第102話 前のめり適正A
骨橋ダンジョンの施設前で、紗希は自分の靴を見下ろしていた。
「……これ、本当に大丈夫かな」
「昨日も写真送ってくれたじゃん。大丈夫だって」
隣に立つ絵美里が答えると、紗希は片足を持ち上げ、靴底を確かめた。履き慣れた運動靴に、動きやすい服装。リュックには飲み物とタオル、昼食、それから絵美里に教えてもらった細かな持ち物が入っている。
「いや、写真で見たときは普通だったのに、ここ来たら急に心配になってきた。先輩たち、もっとすげえ格好してるし」
紗希の視線の先で、千尋が剣帯の位置を直している。佳奈子の弓はまだ施設で受け取る前だが、背中のハーネスだけでも普段の高校生とは違って見えた。
「うちらは何回も来てるからね。最初からこんなじゃなかったよ」
千尋が笑って近づいてくる。みつみと志帆も一緒だ。
「おはようございます! 今日はよろしくお願いします!」
紗希はぱっと姿勢を正し、四人へ頭を下げた。
「こちらこそ。楽しみにしてた?」
「はい! ……って言いたいんですけど、ちょっと緊張してます。マジでモンスターいるんですよね」
「いるよ。スライムとかゴブリンとか。会えるといいね!」
みつみが嬉しそうに答えると、紗希は笑いかけて、途中で表情を止めた。
「会えるといい、って言うんですね。普通は会わない方がよくないですか?」
「ダンジョン来たのに?」
「……ああ、そっか。そういう場所か」
紗希が納得しかけたところで、佳奈子が横から口を挟んだ。
「まあ、戦いたくないときに出てくると普通に面倒だけどね。今日は紗希ちゃんが初めてだから、ゆっくり行けばいいんじゃない?」
「ありがとうございます。足引っ張んないようにします」
「引っ張っていいよ。初めてなんだから」
千尋が言うと、紗希は一瞬きょとんとした。
「それ、先輩が言うとめっちゃ頼もしいっすね」
「ただし、勝手に一人で走ってくのはなしね」
「はい! そこは気をつけます!」
その返事に絵美里が笑った。紗希はそれを見つけて眉を寄せる。
「何?」
「別に。紗希、こういうとき返事いいなって」
「そりゃ先輩の話だからでしょ」
「私の話もそれくらい聞いてよ」
「聞いてるって。たまに」
「たまに?」
二人のやり取りを聞きながら、五人は施設へ入った。
手続きと装備の受け取りを済ませ、紗希は貸し出された小型のメイスを手に取った。最初に持ち上げたときこそ目を丸くしたが、柄を握り直し、重さを確かめるように腕を動かす。
「写真で見るより重いな。これ、ずっと持って歩くんですか?」
「使わないときはちゃんと下げとけばいいよ。腕疲れるし」
佳奈子に言われ、紗希は素直に従った。まだジョブは取得していない。今日はまず、ダンジョンへ入ってみる。受付で教わったことを思い返しながら装備を身につけると、さっきまでの緊張に少し別の気持ちが混ざってきた。
「なんか、ほんとに行くんだな」
「今さら?」
絵美里が隣で盾の固定具を確かめながら聞く。
「いや、行くつもりで来たんだけどさ。武器持ったら急に実感湧いてきた」
「じゃあ、行こっか」
千尋の声で、六人は入口へ向かった。
◇
通路を抜けた瞬間、紗希の足が止まった。
外の明るさとはまるで違う、淡い照明に照らされた岩肌が奥へ続いている。空気は少しひんやりしていて、足音を立てると、乾いた響きが遅れて戻ってきた。写真ではただの暗い洞窟に見えた場所が、目の前ではずっと大きく、どこまで続いているのかも分からない。
「……うわ。すげえ」
小さく漏れた声に、みつみが振り返った。
「でしょ!」
「マジで洞窟じゃん。いや、写真も洞窟だったけど……なんか全然違う」
紗希は壁際へ近づき、空いた手を伸ばしかけて止めた。
「触っても平気?」
