第106話 進路希望と同行希望
三学期が始まって最初の週。教室の窓際は日差しが暖かいのに、廊下側の床はいつまでたっても冷たかった。
「うわ、あった」
朝のホームルームが始まる少し前、みつみは鞄の底から一枚の紙を引っ張り出した。冬休み前に配られた進路希望調査票だ。クリアファイルに入れたつもりが、折り目のついたプリントに挟まっていたらしい。
「なくしたかと思った。昨日の夜、探したときはなかったのに」
「探し方が悪かったんでしょ。提出する前に見つかってよかったじゃん」
千尋は自分の調査票を机の上に置き、鞄から筆箱を取り出した。記入欄にはすでに文字がある。
「え、千尋、書いたんだ」
「書いたよ。初詣のときはまだだったけど、さすがに提出日までにはね。みつみも書いてあるじゃん」
「書いたのは書いた。けど、これでいいのかなって何回も見ちゃった。しかも見直してたら、いつの間にか違うサイト開いてるし」
「またカステラ?」
背後から佳奈子が口を挟んだ。みつみが振り返ると、佳奈子はコンビニの袋から小さなパンを取り出している。
「違うよ! ……まあ、途中でレシピは見たけど」
「やっぱり。あれから作ったの?」
「まだ。うちにたこ焼き器あるか聞くところで止まってる」
「その段階なら、まず家で聞きなよ」
千尋が笑う。みつみは言い返しかけたが、紙の端から何かが覗いていることに気づき、そちらを引き抜いた。
初詣で持ち帰った末吉のおみくじだった。
「あ、これもここに入れてたんだ。『旅は焦らず』。……進路も焦らなくていいかな」
「提出は今日だから、そこは焦ろうね」
佳奈子がパンの袋を閉じ、隣の席へ腰を下ろす。みつみは慌てて調査票を広げた。
希望する進路の欄には、昨夜書いた文字が残っている。
『調理師の専門学校』
その文字を眺めていると、志帆が登校してきた。彼女は窓際の三人に挨拶し、コートを脱いでから、みつみの机の上へ目を留めた。
「進路希望調査? ああ、今日だったわね」
「志帆は書いた?」
「昨日、ようやく。書く前にいろいろ見比べ始めたら、かえって決めづらくなっちゃった」
「志帆でもそうなるんだ」
「なるわよ。選ぶものが増えれば、それだけ気になることも増えるもの」
志帆は自分の席へ行き、鞄から透明なファイルを出して一度中を確かめた。調査票が入っているのを見ると安心したようにファイルを閉じたが、その直後、また開いて一行だけ読み直している。
「今、二回確認したでしょ」
千尋が指摘すると、志帆はわずかに視線を逸らした。
「……気になっただけよ」
始業の予鈴が鳴った。佳奈子はパンを袋へ戻し、みつみはおみくじを鞄へしまう。調査票だけは、今度こそ机の一番上へ置いた。
◇
昼休み、教室には弁当の匂いと、あちこちで交わされる会話が広がっていた。
朝のホームルームで調査票は無事に回収された。みつみも提出できたが、手元から紙がなくなった途端、書いた内容が少し気になり始めていた。
「ねえ、朝のやつさ。提出したら変えられないわけじゃないよね?」
みつみが弁当の蓋を開けながら聞いた。
「まだ希望調査だよ。今のうちにどっちへ進みたいか考えとこうってやつでしょ」
千尋は箸を持ったまま答え、続けてみつみの顔を見る。
「でも、何か変えたいの? 朝、書いたものすごい見てたじゃん」
「変えたいわけじゃないんだけど、紙に書いて出すと、いきなり本当になったみたいで。私、調理師の専門学校って書いたの」
「あ、そうなんだ」
佳奈子が顔を上げた。
「へえ。みつみ、そういう方向を考えてたんだ。知らなかった」
「私も、みんなにちゃんと言うのは初めてかも。学校とか細かいことは全然決めてないよ。ただ、今の希望はそっちかなって」
「いいんじゃない? 今の希望を書く紙なんだから」
千尋の言葉に、みつみは少し考えてから頷いた。迷っていたことが全部片づいたわけではないが、知らなかったと言われたのは妙に新鮮だった。一年以上、同じ教室で毎日のように話しているのに、まだ聞いていないことがある。
「千尋は? 初詣のとき、まだ書いてないって言ってたよね」
「体育大学。そっちへ行ってみようかなって。今はそんな感じ」
「千尋っぽいって言いたくなるけど、そういうのって言われると嫌?」
「別に嫌じゃないよ。私も自分でそう思うし。ただ、何を勉強するかとか、どこに行くかまではこれから。調べると結構いろいろあるんだよね」
千尋はそこで箸を置き、スマートフォンに保存していた大学の案内画面を見せた。大学ごとに並ぶ項目を眺めながら、みつみは最初に思いついた疑問を口にする。
「体育大学って、授業でずっと運動してるのかと思ってた」
「それはさすがに違うでしょ。私も最初、何があるのかよく分かってなかったけど」
「そこ、意外と知らない人が多いかもね。私だって、調べるまでそんなに詳しくなかったもの」
