある。そこまで見定める間にも、相手との距離はみるみる詰まっていく。
角が胸元へ届く直前、《サイレントステップ》で右へ抜けた。
視界が横へ流れる。
ホーンラビットは勢いのまま通り過ぎ、千尋は止まると同時に身体を返した。背後へ踏み込んで剣を振ると、刃は胴へ当たったものの、相手はまだ消えない。
小さな身体が跳ねて距離を取ったため、千尋は追わなかった。
ホーンラビットは直線なら速いが、急な方向転換には少し時間がかかる。こちらが追い回すより、走ってくるところを見たほうがいい。
再び向き直った相手を前に、剣先を少し下げる。
もう一度、突進してくる。
今度はスキルを使わず、軌道から一歩だけ外れた。角が服のすぐ横を抜けたところで、そのまま剣を返す。
二撃目でホーンラビットは消えた。
千尋は息を吐きながら剣を下ろした。
「こっちは、もうちょい余裕あったな」
最初に岩陰から飛び出されたときは別として、動き始めてからは落ち着いて見られた。
剣を鞘へ戻して周囲を確認すると、この先にもまだ道が続いている。行こうと思えば進めるが、千尋はそこで時計を見た。
帰りの電車と、施設まで戻る時間を頭の中で組み合わせる。体力は残っているものの、《サイレントステップ》はこれで二度使った。ここから先へ進めば、帰路でまた戦闘になる可能性もある。
少し考えてから、来た道へ身体を向けた。
「うん、撤収」
惜しいとは思わなかった。
まだ先があるなら、また来ればいい。
◇
帰り道では、行きより戦闘を避けた。
気配を感じれば一度止まり、別の道が使えるならそちらを選ぶ。狭い通路でダンジョンラットを一体見つけたときも、相手がこちらに気づく前に迂回できそうだったので、わざわざ剣は抜かなかった。
行きに見つけた分岐や岩の形を覚えていたおかげで、戻る途中に迷うこともない。
一人で潜れば、前へ進むのも、避けるのも、戦うのも、帰るのも自分で決める。それは責任が重いというほど大げさなものではなく、千尋にとっては、自分の足で散歩のコースを選ぶ感覚に少し近かった。
もちろんダンジョンなので、普通の散歩よりずっと慎重にはなる。
入口が見えてくる頃には、脚にほどよい疲れが溜まっていた。
施設へ戻ってショートソードを預け、装備を片づけて外へ出ると、スマホが何度か震えた。圏外だった間の通知がまとめて届いている。
千尋は画面を見たものの、グループチャットは開かなかった。代わりに乗換案内を起動し、次の電車を確認する。
「十二分後か」
歩けばちょうどいい。
駅へ向かいながら途中のコンビニへ寄るか少し迷い、結局そのまま通り過ぎた。
知らない道を選び、見えない相手を探し、自分の間合いで戦って、面倒そうなら避ける。もっと行けそうなところで自分から引き返した。
特別なものを手に入れたわけでも、危ない目に遭ったわけでもない。
それでも、千尋には十分に楽しい一日だった。
駅のホームへ着く。
電車を待ちながら、千尋はようやくグループチャットを開いた。
みつみから、昼前にどうでもいい動画のURLが一つ。佳奈子からは、それに対する『なにこれ』の一言が返っており、志帆は既読だけつけている。
千尋は少し考え、メッセージ欄を開いた。
『今日、この前のダンジョン一人で行ってた』
そこまで打って、送るのをやめた。
別に急いで知らせることでもない。明日学校で会えば、そのとき話せばいい。
入力した文字を消してスマホをしまうと、ちょうどホームへ電車が入ってきた。
千尋は立ち上がり、開いたドアへ向かった。




