第117話 4人から4人へ
七月も半ばを過ぎ、夏休みまであと数日になった。
部室の窓は開いていたが、風が吹いても大して涼しくはならない。廊下の向こうでは誰かが椅子を引く音がして、窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてくる。机の端には三者面談の案内が四人分置かれていて、志帆が自分のプリントへ書き込んだ時間を、もう一度確かめていた。
「見てください、これ! 入口で撮ったやつと、ゴールの手前で撮ったやつです!」
蘭々が差し出したスマートフォンに、みつみと佳奈子が顔を寄せた。石造りの門を背に並んだ四人と、浮遊する足場の前で拳を突き上げている四人。特に後の写真は、絵美里まで驚いた顔になっている。
「こっち、いいね。紗希ちゃん、なんでこんなに気合い入ってるの?」
「クリアしたんで、つい。絵美里にはちょっと怒られましたけど」
「怒ってないって。横でいきなり腕上げたから、びっくりしただけ」
絵美里が笑いながら写真を拡大する。その横で瑞穂は、途中で足場の位置を間違えて入口の方へ戻ってしまった話をした。蘭々が「でも、おかげで別の道が見つかったんです!」と付け加えると、みつみは羨ましそうに画面を覗き込む。
「それ、面白そう! 私も動く足場に乗りたかったな。絵美里ちゃん、次に行ったら違う動かし方も試す?」
「はい。ちゃんとクリアできたので、今度は気になったところをもう少し見て回りたいです。あの仕掛け、まだ分かってない動きがあると思うんですよね」
「それなら、次に写真を撮るときは動かす前もお願いできる? どう変わったのか、並べて見てみたいわ」
志帆も興味を隠さずに身を乗り出す。絵美里が「了解です」と頷くと、千尋はもう一枚の写真を指した。
「で、紗希ちゃんはこっちだね。《ウォークライ》、使ってみてどうだった?」
「めっちゃ良かったっす。あれ、叩いたときの手応えが違うんですよ。ただ、瑞穂が横から来る敵を教えてくれなかったら、ちゃんと当てられたか分かんないですけど」
「紗希先輩がすぐ動いてくれたからですよ。私、見えたことを言うので精いっぱいでした」
「その声がありがたかったんだって。次も頼むよ」
紗希が笑うと、瑞穂は少し照れたように頷いた。千尋も楽しそうに話を聞いている。誰に指示されたわけでもなく、四人が自分たちで見て、試して、失敗して、もう一度やってきたのだろう。話の端々から、それが伝わってきた。
「そうだ、瑞穂、ララ。二人にちょっと相談していい?」
絵美里が声をかけると、二人はスマートフォンから顔を上げた。
「私たちのパーティーって、遠距離攻撃ができる人がいないでしょ。だから二人も、弓とかクロスボウとか、そういう武器を考えてみない?」
「弓ですか。私も攻撃してみたいとは思ってましたけど、使えるかな……」
瑞穂が少し考え込むと、蘭々も興味を示した。
「私は弓も格好いいと思います! でも、近くに来た敵を叩くのも結構楽しかったんですよね」
「二人とも遠距離にするのもありだし、どっちかが近接をやるのもありだと思う。別に今決めなくていいから、いろいろ考えてみようよ」
「そうだね。私もまだ、どれが一番いいか分かんないし」
紗希も横から頷いた。絵美里が笑うと、瑞穂と蘭々は頷いた。二人はさっそく武器の画像を探し始めたが、どちらが何を使うかは、まだ決まりそうになかった。
◇
話がひと段落すると、佳奈子は机の端に置かれた菓子の袋を折り、壁へ視線を向けた。
「あの二枚、ここにも貼ろっか。入口のと、帰りのと。並べた方が面白いし」
「いいですね! 元の画像送ります。きれいに印刷できますよ」