志帆は箸を止め、千尋の画面に軽く身を寄せた。
「志帆も大学?」
みつみが尋ねると、志帆は頷いた。
「理系ね。MARCHくらいのところまで視野に入れてるけれど、学部はまだ絞りきれてない。気になる分野がいくつかあって、それぞれ調べてたら時間がなくなっちゃって」
「その調べ方、装備選ぶときと似てない?」
千尋の言葉に、志帆は一度口を閉じた。
「……似ているかもしれないけれど、今回はさすがにもっと慎重に選ぶわ」
「装備のときも、ものすごく慎重じゃん」
「だから、もっとよ」
真顔で答えられ、千尋は笑って箸を取り直した。志帆は少しだけ口元を緩めると、また弁当へ目を戻す。
佳奈子はその間に食べ終えたおかずの容器を片づけていたが、三人の話がひと段落したところで自分から口を開いた。
「私は文系の大学。志帆が考えてるところより、難しさは少し下くらいを見てる。まだ候補を並べてるだけだけどね」
「佳奈子はもう学校まで見てるの?」
「見るだけなら。通学時間とか、近くに何があるかとかも気になるし。毎日行くことになるんだから、そこも大事じゃん」
「それはそうだね。遠いと大変だもん」
「でしょ? だからまだ決められない。気になるところを見つけても、毎朝そこまで通うのかと思うとちょっと考える」
佳奈子は笑って、それから残しておいた卵焼きに箸を伸ばした。千尋が自分の弁当を覗き込んで「それ最後に取ってたんだ」と言うと、佳奈子は「好きなものは最後に食べる派」と返した。
さっきまで進路の話をしていたのに、そこからしばらくは弁当のおかずや、冬休みに見つけた店の話になった。みつみも志帆も、特に元の話題へ戻そうとはしなかった。
食べ終わる頃、千尋が教室の時計を見上げた。
「そういえば、今日、部室行く?」
「行くつもり。エミリンにも会うし、次いつダンジョン行けるか聞きたい」
「私はちょっと寄りたい。帰る前に暖かいところでのんびりしたいし」
佳奈子の返事に、志帆も頷いた。
「じゃあ、放課後はいつもどおりね」
みつみは弁当の蓋を閉めた。今朝提出した紙はもう戻ってこないけれど、午後の授業も、放課後の予定も、いつもの調子で続いていた。
◇
放課後の部室では、絵美里が先に椅子へ座っていた。机の上にはスマートフォンと飲みかけのペットボトルがあり、画面には次に行ってみたいダンジョンの情報が表示されている。
「こんにちは。今日は皆さん、遅かったですね」
「掃除当番だったの。エミリン、先に来てたんだ」
千尋が椅子を引く。
「はい。午前中に話していた場所が気になって、少し見ていました。でも、もうちょっと遠いですね。行くなら休日でしょうか」
「休日かあ。次、みんな揃う日あったっけ?」
佳奈子は鞄を置きながらスマートフォンを取り出した。みつみがその横から予定表を覗き込み、志帆は絵美里の画面のほうへ回る。誰かが始めた話を別の誰かが拾い、すぐに違う話になっていくのは、部室ではいつものことだった。
「そういえば、先輩たちの進路希望調査、今日だったんですか?」
絵美里がふと思い出したように顔を上げた。
「そう。全員、ちゃんと出せたよ」
みつみが胸を張ると、佳奈子が笑う。
「みつみは朝、紙が見つからなくて焦ってたけどね」
「見つかったんだからいいじゃん。エミリンは来年だね、あれ」
「はい。まだ先だと思っていましたけど、皆さんの話を聞くと少し早く感じます」
「進路って、ちゃんと決めるとなると難しいわよ。私も調べ始めたら、知らないことがずいぶん多かったもの」
志帆が答えると、絵美里は彼女の隣へ椅子を少し寄せた。
「先輩、どんなところを見ているんですか?」
「理系の大学。学部はいくつか候補があるのだけれど、まだ絞れていないから……」
志帆が説明を始めると、絵美里は興味深そうに頷いた。みつみはしばらく聞いていたものの、途中から千尋の広げたダンジョンの案内に目を向け、佳奈子も帰りに寄る店を調べ始めた。話題が二つ三つに分かれても、誰も気にしない。
そのとき、部室の扉が軽く叩かれた。
「いる? ちょっといいかな」
三屋田麻陽だった。
顧問にはなっているが、普段の活動で顔を出すことはあまりない。五人はそれぞれの話を止め、扉のほうを見た。
「先生、どうしたんですか?」
千尋の問いに、三屋田は手にしていた紙を持ち上げた。
「学校に、ダン活部宛てで連絡が来てね。外部のWEB媒体から。今ここで返事をもらう話じゃないから、まず内容だけ伝えに来たの」
「WEB媒体?」
志帆が立ち上がり、三屋田の差し出した用紙へ視線を落とした。
そこには『ダンジョン・ウォーカー』の文字があった。
「あっ」
志帆が声を漏らしたのと、みつみが立ち上がるのはほとんど同時だった。
「それ、クリダンで会った人のところじゃん!」
「そういえば、記者だって言ってましたね」
