第119話 追い風は昼寝のあとで
真上を覆った翼が、森の空気を押し下げた。
「右から来るよ!」
千尋の声と同時に、ストームオウルが梢をかすめて急降下してくる。羽ばたきに巻き上げられた落ち葉が、佳奈子の足元を走った。引き絞った弓が風にあおられ、狙いが少しずれる。
「千尋、《プロテクション》!」
志帆の声を背に、千尋が大きな爪の下を斜めに抜けた。すれ違いざまの黒月が翼の付け根を捉え、傾いた巨体へ、みつみの《マジックボール》が飛ぶ。
「佳奈子、今!」
「うん、見えてる!」
佳奈子は風の弱まった一瞬を待って《スナイプ》を放った。矢が翼を打ち、ストームオウルは高度を保ちきれず、低く滑るように降りてくる。そこへ千尋が踏み込み、みつみの魔力弾がもう一度重なった。
大きな翼が最後に一度だけ地面をあおり、ストームオウルは光になって消えた。草の上に大羽が残り、少し先には帰還ゲートが現れる。
「ふう。久しぶりだけど、あの風は相変わらず厄介だね」
佳奈子が髪を払いながら弓を下ろす。千尋は黒月を納め、みつみが拾い上げた大羽を横から覗いた。
「でも、前より余裕あったよね。ちゃんと周りも見られたし」
「うん! 初めて戦ったときは、大きいってだけでびっくりしてたもん。でも羽はやっぱりでっかいなあ」
みつみが大羽を腕と並べている横で、志帆は四人に怪我がないことを確かめた。それから帰還ゲートを見やり、来た道へ顔を向ける。
「さて、湖へ戻りましょうか。お昼も楽しみにしていたんでしょう?」
「そうだった! 私、今日のために作ってきたんだよ!」
「じゃ、早く戻ろ。私もお腹すいた」
佳奈子がそう言うと、四人は帰還ゲートを使わず、木々の間に続く道を湖へ向かって歩き始めた。
◇
湖畔のセーフゾーンに着くと、佳奈子は真っ先に木陰を探した。
「今日はあっちにしない? あそこ、風も通りそうだし、湖もよく見える」
示した場所は水際から少し離れた、木の根の少ない平らな一角だった。敷物を広げると、靴底から伝わっていた地面の硬さがなくなり、佳奈子は思わず足を投げ出す。
「あー、座った。もうしばらく動きたくない」
「まだお昼出してないでしょ」
「それは動く。お昼のためなら」
千尋が笑いながら保冷バッグを開け、みつみも待ちかねたように容器を取り出した。蓋が開くと、小さな焼き色のついたマフィンが並んでいる。
「じゃーん。おかずマフィン! ベーコンとチーズ入り。冷めてもおいしくなるように、昨日もう一回焼いてみたんだ」
「わ、ちゃんとしてる。形もきれいじゃん」
佳奈子が覗き込むと、みつみは得意そうに頷いた。
「最初のやつは冷めたらちょっと固かったの。だから生地を変えてみた。ちゃんと保冷してきたから、今のうちに食べて!」
千尋が一つを半分ほどかじり、少し考えるように噛んでから顔を上げた。
「おいしい。甘くないマフィンっていいね。これだったら普通にお昼になる」
「でしょう! 志帆は?」
「私も好きよ。チーズの塩気がちょうどいいし、生地もしっとりしているわ。何より、冷めた状態を考えて作っているのがいいわね」
「そこ気づいてくれるの嬉しい!」
みつみは笑いながら自分の分へ手を伸ばした。佳奈子も一口食べ、それから買ってきたサンドイッチを開く。
「私、普通に買ってきただけなんだけど。たまごとハム、どっちか食べる?」
「たまご!」
「はいはい。じゃ、半分こね」
佳奈子が差し出すと、みつみはマフィンの残りを口へ運んでから受け取った。千尋のおにぎりや志帆の持ってきた菓子まで広がり、いつの間にか敷物の真ん中が小さな持ち寄りランチのようになっている。
食べながら、みつみは昨日の試作で余ったチーズの話を始めた。千尋が「それ、朝ご飯でもおいしそう」と言えば、今度は朝に食べるなら何を入れようかと考え始める。志帆が思いついた具を一つ挙げると、みつみはすぐスマートフォンへメモし、佳奈子はその横で「まず今日のを食べ切ろうよ」と笑った。
食べ終える頃には、湖を渡る風が少し涼しくなっていた。水面には細かな光の筋が走り、対岸の木々は、夏の強い日差しの中で濃い緑色をしている。
「……いいな、ここ。湖って、見てるだけでも飽きないね」
