第115話 受験生、ダンジョンは別腹
六月も終わりに近づき、部室の窓から入ってくる風には、もうあまり涼しさがなくなっていた。
普段なら八人で囲む机を、今日は三年生の四人だけで使っている。少し前まで、誰かが飲み物を置く場所を探していたのが嘘のように広い。志帆が大学の案内を二冊並べても、佳奈子のお菓子の袋をどかす必要はなかった。
「これ、どこまで書くんだっけ」
千尋が学校から配られた進路関係のプリントを持ち上げる。隣でスマートフォンを見ていた佳奈子は、手を止めずに答えた。
「それは夏休みの予定を書くやつ。進路希望の方は別にあるよ。ほら、同じ日に配られた薄い方」
「ああ、そっちか。用紙が増えてきて分かんなくなるね。家でもう一回、まとめとこ」
「私も。提出する方と、確認だけの方を分けておかないと、絶対どれかなくす」
佳奈子はそう言いながら、スマートフォンのメモにプリントの名前を打ち込んだ。机の向こうでは、みつみが鞄から折り目のついた紙を出している。
「私は先に、これ出さなきゃ。こないだ持ってくるの忘れててさ。専門学校の資料はちゃんと見たんだけど、学校に出す方が残ってた」
「それは逆じゃない?」
千尋に笑われ、みつみは「分かってるって」と紙を広げた。余白には自分で書いた小さな丸印がいくつもある。何を確かめたのか忘れないようにしたらしいが、途中から丸が増えすぎて、かえって分かりにくくなっていた。
志帆はその紙をちらりと見て、手元の案内冊子を閉じた。
「夏休みが終わったら、出願の準備も本格的になるわね。学校によって日程が違うから、間違えないようにしないと」
「願書って、夏休み明けに出すんだっけ?」
みつみが尋ねると、志帆は首を少し傾けた。
「早い時期に出願する方式もあるけれど、一般入試はもっと先でしょう。私もまだ方式を絞りきっていないから、日付はそれぞれ確認しているところよ」
「私も体育大の候補を比べてる途中。学科だけじゃなくて、選考の内容も学校によって違うみたいだし。夏休みに実際に見に行けたらいいんだけどね」
千尋が話すと、みつみは自分の資料の表紙を見て、少し得意そうに笑った。
「私が考えてる専門学校は、書類と面接が中心なんだって。筆記試験がないなら、みんなより楽なのかなって一瞬思ったんだけど、面接って何聞かれるんだろ。ずっと喋るのも緊張しそうじゃない?」
「みつみの場合、聞かれたことに答え終わっても、料理の話を続けそうだけど」
佳奈子の言葉に、千尋が笑った。
「『何を作るのが好きですか』とか聞かれたら、制限時間いっぱい使いそう」
「そこはちゃんと答えるよ! でもさ、実習で何を作れるのかとか、使う道具とか、聞いてみたいことはいっぱいあるんだよね。面接って、私からも質問していいのかな」
「学校への質問ができる時間もあるでしょうけど、まずは聞かれたことに答えましょうね」
志帆が笑いながら言うと、みつみは素直に頷いた。佳奈子はお菓子を一つ口へ運び、今度は志帆が閉じた冊子に目を留める。
「志帆は志帆で、まだ決めきれてないんでしょ。こないだも学部の中身が結構違うって言ってたよね」
「ええ。調べれば調べるほど面白そうなものが増えるのよ。絞るために見ているはずなのに、候補が増えてしまって」
「ダンジョンの装備選びと一緒だ」
千尋がそう言うと、志帆は苦笑した。
「自覚はあるわ。ただ、今回は買って試すというわけにはいかないものね。だから余計に悩むの」
そこだけは、いつもの志帆と少し違っていた。面白そうなものを見つければ、すぐ詳しく調べて楽しんでいた彼女が、画面に並んだ候補を前にしても簡単には決められないでいる。みつみは一度自分の紙を置き、志帆の方へ顔を向けた。
「見学に行ったら、今より選びやすくなるんじゃない? 私だって実習室を見たら、ここ行きたいって思うかもしれないし」
「そうね。まず自分の目で見てから、というのは大事かもしれないわ」
志帆が微笑むと、みつみも笑って紙へ視線を戻した。四人の間にはしばらくペンを動かす音が続き、開けた窓の外からは運動部の掛け声が聞こえてきた。
「……高校生最後の夏休みかぁ」
ふいに千尋が呟いた。配られた予定表の、一番上に大きく書かれた『夏季休業』の文字を眺めている。
「そう言われると、急に特別な感じがするね」
みつみが笑うと、佳奈子は予定表を横から覗き込んだ。
