第103話 文化祭、ただいま休憩中
文化祭の朝、二年生の教室には、机を四つずつ寄せたテーブルが並んでいた。
全部で四組。椅子はテーブルごとに四、五脚ずつ置かれ、教室の後ろには冷たいお茶と水の入った容器、紙コップの束がある。大きなゴミ箱も、燃えるゴミとそれ以外で分けて用意されていた。
入口に貼られた看板には、太い文字でこう書いてある。
『休憩所 一回二十円 お茶・水あります』
「……本当にこれで文化祭やるんだね」
準備の終わった教室を見渡して、みつみが笑った。
「いいじゃん。去年みたいにずっと働くことにならないし」
佳奈子が椅子を引いて座ると、当番表を持ったクラスメイトが入口から顔を出した。
「本多、まだ開場前なんだけど。休むなら二十円ね」
「え、クラスメイト割引ないの?」
「ないよ。今日のお客さん第一号になる?」
「やめとく。あとで友達連れてくる」
この企画を言い出したのは、クラスの別の生徒だった。
文化祭で何をやるか話し合っていたとき、「休憩所でよくない? 集金の当番だけ決めれば、あとはみんな遊べるし」と提案したのだ。最初こそ冗談かと思われたものの、「椅子を並べるだけなら準備も楽」「歩き疲れた人には需要ありそう」「それなら当番やる」と賛成が次々に出て、結局あっさり決まった。
もちろん、お茶の補充やゴミ袋の交換は必要だ。それでも、店員が何人も張りつく出し物に比べればずっと手が空く。
「じゃあ、私もう行くね。友達と約束してるから」
千尋はスマホの画面を確かめ、入口へ向かった。階段の方から名前を呼ぶ声がして、千尋は手を上げながら教室を出ていく。
「私も。中庭の方で待ち合わせ」
佳奈子も立ち上がる。廊下へ出る直前、当番のクラスメイトに「冷たいお茶、午後まで残しといてよ」と声をかけて、「早く行け」と笑われていた。
みつみは教室の外で友達を見つけると、「あ、先にあっち見よ!」と手を振った。少し離れた場所では、志帆が二人の友達と合流している。
四人とも、今日はそれぞれに行きたい場所があった。
◇
「ほら、これ。今年もやってるって」
志帆の隣を歩く友達が、文化祭の案内を見せてくれた。指さした先にあるのは、漫画研究部の展示だった。
「行きましょう。私も気になってたの」
「そのために午前中空けておいたんだよね」
もう一人の友達が笑う。三人は階段を上がり、廊下の突き当たりにある教室へ向かった。
扉をくぐると、壁には部員が描いたイラストが並び、窓際には漫画や設定資料をまとめた冊子が置かれていた。奥の壁には、ひときわ大きな紙が貼ってある。
『オリジナルキャラクター人気投票! あなたの推しに一票を』
「これこれ。投票する前に、全部見ようよ」
友達の一人が嬉しそうに言い、三人は並んだイラストの前で足を止めた。
赤いマントを翻す剣士、星模様の帽子をかぶった魔女、分厚い本を抱えた旅人。どれも部員が考えたキャラクターで、絵の横には短い紹介文が添えられている。
「私、この魔女の子が好き。色がかわいいし、帽子の飾りもいい感じ」
「私は剣士かな。説明に『勝ったことがない』って書いてあるの、気になる。なのにこんな堂々としてるんだよ?」
志帆は二人の話を聞きながら、少し離れたイラストの前へ移動した。
長いコートを着た、眼鏡の人物。手袋の片方だけ色が違い、腰には小さな鍵が下がっている。紹介文には『閉じた扉を探している』とあった。
「……これ、いいわね」
友達二人も寄ってきた。
「え、こっち? 地味じゃない?」
「そこがいいのよ。ほら、袖口が少し擦り切れてるでしょう。それなのに、襟元だけはきちんと整えてあるの。どうしてこういう格好なのか、気にならない?」
「気になるけど、そこまで見てなかった」
「鍵も、腰に一つしかないのよね。紹介文には扉って書いてあるけど、どんな扉なのかは分からないし。もう少し先の話が読みたくなるわ」
志帆は紹介文をもう一度読み、隣に置かれた小さな漫画へ手を伸ばした。数ページしかない作品だったが、三人はそれぞれ別のところに引っかかって、読み終わってからもその場を離れなかった。
「待って。この人、最後に笑ってるじゃん。最初の絵だとずっと無表情だったのに」
「私は最後より途中が好き。あそこで逃げないの、格好よかった」
「ねえ、でもこの鍵、最後のコマでは腰についてないわよね?」
「志帆、それどこ?」
「ここ。コートの裾がめくれているでしょう。さっきまで腰にあったはずなのに……」
「あ、ほんとだ。でも描き忘れじゃない?」
「その可能性はあるわ。でも、わざわざ手袋まで描き分けているのに、鍵だけ忘れるかしら」
「いや、忘れるときは忘れるよ。私、昨日イヤホン持ってきたのにケースだけ置いてきたもん」
「それとは違うでしょう」
三人で笑ったあと、もう一度漫画を最初から見返した。志帆は先ほどより少し身を乗り出し、気になったコマを友達に示している。相手も遠慮なく別の読み方を返してくるので、話はなかなか終わらなかった。
そのとき、背後から声がした。
「あれ、志帆じゃん」
振り返ると、別の友達と一緒に文化祭を回っていた千尋が立っていた。