「その辺なら大丈夫。足元、ちょっと滑りやすいところあるから気をつけてね」
絵美里に言われ、紗希は壁の表面へ指先を当てた。思っていたより冷たく、ざらついた感触がある。表面の小さな凹凸にまで指を滑らせてから、ようやく手を離した。
「絵美里、これ毎回見てんの? すげえな」
「見慣れてるけど、初めてのときは私も色々触ったよ」
「そうなんだ」
紗希は笑って歩き出したが、すぐまた振り返る。入口の方にあった普通の施設の明かりは、もう曲がり角の向こうで見えなくなっていた。
「これ、戻るときも歩くんだよね」
「ゴールまで行けたら、帰還ゲートがあるよ」
「よかった。それ聞いてちょっと安心した」
先頭の千尋が足を止めると、紗希も自然に黙った。通路の先から、何かが床を擦るような音が聞こえてくる。
「いた。スライム一匹」
千尋の声に、紗希は絵美里の肩越しに前を覗いた。
岩陰から現れたのは、半透明の丸い塊だった。床に触れた部分が広がり、持ち上がるように形を変えては、少しずつこちらへ近づいてくる。
「……あれ、ほんとに生きてんの?」
「モンスターだからね」
千尋が笑う。
「見るだけでもいいし、やってみたかったら、近くで見てるよ。どうする?」
紗希はメイスを握ったまましばらくスライムを見つめた。動きは遅い。それでも、こちらへ向かってきているのは確かだった。
「……やってみたいです。せっかく来たんで」
「了解。まず近づきすぎないで、相手がどんな動きするか見てみよっか」
千尋が少し横へ下がり、絵美里は紗希の隣に立ったまま盾を前へ向けた。ほかの三人も、すぐに手が出せる距離を保って見守る。
紗希が一歩進むと、スライムがわずかに身体を縮めた。
「あ、なんか――」
丸い塊が急に床を蹴るように跳ねた。
「うわっ!」
紗希は反射的に後ろへ下がった。目の前を半透明の身体が通り過ぎ、床へ落ちて形を崩す。慌ててメイスを振り下ろしたものの、先端は石床を叩いただけだった。
「危なっ。今、めっちゃ飛んだ!」
「距離取れてるから大丈夫。もう一回来るよ」
絵美里が落ち着いた声で言う。紗希は呼吸を整え、メイスを構え直した。柄を強く握りすぎて、手のひらが少し痛い。
スライムは床に広がった身体をゆっくり持ち上げた。さっきのように跳ねる前に、形が一度縮むらしい。
「……なるほど。あれが来る前の動きか」
紗希は一度だけ足元を確かめ、スライムが動くのを待った。
半透明の塊が縮む。今度は慌てて武器を振らず、先に横へ避けた。目の前を飛んでいったスライムが着地し、身体を立て直そうとする。
その背中に、メイスを振り下ろした。
柔らかいものを叩いたはずなのに、腕にはずしりとした感触が返ってきた。スライムの表面が大きくへこみ、形を戻す前にもう一度打つと、淡い光になって消えていく。
「……え?」
紗希はメイスを持ったまま、何もなくなった石床を見つめた。
「倒したよ。紗希、ちゃんと当てたじゃん」
絵美里に言われても、まだ目は床へ向いたままだった。
「……今の、私が?」
「そう。二回目はちゃんと避けてから叩いてたし、よかったと思う」
紗希はようやく顔を上げた。
「マジか。……やっべ、めっちゃ面白い!」
自分でも声が大きすぎたと思ったらしい。慌てて口を押さえたが、笑顔までは引っ込まなかった。
「もっと怖いと思ってたんだけど、あれ、ちゃんと動きが見えるんだね。さっき外したときはどうしようかと思ったけど、二回目は避けられたし、当たったし……!」
「そういうの楽しいよね!」
みつみが身を乗り出す。
「最初、魔法使えたとき私もそんな感じだった。あ、でも紗希ちゃん、ジョブ取ったらスキルも使えるようになるよ」
「スキル……そっか。そういうのもあるんですよね」