蘭々がすぐに答えた。佳奈子は椅子から立って、写真が貼られた壁の前へ行く。
そこには、初心者向けダンジョンへ通っていた頃の写真もあれば、絵美里が入ってから撮ったものもある。人数が増えて、撮る人が変わって、同じ場所に行っても違う顔が並ぶようになった。いちばん新しい写真の隣には、あと何枚か貼れそうな余白が残っていた。
「なんだか、増えたねえ」
みつみも隣へ来て、少し曲がった一枚を指先で直す。
「最初の頃、こんなに写真なかったよね。ていうか、部室もなかったんだっけ」
「そうだよ。みつみたち、最初は同好会じゃなかったんだから」
千尋は机に頬杖をつき、少し笑った。
「ここ使えるようになったのって、絵美里が同好会にしようって言いだしたからだもんね」
「部室があった方が便利だと思っただけですよ。その方が集まりやすいですし」
絵美里は何でもないことのように言ったが、志帆は壁を見たまま微笑んだ。
「でも、助かったわ。装備の話も、次に行く場所の相談も、ここに来ればできたから。私、放課後に寄るのがいつの間にか当たり前になっていたもの」
「分かる。私も、今日は帰ろうかなって思ってても、ここ来たら誰かいてさ。気づいたら一時間くらい喋ってたこと、何回もあった」
佳奈子はそう言って、写真の端をもう一度押さえた。
「しかも、ダンジョン関係ない話までしてたよね。テストの話とか、コンビニの新商品とか。……いや、結局いつもダンジョンの話に戻るんだけど」
「だって、面白いんだもん」
「それは知ってる」
みつみの返事に佳奈子が笑う。いつもと変わらないやり取りだったが、写真から手を離して席へ戻るとき、佳奈子は部室をゆっくり見回した。
窓際の椅子、机の隅にある菓子の袋、誰かが持ってきてそのままになっているダンジョンの案内。何か特別なものが置いてあるわけではない。それでも、ここに来ればいつもの顔ぶれがいるのが、ずっと普通だった。
志帆のプリントの上で、スマートフォンが小さく震えた。面談時間の確認通知らしい。彼女は画面を見てから、机の向こうにいる四人へ視線を向けた。
「……ねえ、そろそろ、私たちからも話しておこうかしら」
千尋が頷く。みつみも椅子に座り直し、さっきまで見ていた写真から顔を上げた。
後輩たちの会話が自然に途切れたところで、佳奈子が口を開く。
「私たち、夏休み前で同好会の活動を引退することにしたんだ。受験とか進路の準備もあるし、今までみたいに放課後ずっとここにいるのは難しくなるから」
蘭々が少し驚いた顔をした。瑞穂も目を上げ、紗希の手がスマートフォンの上で止まる。絵美里だけは、佳奈子から千尋へ視線を移したまま、すぐには何も言わなかった。
「……今日、ですか?」
「うん。今日で一区切りにしようって、四人で決めたの」
千尋はいつもと変わらない声で答えたが、言い終わってから少しだけ目を伏せた。
「何となく、三年になった頃から考えてはいたんだよね。夏からは忙しくなるし、ここはみんなに任せようって。でも、いざ言うと、ちょっと変な感じ」
窓の外から、ホイッスルの音が聞こえた。
みつみは自分の鞄へ目を落とした。普段なら、そろそろ帰ろうという時間になっても、誰かが次のダンジョンの話を始めて、つい居残ってしまう。今日もそんなふうに終わるつもりでいたのに、千尋の言葉を聞くと、急にこの部屋の見え方が少しだけ変わった。
「……なんか、寂しくないって言ったら嘘になるかも」
みつみが小さく笑う。
「でもね、ダンジョンへ行くのやめるわけじゃないんだよ。私、まだ行きたいところいっぱいあるし。だから、同好会は引退するけど、ダン活はこれからも普通にやるつもり!」
「それ、引退って言うんですか?」
紗希の思わず出た声に、千尋が笑った。