千尋は飲み物を片づけ、敷物の端へ寝転がった。片腕で目元を覆うと、木の葉が擦れる音が近く聞こえる。
「私もちょっと寝ようかな。さっきから眠くて」
「佳奈子、食べてすぐ寝るの?」
「横になるだけ。……たぶん」
佳奈子も鞄を枕にした。隣ではみつみが個包装の菓子を選び、志帆が湖を眺めたままお茶を飲んでいる。さっきまでストームオウルと戦っていたとは思えないほど、周囲は静かだった。
しばらくして、みつみが小さな声で言った。
「ねえ、志帆。あの水面、なんか模様できてない?」
「風の通り道かしら。向こう側だけ、波の向きが違って見えるわね」
二人は同じ方向を眺めた。湖の中央を横切っていたさざ波が岸へ近づくにつれ、細かな筋に分かれて消える。みつみはしばらく見ていたが、やがて菓子を一つ口に入れると、今度は頭上で揺れる葉を見上げた。
「……こういうの見てると、時間分かんなくなるね」
「ええ。何もしていないようで、案外退屈しないものね」
そこで会話は終わった。眠っている二人を起こす理由もなかったし、みつみも志帆も、もう少し黙って景色を見ていたかった。
◇
次に佳奈子が目を開けたとき、千尋はまだ横になっていた。志帆は敷物の端に座り、持ってきた菓子の包みを開けている。みつみは湖の写真を撮っていたが、シャッター音を聞かせないようにしているらしく、いつもより動きが小さい。
「……私、寝てた?」
「うん。結構ぐっすり。千尋もまだ寝てる」
みつみが振り返る。佳奈子は水筒のお茶を飲み、目をこすってから湖の方へ向き直った。さっきと同じ景色のはずなのに、日差しの角度が変わったせいで、水面の青さが少し濃く見える。
「ねえ、その写真見せて。さっきより湖きれいに撮れてない?」
「撮れた! でもこっち、ちょっと指入っちゃったんだよね」
みつみの画面には、青い湖と緑の木々、それから左下に大きく写り込んだ指先があった。佳奈子は思わず吹き出した。
「惜しい。もう一回撮ればいいじゃん。……あ、でも、この雲の影があるのは今だけかも」
「そうなの! 同じの撮ろうとしたら、もう違う形になってて」
佳奈子は自分のスマートフォンを取り出し、みつみの隣で構えてみた。縦にすると空が大きく入り、横にすると湖が広く写る。何枚か撮り比べていると、志帆が菓子を食べ終えて近づいてきた。
「そちらの方が対岸まで入るのね。少し位置を変えたら、右側の木も収まるかしら」
「志帆も撮る? ほら、この辺立つといい感じだよ」
佳奈子が場所を譲ると、志帆は画面を確かめながら首を傾げた。最初は少し控えめに撮っていたのに、構図が気になり始めたらしく、今度は膝を折って水面の反射を入れようとする。
「……あと少し低い方がいいのだけれど、これ以上しゃがむと枝が入るのよね」
「分かる。私もさっきそれで悩んだ。ちょっと左から撮ってみたら?」
「そうね。……あ、こっちの方が好きだわ」
志帆が満足そうに画面を見せると、佳奈子は「いいじゃん」と頷いた。みつみも二人の間から覗き込み、写真の端に写る水辺の石が気になったらしい。今度はそこへ行ってみたいと言いかけたところで、千尋がむくりと起き上がった。
「……あれ、みんな何してるの?」
「写真大会。千尋も写る?」
「寝起きの顔で?」
「じゃあ後ろ姿にしよ。湖見てるところ、撮りたい」
佳奈子が言うと、千尋は笑いながら立ち上がった。水際から少し離れたところで立ち止まり、湖へ顔を向ける。佳奈子が撮った写真には、夏の空と水面、その手前で髪を風になびかせている千尋が収まった。
「見て。これ、結構よくない?」
「おお、なんかちゃんとしてる。私、普通に立ってただけだけど」
「普通にしてるのがいいんだって」
佳奈子はそのまま湖だけの写真も何枚か撮った。最後に四人で撮ろうという話になり、スマートフォンを立てかけてタイマーを設定する。みつみがちょうど足元の葉を拾おうとした瞬間にシャッターが切れ、確認すると一人だけ下を向いていた。
「ちょっと、みつみ!」
「ごめん! この葉っぱ、形が変だったからつい!」
「撮り直そっか。……でも、最初のも残しとくね」
「えー!」