紗希はメイスを見下ろし、何度か握り直した。すぐには歩き出さず、さっきスライムが跳ねた場所を振り返る。
「もう一匹、出ないかな」
「私も最初それ言った!」
「みつみ、毎回言ってない?」
佳奈子が笑い、千尋は通路の先へ視線を戻した。
「探しに行こっか。ただ、次もスライムとは限らないからね」
「はい!」
紗希の返事は、入る前よりずっと勢いがよかった。
◇
次に現れたのは、ゴブリンだった。
曲がり角の向こうから飛び出した小さな獣じみた影は、口吻から牙を覗かせ、身体を低くして走ってくる。紗希がメイスを持ち直すより早く、絵美里が一歩前へ出た。
「ここは私が受ける。紗希、少し下がって」
「分かった!」
「《ガード》!」
爪がタワーシールドにぶつかった。盾の縁で押し返されたゴブリンがよろけたところへ、千尋が横から踏み込み、《黒月》を振る。小さな身体が消えるまで、ほんの数秒だった。
「……速っ」
紗希は目を丸くした。
「さっきのスライムと全然違うじゃん。あんなの来たら、私じゃ避けらんないかも」
「最初はそれでいいよ。見てるのも大事だから」
絵美里が盾を下ろすと、紗希はその表面を覗いた。爪が当たったところに新しい傷はほとんどないが、ぶつかったときの音だけは耳に残っている。
「絵美里、さっき怖くなかった?」
「相手の動きは見えてたから。それに、私の役目だしね」
「ふうん……」
紗希は盾から目を離し、千尋の方も見た。千尋は何事もなかったように剣を戻し、次の分岐を確かめている。
さっきは自分の前に立っていた絵美里が、今度は真っ先に前へ出た。その隣を千尋が通り抜けて、モンスターを倒した。二人とも当たり前のように動いているのに、紗希にはそれが妙に格好よく見えた。
しばらく歩いたところで、小さな広間へ出た。天井が高く、床も比較的平らだったので、六人はそこで昼食を取ることにした。
「……ダンジョンでおにぎり食ってる」
紗希が包みを開きながら呟く。
「そこ気になる?」
佳奈子が隣へ腰を下ろした。
「いや、普通においしいっす。なんつーか、ここまで歩いてきたのにコンビニのおにぎりって、変な感じがして」
「私たちは慣れちゃったな。お菓子もあるよ。いる?」
「いただきます!」
差し出された小袋を受け取り、紗希は素直に頭を下げた。
少し離れた場所ではみつみが志帆へ、さっきのスライムのことを話している。千尋は飲み物を片手に、次の分岐でどちらへ進むか絵美里と確認していた。
「紗希、疲れてない?」
絵美里が戻ってきて隣に座る。
「歩くのは平気。足元ずっと気にしてんのは疲れるけどね。……それよりさっきのゴブリン。あれ、絵美里が押さえて、千尋先輩が倒したんでしょ」
「うん」
「私もああいうの、やってみたいな」
「戦う方?」
「そう。後ろから見てるだけでもすげえって思ったけど、やっぱ自分で動きたい。さっきスライム叩いたの、めっちゃ楽しかったし」
紗希は包みを畳みながら、少し考え込んだ。
「ただ、いきなりあれは無理だわ。速すぎ。もうちょい慣れたい」
「なら、慣れるところから始めればいいじゃん。私だって、最初から今みたいにできたわけじゃないし」
「そっか。絵美里にも最初があったんだよね」
「当たり前でしょ」
「いや、今の盾見てると、想像つかない」
絵美里は少しだけ照れたように笑って、飲み物の蓋を開けた。
休憩が終わる頃には、紗希は再びメイスを握っていた。さっきより持ち方が少し自然になっている。
その後も六人は洞窟を進んだ。見覚えのある分岐を千尋が示し、以前は迷った道を今度はほとんど止まらず通り過ぎる。紗希はたびたび足を止めて岩の形や暗がりを眺めたが、先へ急かされることはなかった。