「学校の活動は引退するってこと。紗希ちゃんたちはここで続けてよ。あ、別に私たちが決めることでもないか。もう自分たちで次の場所、相談してたもんね」
「……はい。でも、先輩たちがいなくなるのは、やっぱりちょっと寂しいです」
瑞穂の言葉は、静かだった。いつもならあれこれ理由を考えてから話し始める彼女が、今はまっすぐ四人を見ている。
「骨橋も、蔵安も、最初は一人じゃ行けなかったので。先輩たちと一緒に行けて、すごく楽しかったです」
「私もです!」
蘭々が続け、少し照れたように笑った。
「最初、記事の写真見て楽しそうだなって思っただけだったんですけど。本当に来たら、思ってたよりずっと面白くて。……だから、もっと一緒に行きたかったです」
「行こうよ。時間が合えば、普通に行けるでしょ」
佳奈子はすぐに答えた。
「ここに毎日来なくなるだけで、連絡できなくなるわけじゃないし。それに、私たちがいない日でも、四人でちゃんと楽しめてたじゃん。あの写真、すごくいい顔してたよ」
蘭々がスマートフォンを見下ろす。入口とゴール前の二枚がまだ画面に並んでいた。
絵美里はその写真を横から見て、ようやく顔を上げた。
「……私、同好会にしようって言ったときは、こんなふうになると思ってませんでした」
思いがけない言葉に、みつみが首を傾げる。
「どんなふう?」
「もっと、攻略を中心に活動すると思ってたんです。部室があって、予定をきっちり決めて、効率よく進めて……そういう方がいいと思ってましたし。でも実際は、次の場所を決めるだけで盛り上がったり、装備を見に行ったのに全然違う話をして帰ったり」
絵美里はそこで少し笑った。
「私、今はそっちも好きなんですよね。もちろん攻略も好きですけど、この前の鳴田南だって、また行きたい理由はクリアのためじゃなくて、あの足場をもっと動かしたいからですし。……だから、これからも続けたいです。私たち四人で」
「うん。それでいいと思う」
千尋は頷いた。何か助言を付け足そうとして、やめた。絵美里の言葉だけで十分だったし、何より、その続きを四人が自分で決めていくのを聞いている方が楽しそうだった。
「……あのさ、ちょっとだけ、言っていいですか」
紗希が姿勢を正した。
「先輩たちともっと一緒に潜りたかったのはマジです。でも、自分ら四人で行くのもすげえ楽しかったっす。だから次も、ちゃんと自分たちで行ってきます。……あ、もちろん先輩たちともまた行きたいんで、そのときはよろしくお願いします!」
「こちらこそ!」
みつみが笑って返し、千尋も「うん、楽しみにしてる」と頷いた。
志帆は少し考えてから、絵美里へ顔を向けた。
「私からも一つだけ。新しい仕掛けを見つけたら、また話を聞かせてほしいわ。分からないところも、面白かったところも。私が一緒に行けなくても、そういう話を聞くのは好きだから」
「はい。……あの、私も先輩にいろいろ聞いていいですか。装備のこととか、まだ分からないことも多いので」
「ええ。私に分かることなら」
志帆は一度答えかけて、ほんの少し言い直した。
「……分からないことなら、一緒に調べましょう」
絵美里は目を細めて笑った。志帆も笑い返し、机の上のプリントを揃えた。
佳奈子は壁に残った空き場所を指した。
「じゃあさ、蘭々ちゃん。さっきの二枚、ここに貼ってね。今までもいろんな写真貼ってきたけど、これからはみんなが行った場所の写真が増えるんだろうし」
「はい! あの、先輩たちのもそのままでいいですよね?」
「もちろん。私、結構気に入ってるから」
佳奈子はさらりと答えた。けれど、それだけでは足りない気がして、もう一度写真へ目を向ける。
「……あとで見に来たとき、知らない写真が増えてたら楽しそうじゃん」