「特別なのに、予定の欄が夏期講習と勉強で埋まってくの、あんまり嬉しくないなあ。私、講習どれにするかもまだ迷ってる」
「私もよ。行った方がいいとは思うのだけれど、自分で進めたいところもあるし、全部入れてしまったらほかのことができなくなるでしょう」
志帆はそう言ってから、少し肩を落とした。
「……今のうちから、受験勉強に追われてる気がするわね」
「志帆がそれ言うと、なんか安心する」
千尋の言葉に志帆は顔を上げる。
「どういう意味?」
「いや、志帆って何でも計画どおりにやれそうに見えるから。私もまだ全然、予定決まってないんだよ」
「私だって同じよ。決めることが多すぎて、どこから手をつけようか考えているくらい」
言いながら志帆は冊子の上に手を置いた。分厚い資料の角には、色の違う付箋が何枚も顔を出している。みつみがそれを見つめていると、佳奈子が机の上の予定表を指先で押しやった。
「まあ、全部勉強にする必要もないよね。せっかくの夏休みだし、遊びに行く日くらい欲しい」
「だよね! 私、夏もダンジョン行きたい!」
みつみがすぐ反応する。けれど、次の言葉を出したのは佳奈子だった。
「私も。夏休み中に一回くらい、四人でちゃんと時間取って行きたいな。近場でもいいし、普段よりちょっと遠いところでもいいから」
千尋は自分の予定表から顔を上げた。
「いいね。私も行きたい。最近は後輩と一緒に行くことが多かったし、四人だけっていうのも久しぶりだよね」
「そうね。どうせなら、行ったことがある場所でも、まだ見ていないところを探してみたいわ」
志帆の声が少し弾んだ。佳奈子はそれを聞き、菓子の袋を畳みながら笑う。
「ただし、日程はちゃんと見てからね。勢いで決めて、講習と重なったら困るから」
「分かってるよ。……でも、一日くらい空いてるでしょ、きっと」
みつみがカレンダーを開こうとすると、千尋が「今日は候補だけでよくない?」と声をかけた。まだ誰の夏の予定も出そろっていない。みつみは少し名残惜しそうに画面を閉じたが、すぐに別の写真を開いた。
「あ、そうだ。この前の狩造の写真、みんな見た?」
「見た見た。蘭々ちゃん、水辺の写真すごく送ってくれたよね」
佳奈子は自分のスマートフォンでもアルバムを開いた。瑞穂が見つけた中洲から撮った一枚には、浅い水路の向こうで紗希が手を振っている。少し離れたところには、撮影されたことに気づいていないみつみの後ろ姿も写っていた。
「いつの間に撮ったんだろ、これ。私、全然知らなかった」
「そのとき、あっちの石のところ見てたでしょ。蘭々ちゃん、何枚も撮ってたよ」
千尋が答えると、みつみは写真を拡大して笑った。志帆も覗き込みながら、一枚先の写真へ目を移す。
「そういえば、帰ってから二人ともLV3になったって連絡が来ていたわね。瑞穂ちゃんは《フォーカス》、蘭々ちゃんは《キュアポイズン》だったかしら」
「うん。休憩のときはまだLV2だったんだけど、ゴールまで行ってから確認したら上がってたんだって。二人とも、次は使えるスキルが増えたって喜んでた」
佳奈子が言うと、千尋は瑞穂から届いたメッセージを探した。
「瑞穂ちゃんの《フォーカス》、前衛には嬉しいよね。集中力が上がって、攻撃を当てやすくなったり、敵の動きに反応しやすくなったりするんでしょ。絵美里も紗希ちゃんも助かると思う」
「特に紗希ちゃんね。あの子、目の前の敵を見たら、思いきり殴りに行きたいタイプだもの。少しでも動きに余裕ができるなら、使いがいがありそう」
志帆が笑う。みつみは写真に写った紗希の革製防具を眺め、今度は両手で拳を握った。
「防具も格好よくなったしね! 絵美里の盾が前でどんって受けて、その横から紗希ちゃんがばーんって行くの、見てて気持ちよかった。あ、でも、紗希ちゃんの《ウォークライ》ってまだ使ってないんだよね」
「狩造のときも使ってなかったね。そういえば」
「攻撃力が『大幅に上がる』って、実際どんな感じなんだろ。今でも思いっきり振ってるのに、もっと強くなるんだよね?」
みつみはメイスを振る真似をしかけ、途中で机の上の資料を見て両手を下ろした。志帆は《ウォークライ》の説明が載った画面を確認し、すぐに閉じる。
「そこは、実際に使ってみないと分からないわね。説明には攻撃力が大幅に上がるとあるけれど、どういう場面で使うのが一番いいのかも気になるわ」