笑いながら撮った二枚目は、全員ちゃんと前を向いていた。佳奈子はどちらも四人のチャットへ送ったあと、敷物へ戻って伸びをする。歩き回ったわけでもないのに、こんなに写真が増えているのがおかしかった。
千尋はお茶を飲み直し、今度は水際の小石を拾って眺め始めた。みつみも隣へしゃがんだが、二人が何か話している間に、佳奈子は荷物から別の菓子を出していた。志帆は写真を見比べながら、さっき撮った一枚だけをお気に入りに入れている。
四人とも同じ場所にいるのに、見ているものはばらばらだった。だからといって、誰かが置いていかれるわけでもない。気になるものがあれば呼ぶし、そうでなければ好きに過ごす。そのうち誰かが違う話を始めて、また四人の会話になる。
「ねえ、そろそろちょっと歩かない?」
佳奈子が菓子の袋を畳みながら言った。
「ずっと座ってたら、なんか身体が固まってきた。あっち、木が少なくて湖がよく見えそうだし、少しだけ行ってみたい」
「いいね。私も道の続き、ちょっと見たかった」
千尋がすぐに立ち上がる。みつみは拾った石を元の場所に戻し、志帆もスマートフォンをしまった。荷物をまとめて装備を確かめると、四人は湖沿いの踏み跡をゆっくり歩き始めた。
◇
「あれ。あそこの木、何か赤いのついてない?」
佳奈子が立ち止まったのは、木々の間隔が少し広くなった場所だった。周囲より枝が低い一本の木に、丸い赤色の実がいくつもぶら下がっている。
「リンゴ……じゃないよね。桃っぽい毛もあるし」
みつみが枝の下へ回り込んだ。赤い実は手のひらに収まるくらいの大きさで、丸いのに上の方だけ少し尖っている。
「ダンジョンフルーツってやつかな。私、これ見たことない」
千尋が言うと、志帆は葉の形を見比べながら頷いた。
「私も知らない種類だわ。採取できるかもしれないけれど、食べていいかは分からないから、そこは慎重にね」
「分かってるって。……でも、かわいいね、これ。写真撮りたい」
佳奈子は一本の枝へスマートフォンを向けた。赤い実が葉の影に隠れると、千尋が横から枝を軽く支えてくれる。撮れた写真をみつみに見せながら、佳奈子は少し先の木立へ目を移した。
「そういえば、さっきからこういう、木がまばらになってるところ何か所かあったよね。あっちにも果物があったりして」
「見てみようよ!」
みつみの返事に、佳奈子も笑って歩き出した。次に見つけた木には黄色い実がなっていて、その少し先では紫色の実が枝を重そうに揺らしていた。色は違っても丸い形と細かな産毛はよく似ている。千尋が届く範囲から一つずつ採り、みつみは並べたときの色合いに喜んだ。
「すごい、三色! 果物なのに、なんか宝石みたい」
「この黄色いの、光の当たり方で少し透けて見えるのね。赤い方とは葉の形も違うし、帰ったら調べてみたいわ」
志帆が写真を撮る横で、佳奈子はもう少し先を見た。湖へ戻る道との分かれ目に、ほかより明るい木立がある。近づいてみると、薄青色の果実が低い枝に揺れていた。
「こっちにもあった。四色目!」
佳奈子が手を振ると、みつみが弾むように近づいてきた。千尋も薄青い実を一つ採り、四つを並べて眺める。
「なんか、セットっぽいね。こんなに色違いがあるなんて」
「せっかくだから、並べて写真撮ろうよ。あそこの平らな石、ちょうどよくない?」
佳奈子が選んだ石の上へ、四つの果実をそっと置く。赤、黄、紫、薄青。色を見比べながら位置を変えていると、頭上から小さな鈴のような音がした。
「……ん?」
見上げた枝の間から、淡い緑色の光が降りてくる。その中心には、掌ほどの小さな人影があった。葉を重ねたような服を着て、背中には透き通った羽が生えている。
「えっ、妖精!?」
みつみが声を上げると、妖精は四人の周りを一度飛んでから、石の上の果実を指さした。嬉しそうに両手を伸ばし、何度も頷いている。
「……これ、欲しいのかな」
「たぶん。せっかく集めたけど、あげてみる?」
佳奈子が言うと、千尋は頷いた。みつみも「どうぞ」と石から一歩下がり、志帆は妖精の動きをじっと見つめた。
妖精が果実へ手をかざすと、四つがふわりと浮き上がった。小さな光に包まれ、色が溶け合うように消えていく。妖精は満足そうに一回転すると、今度は四人へ向けて羽を大きく広げた。