その言葉に蘭々が嬉しそうに頷き、瑞穂も壁を見上げた。紗希は「じゃあ今度こそ、もっと格好よく撮ってもらわなきゃな」と言い、絵美里から「次は急に動かないでよ」と返される。
みつみは笑いながら、その四人のやり取りを聞いていた。
自分たちの写真の隣に、後輩だけで撮った写真が増える。次にここへ来るとき、その隣にはまた別の一枚があるかもしれない。そう考えると、さっきまで少し寂しかった部屋が、今度は楽しみな場所に見えてきた。
◇
「……あ、やば。そろそろ戻らないと」
千尋が時計を見た。三者面談の時間が近づいている。四人はそれぞれ鞄を開き、必要なプリントを確かめ始めた。
「みつみ、今日の資料持ってる?」
「持ってるよ! ……あれ、どこ入れたっけ」
「その外ポケット、さっき入れてたでしょ」
「ほんとだ。危なかった」
みつみは紙を引き抜き、今度こそなくさないように鞄の内側へしまった。佳奈子は残っていた菓子を蘭々に渡し、志帆は開いた窓際に置いていた自分の荷物を取る。
部室を出ようとしたところで、絵美里が立ち上がった。
「あの、先輩たち」
四人が振り返る。
「……今まで、ありがとうございました。ここでみんなと一緒に活動できて、本当に楽しかったです」
あらたまった声だったが、絵美里らしく、まっすぐな言葉だった。
「こちらこそ。絵美里ちゃんが来てくれて、私たちもすっごく楽しかったよ」
みつみが答える。続けて千尋が何か言おうとすると、蘭々が立ち上がり、先ほどの写真を持ったまま笑顔を見せた。
「先輩たち、また部室にも遊びに来てください! 写真、貼っときますから!」
「うん。絶対見に来る!」
みつみの返事につられて、全員が笑った。
志帆は扉のそばで一度だけ振り返り、壁の写真を見た。たくさん並んだ中に、自分が写っているものもあれば、いないものもある。これからは、写っていない写真の方が増えていくのだろう。それを残念に思う気持ちはあったけれど、まだ見たことのない景色が増えていくのも、やっぱり楽しみだった。
「じゃあ、またね」
佳奈子が手を振り、四人は部室をあとにした。
扉が閉まる直前、背後から蘭々の「どっちを上に貼ろうかな」という声が聞こえた。瑞穂が何か答え、紗希も口を挟む。いつもと変わらない賑やかさが、廊下へ少しだけ漏れてきた。
階段へ向かって歩き始めたところで、みつみがぽつりと言った。
「……ほんとに引退しちゃったね」
「うん。なんか、思ってたよりあっさりだったな」
千尋は鞄の肩紐を直しながら笑う。ただ、そのまま続けた声は少し柔らかかった。
「でも、あの四人、もう次どこ行くか話してたもんね。あれ見たら、何か大丈夫って思った」
「そうね。……私、少し名残惜しいけれど、後悔はないわ」
志帆も頷いた。
「私はまた、あそこでお菓子食べたくなるかも」
佳奈子の言葉に、みつみが笑う。
「行けばいいじゃん! 写真も見たいし。ていうか私、まだあの浮遊足場も気になってる!」
「それは今度、絵美里たちに聞けばいいでしょ。それより、私たちの夏休みもちゃんと考えないと」
「分かってるって。……あ、私、夏休みの予定表にダンジョンって書いたままだ」
「日付入ってないんでしょ?」
「入ってない!」
四人が笑った。
いつもの部室には、もう毎日のようには通わない。それでも、隣にいる顔ぶれは変わらず、話題も結局ダンジョンへ戻ってくる。
次の階段を上がる前に、佳奈子がスマートフォンを取り出した。
「面談終わったら、みんなの空いてる日だけでも送っておこうか」
「賛成!」
みつみの声が少し先へ弾み、千尋と志帆もその後を追った。廊下の窓から入る夏の光が、四人の足元へ長く伸びていた。