「紗希ちゃん、早く試したそうだったよ。防具は動きにくいところを調整してもらうって言ってたし、次はますます楽しみなんじゃない?」
佳奈子の言葉に、千尋が頷いた。
「そうだね。絵美里も頼もしいよ。前で受けるだけじゃなくて、周りをちゃんと見て動いてるし。紗希ちゃんが思いきって攻められるのも、絵美里がいるからってところあると思う」
「うん。瑞穂ちゃんも、見つけたことを自分から言えるようになってきたしね。こないだだって、私より先にカエルに気づいたんだよ」
みつみが言うと、千尋は「それ、ちょっと悔しい?」と笑った。
「ちょっとね。でも嬉しかった! ああいうの見つけるのも楽しそうだなって思ったし」
四人はもう一度写真を眺めた。後輩たちはまだ経験の浅いところもあるが、絵美里の盾、紗希の前衛、瑞穂の状況把握と支援、蘭々の回復が揃っている。千尋は指先でその四人を数え、それから少し考え込んだ。
「立ち回りがうまくいけば、あの四人だけでも中級者向けに挑めそうな気はするよね」
「えっ、もう?」
みつみが目を丸くする。千尋はすぐに首を振った。
「今すぐ行けって話じゃないよ。ただ、絵美里の経験もあるし、紗希ちゃんの攻撃力もあるでしょ。瑞穂ちゃんのスキルで周りを見やすくなって、蘭々ちゃんが回復を受け持ってくれるなら、ちゃんと連携できたときは強そうだなって」
「うまくはまれば、ね。絵美里ちゃんと紗希ちゃんには頼もしさがあるけれど、瑞穂ちゃんとララはまだ経験を積んでいる途中でしょう。想定外のことが起きたとき、落ち着いて立て直せるかは別の話だと思うわ」
志帆はそう言って、四人の写った写真をもう一度見た。
「それに、中級者向けは脱初心者向けと同じ感覚では歩けないもの。あの四人ならどうするか、興味はあるけれど……だからといって、すぐ挑戦してほしいとは思わないわね」
「それは私もそう思う。二人はまだダンジョンに慣れてきたところでしょ。まず四人で好きなところへ行ってみて、それから考えればいいんじゃない? 私たちが中級へ行けるって言っちゃうと、無理して挑戦したくなるかもしれないし」
佳奈子は頷き、写真を閉じた。
「それはそうだね。行くならちゃんと相談して、無理そうなら引き返すことも考えてほしい。私たちが先に行き先まで決めることじゃないけどさ」
千尋はそう言って、スマートフォンを伏せた。みつみも写真を閉じかけたが、最後にもう一枚だけ眺める。
「じゃあさ、あの四人が次にどこ行くか、楽しみにしとこうよ。絵美里も紗希ちゃんも、瑞穂ちゃんたちと一緒だとまた違う遊び方するかもしれないし」
「それは間違いないでしょうね。帰ってきたら、どんなものを見つけたのか聞いてみたいわ」
志帆が笑ったところで、佳奈子は開いたままの予定表を手元へ引き寄せた。ダンジョンの写真の下には、さっき中途半端に書いた夏期講習の候補が並んでいる。
「さて。じゃあ私は、こっちをもう少しやっとこ。今日中に、講習の候補だけでも決めたいし」
「えー、もうダンジョンの話終わり?」
「終わりじゃないよ。私は今、こっちの予定を決める方が大事。夏休みに遊びに行く日も空けたいしね」
そう言われると、みつみも少し考えてから、自分のプリントを取り直した。千尋は夏休みの欄に何かを書き込み、志帆は閉じていた案内冊子をまた開く。
誰も喋らない時間が、しばらく続いた。
やがて、みつみのペンが止まる。
「ねえ、夏に四人で行くなら、やっぱり涼しいところがいいかな?」
「……まだ予定表見てたの?」
佳奈子が顔を上げると、みつみは少し悪びれたように笑った。
「ちゃんと書いてるよ。でも、ダンジョンなら涼しいところもあるじゃん。ほら、地下の方とか!」
「涼しいかどうかは場所によると思うけど、悪くないね」
千尋が乗ると、志帆まで何か思いついたらしく顔を上げた。佳奈子は三人を見回して小さく笑い、もう一度予定表へ目を落とす。
「とりあえず、空いてる日があるか確かめてからね。行き先で盛り上がって、肝心の日に誰も行けなかったら困るから」
「はーい」
みつみは返事をしながら、予定表の端に小さく『ダンジョン』と書いた。まだ日にちは入っていない。それでも、夏休みの欄には、少し楽しみな予定が一つ増えたような気がした。