柔らかな風が円を描いて通り過ぎる。強い風ではないのに、身体の周りだけ空気が少し違って感じられた。
「……今、何か起きた?」
志帆がスマートフォンを確認し、ぱっと顔を上げた。
「風耐性が上がっているわ! 見て、バフが付いてる!」
「ほんとだ。私も!」
みつみが画面を覗き、千尋と佳奈子も顔を見合わせる。妖精は四人へ小さく手を振ると、葉の間へ溶けるように消えていった。
「……ねえ、これさ」
千尋が、さっき来た森の奥を振り返った。
「果物集めて風耐性のバフもらってから、ストームオウルと戦う流れだったんじゃない?」
「……あっ!」
みつみの声に、佳奈子が吹き出した。
「絶対その方が楽だったじゃん! ボス倒したあとに見つけちゃったんだ」
「仕掛けとしては、そういう可能性が高そうね。あの風に対抗するための効果なら、筋は通るもの」
志帆はもう一度果実を置いていた石を見て、楽しそうに続けた。
「でも、私たちが先にボスを倒したから気づけたことでもあるわね。このバフ、次に試すなら――」
「うん、試すのはまた今度でいいんじゃない?」
佳奈子が笑いながらスマートフォンを見せた。画面には果実の横でこちらを向いている、小さな妖精の写真が残っている。
「今日はこれ撮れたし。私、もう十分満足」
「すごい、ちゃんと写ってる! あとで送って!」
「もちろん。……あ、先に湖に戻ろっか。お菓子まだ残ってたよね」
四人は果樹の間を振り返りながら、来た道をのんびり引き返した。
◇
湖へ戻ると、木陰はさっきより少し長くなっていた。
四人は敷物を広げ直したが、今度は誰もすぐに食べ物を出さなかった。佳奈子は撮ったばかりの写真を並べ替え、志帆はその隣で妖精の一枚を拡大している。千尋は靴を脱いで座り、みつみは持ち帰った大羽を袋の上から触っていた。
「今日さ、ボス戦のあとに妖精って、順番逆なのが面白いよね」
千尋が笑うと、佳奈子は画面から顔を上げた。
「でも私、先にボス倒してよかったと思う。あれを先に見つけてたら、フルーツ探しも『ボス戦の準備』になってたかもしれないじゃん。今日は別に何か攻略しようと思って歩いたわけじゃないし」
「確かに。写真撮りたくて寄っただけだったもんね」
みつみが頷くと、志帆もスマートフォンを置いた。
「私は、どちらの順番でもきっと楽しめたと思うわ。でも、知らないものがまだ残っていたのは嬉しいわね。何度も来た森なのに、今日初めて見たんだもの」
「うん。私はあの妖精、また会いたいな。……あ、そうだ、写真もう一回見せて!」
「さっき送ったってば」
「そっか。じゃ、自分ので見る!」
みつみはチャットを開き、佳奈子が送った写真を指で拡大した。その横では千尋が再び目を閉じ、志帆は湖の向こうをぼんやり眺めている。佳奈子も写真を見終えるとスマートフォンを伏せ、残っていた菓子の袋を開いた。
「これ、いる人?」
千尋が目を閉じたまま片手を上げた。みつみはすぐに二つ取り、志帆も一つ受け取る。誰も急いで食べようとはせず、湖の音を聞きながら少しずつ口へ運んだ。
風が吹くと、木の葉がひっくり返って明るい裏側を見せる。岸に小さな波が届き、すぐに引いていく。佳奈子はその様子をしばらく眺め、それから何気なく言った。
「……なんか、今日ずっとここにいられる気がする」
「分かる。でも帰らないと、帰りのアイス食べられなくなるよ」
千尋が目を開けずに答えた。佳奈子は笑って立ち上がり、敷物の上に残った包みを集める。
「それは困る。じゃあ、そろそろ帰ろっか」
片づけを終えて歩き出しても、四人の話題はなかなか一つに定まらなかった。妖精の写真がかわいく撮れているとか、マフィンの次の具は何がいいとか、千尋が昼寝している間に志帆の写真が増えすぎたとか。みつみは一度、来た道を振り返ったが、すぐ隣で始まったアイスの話に加わった。
「私、桃のやつがあったらそれにする!」
「さっきの果物に引っ張られてない?」
「引っ張られてる!」
佳奈子が笑い、千尋もつられて笑った。志帆はどの味にするか少し考えてから、「お店を見て決めるわ」と答えた。
木々の向こうに湖が見えなくなっても、四人はまだ、帰りに寄る店の話をしていた。