「千尋。そっちはもう見終わったの?」
「いや、通りかかったら人気投票って見えたから。ちょっと寄ってみた」
千尋は壁のイラストを一通り眺めた。志帆の友達二人とも軽く挨拶を交わし、赤いマントの剣士の前で足を止める。
「あ、私これ好き」
「もう決まったの?」
「うん。なんか今にも走り出しそうじゃん、この絵。勢いあっていいなって」
千尋は投票用紙を一枚取り、迷わず名前を書いて箱へ入れた。
「えっ、早っ!」
魔女を推していた友達が声を上げる。
「まだ設定読んでないよね?」
「読んでないけど、絵で選ぶのもありでしょ。みんなは?」
「私たち、まだ一人も投票してない」
千尋は三人を見比べた。
「……いつからここにいるの?」
「二十分くらい、かな」
「そんなに? ここ、まだほかにも展示あるよ」
「分かってるんだけどね。こっち見たらこっちもよくて」
魔女派の友達が肩をすくめる。剣士派の友達も頷いた。
千尋は笑って、志帆の方を向いた。
「志帆もまだ迷ってんの?」
「私は決まってるわよ」
「え?」
友達二人の声が重なった。
「いつ決めたの?」
「この人を見たときだけど。ほかの作品もちゃんと見たかったから」
志帆は長いコートの人物を指さした。友達の一人が少し口を開け、それから盛大に笑い出す。
「ちょっと! 志帆があれこれ言うから、私たち余計迷ってるんだけど!」
「私は二人にも好きなところを教えてもらって、楽しかったわよ」
「それはそうだけどさあ!」
千尋も笑いながら、志帆の肩越しにイラストを眺めた。
「それで、この人のどこが好きなの?」
「まずコートの形がね――」
「ごめん、私そろそろ行く約束だった」
「……あなたから聞いたんでしょう」
「帰りに聞く! 楽しんでね」
千尋は一緒に来た友達を追って廊下へ戻っていった。志帆が小さく息を吐くと、隣の二人がまた笑う。
「ほら、千尋ちゃんも即決だったじゃん。私たちも決めよっか」
「そうね。でも私は、あと一回だけこの漫画を読みたい」
「まだ読むの?」
「うん。今度は私も付き合う。さっきの鍵、ちょっと気になってきた」
結局、三人が投票を終えたのは、それからもう少し後のことだった。
◇
昼過ぎの休憩所は、四つのテーブルがほぼ埋まっていた。
佳奈子は友達を連れて入口まで来たものの、空いている席が一つしかないのを見て、さっさと行き先を変えた。
「うちのクラス、人気じゃん。まあ二十円で座れてお茶飲めるなら、そりゃ来るか」
「じゃあ、もうちょっと回ろ。さっきの二階の店、まだ見てないよね」
「行こ行こ。あ、私あそこで飲み物買いたい」
友達と笑い合いながら、佳奈子は再び人の流れに混ざっていった。
少し時間が経って、絵美里と紗希が休憩所へ顔を出した。
「ここ、先輩たちのクラスなんだ」
「そう。二十円で休めるんだって」
絵美里が看板を指さすと、紗希は紙コップの並んだ台を覗いた。
「水もお茶もあるの、ありがたいね。ちょっと歩きすぎたわ」
「紗希、もう一つ見たいって言ってなかった?」
「それは休んでから。……あ、すみません、二人お願いします!」
当番のクラスメイトに料金を渡し、二人は空いた席へ腰を下ろす。隣のテーブルでは、どこかのクラスの出し物について話す声が弾んでいた。
一方、みつみは友達に誘われて入った教室で、手作りの小物を前に立ち止まっていた。
「ねえ、これって自分で作れるの? すごくない?」
「作れるよって書いてあるじゃん。みつみもやる?」
「やる! ……あ、でもこっちも見ていい?」
友達が笑って、みつみの隣へ戻ってくる。文化祭の校舎には、まだまだ気になるものが残っていた。
◇
夕方、片付けの始まった教室から、休憩所の看板が外された。
志帆が自分の荷物を取りに戻ると、入口の近くでは千尋がクラスメイトと椅子を重ねていた。志帆も空いた机を一つ運び、脇へ寄せる。
「結局、あの人気投票、誰に入れたの?」
千尋が手を休めずに聞いた。
「最初に気になった、コートの人よ」
「やっぱり。友達二人は?」
「剣士と魔女。三人とも別々だったわ」
「へえ、あれだけ話しても揃わないんだ」
「揃えるために話してたわけじゃないもの」
志帆は机の脚を揃えると、少し嬉しそうに続けた。
「でも、二人が好きだって言ってたところも分かるようになったわ。選ぶのは一人でも、ほかを見なくていい理由にはならないでしょう?」
「そっか。そういう楽しみ方もあるんだね」
千尋は重ねた椅子を持ち上げ、教室の後ろへ運んでいった。
その夜、ダン活部のグループチャットには、文化祭の写真がぽつぽつ届いた。みつみが作った小物、佳奈子が友達と食べたもの、千尋が体験した企画。そして志帆は、漫画研究部のイラストを一枚だけ送った。
『志帆、まだあれ見てるの?』
千尋からのメッセージに、志帆は少し考えてから返信する。
『うん。作者さんのコメントも読んでる』
『まだ続いてた!』
佳奈子のスタンプが続き、みつみからは『なになに、どの子?』と返ってきた。志帆は画面を見て、思わず笑う。
翌週には廊下を吹き抜ける風が冷たくなり、駅前には冬の催しを知らせるポスターが並び始めた。