絵美里が続ける。千尋も椅子から少し身を乗り出した。
「あの人? 去年、隣町で会った四人組の人だよね。クリダンでまた会った」
「そうそう。女の人の方!」
三屋田は五人の顔を見回した。
「知り合いなの? だったら話が早いかな。向こうからは、普段のダンジョン活動に同行して、活動の様子を取材できないか、っていう相談が来てる。時期の候補は春休みらしいよ」
「えっ、取材?」
みつみが用紙を覗き込む。
「私たちがダンジョン行くところに、記者の人も一緒に来るってこと?」
「そういう希望みたい。もちろん、学校が受けると決めたわけじゃないし、みんなもまだ返事しなくていい。未成年の部員がいるから、写真や名前をどこまで載せるかとか、保護者への確認とか、考えることもあるしね」
そこで三屋田は用紙を机へ置き、少しだけ声を落とした。
「それに、実際にダンジョンへ入るなら、取材する側も施設の決まりに従う必要があるでしょう。詳しいことはこれから確認するから、今日は『こういう申し込みがあった』って話だけ」
「分かりました。ありがとうございます」
絵美里が丁寧に答え、志帆も頷いた。
三屋田は帰り際に、「急がないで考えて」と言って部室を出ていった。扉が閉まってからも、五人はしばらく用紙を見つめていた。
「……本当にあの人たちだったんだね」
みつみが最初に口を開く。
「いや、まだあの人が来るって決まったわけじゃないけど。でも、まさか学校に連絡が来るとは思わなかった」
「私も。あの日は普通に休みで来たって言ってたもんね」
佳奈子は椅子の背へ少し寄りかかった。
「記事になるのって、どんな感じなんだろ。顔とか名前が載るのは、ちょっと考えるなあ」
「私も気になる。写真はどういうの撮るんでしょうね。前に私たちが撮ったみたいな、景色の写真だけじゃないんでしょうし」
絵美里は机の用紙を眺めたまま、少し考え込んでいる。
「そうだね。そこはちゃんと聞いてからじゃないと。別に、今日ここで決める必要もないし」
千尋が言うと、佳奈子は「うん」と頷いた。
志帆は用紙に書かれた媒体名を指で追った。
「私、このサイトの記事、前から読んでるのよね。装備の記事もいいけど、普通の探索者がどう楽しんでいるかを書いたものもあったと思う。そういうのなら、少し興味があるわ」
「じゃあ志帆は、取材されたい?」
「まだそこまでは言ってないわ。何を聞かれるのかも分からないし。でも、自分たちの活動がほかの人にはどう見えるのか、それはちょっと気になる」
「私は、記者の人ともう一回一緒にダンジョン行くのは面白そうだと思いました」
絵美里が顔を上げた。
「クリダンのとき、私たちの話をすごく楽しそうに聞いてくれていましたよね。もし本当に同行するなら、今度は普段行っている場所も見てもらえるのかなって」
「それ、私も気になる!」
みつみは絵美里の隣へ回り込んで、用紙をもう一度覗き込んだ。
「でもさ、取材してるって思ったら、いつもよりちゃんとしなきゃってなるのかな」
「みつみが?」
千尋の笑いを含んだ声に、みつみはむっとした。
「私だって、人に見られてたら少しは気にするよ」
「それでダンジョンに入ったら、最初に見つけたものの方へ走っていきそう」
「……それは、あるかも」
みつみ自身が笑ってしまい、絵美里もつられて口元を緩めた。
「その場合は、私も見に行きますよ。何があったのか気になりますから」
「ほら、エミリンだって!」
「それと取材を受けるかどうかは、別の話ですけどね」
絵美里は念を押してから、志帆の隣の席へ戻った。
しばらくすると、話はまた次のダンジョンの候補へ移っていった。遠い場所なら休日にしよう、早朝の集合は避けたい、前に行ったところでもいい。結局その日は行き先まで決まらず、佳奈子が帰りに寄りたい店の話を始めたところで、千尋もスマートフォンをしまった。
机の端には、三屋田が持ってきた一枚の用紙が残っている。
みつみは帰り支度をしながらそれを見つけ、もう一度だけ手に取った。
「ねえ、クリダンであの人が言ってたじゃん。『なんだか楽しそうね』って」
「ああ、言ってたね」
千尋が鞄の持ち手を肩へ掛ける。
「もしかして、ほんとに楽しそうに見えたから、来たくなったのかな」
「そうかもしれないわね。何を見たいのかは、聞いてみないと分からないけれど」
志帆の答えに、みつみは頷いた。
朝は、それぞれ違う行き先を進路希望調査票に書いた。放課後には、五人がいつもどおりに集まって、次の遊びの予定を話していた。
「じゃあ帰ろっか。寒くなる前に」
佳奈子が先に立ち上がる。
「帰り、お店に寄るんでしょ? 私も行く!」
みつみが用紙を机へ戻すと、千尋は笑って扉へ向かった。
「予定は決まらなかったのに、寄り道だけ決まったね」
五人は明かりを消した部室を出て、夕方の廊下を並んで歩きだした。