ダンジョンラットが一匹現れたときには、紗希もメイスを構えた。しかし、低い位置を素早く走る相手に狙いを合わせられず、振り下ろした先端は床を叩いた。すぐ横から佳奈子の矢が飛び、千尋の剣が続く。
「くっそ、今の全然当たんない」
「低いところ狙うの難しいよね。私もああいうの撃つの苦手だったし」
佳奈子がそう言いながら矢を戻す。
「でも、当たんなかったのは悔しいな」
紗希はメイスの柄を見つめ、さっきの空振りを思い返した。スライムを倒したときの感触だけでなく、今みたいに何もできなかった悔しさまで、妙に頭に残っている。
「ねえ、絵美里。さっきの、もう一回出てきたら次こそ当てたい」
「いいけど、無理には前へ出ないでね」
「分かってるって。ほら、私、一応ちゃんと学習するから」
「一応、ね」
絵美里が笑うと、紗希は口を尖らせた。
「そこ拾わなくていいじゃん」
少し先の通路では、千尋が振り返って二人を待っていた。紗希はメイスを下げて追いつき、また前を向く。
洞窟の奥へ進む足取りは、朝よりも少し軽くなっていた。
◇
「着いたよ」
千尋が足を止めた先で、通路が急に広がった。
岩に囲まれた空間の奥に、ゴールを示す大きな構造物がある。そこだけは周囲より明るく、紗希にもひと目で、今まで歩いてきた道の終点だと分かった。
「え、ここがゴール?」
「そう。骨橋はここまで来たらクリア」
紗希は構造物へ近づき、少し離れた場所から見上げた。朝から何時間も洞窟を歩いて、モンスターと戦って、昼食まで食べた。最後にこうして目に見える終点があるのが、なんだか嬉しい。
「マジか。……今日、ちゃんとダンジョン一個終わったんだ」
スマートフォンに、骨橋ダンジョンのクリア記録が表示された。初回クリアの表示を確かめているうちに、紗希は自分でも思っていなかったほど頬が緩んでいた。
「やったじゃん!」
みつみが笑って手を上げる。紗希は空いている手を伸ばして、その手に軽く合わせた。
「はい! ……いや、なんか、めっちゃ達成感ありますね」
「分かる。最初のクリアって嬉しいよね」
千尋も笑っている。
奥には入口へ戻るための帰還ゲートが見えていた。紗希はその光を眺め、それから来た道へ振り返る。歩いてきた距離はもう見えない。ただ、スライムと初めて向き合った場所や、絵美里が盾でゴブリンを受け止めた音は、まだはっきり覚えている。
「ねえ、絵美里」
「何?」
「今日さ、来てよかった。写真見てるだけじゃ、全然分かんなかったわ」
「でしょ。だから、行ってみたらって言ったんだよ」
「いや、言ったの私だからね。自分で行きたいって言ったんだから」
「はいはい」
二人で笑い合ってから、紗希はもう一度ゴールの方を見た。
「……でも、まだやりたいな」
小さく呟いた声は、絵美里にも聞こえていたらしい。
「じゃあ、また来ればいいよ」
「うん。今度はもうちょい、ちゃんと戦ってみたい」
紗希はメイスの柄を握り直す。
さっきまでは、持たされている感じがしていた武器だった。今は、次に握るときのことを考えている。
◇
帰還ゲートを抜けると、そこは見慣れた施設の入口側だった。紗希だけが何度も後ろを振り返り、光の中から出てきた道がどこにも続いていないことを不思議そうに確かめている。
「すげえな、これ。帰り一瞬じゃん。行きはあんなに歩いたのに」
「楽でしょ。特に疲れてるとき」
佳奈子が言うと、紗希は大きく頷いた。
装備を返却し、受付でクリア記録を確認してもらう。手渡された記念メダルを指先でひっくり返しながら、紗希はしばらく黙っていた。
「それ、そんなに気に入った?」
絵美里が覗き込む。
「うん。今日の、ちゃんと形に残るんだなって。……あのさ、ジョブって、今からでも登録できる?」
紗希が顔を上げると、絵美里は少し驚いたように瞬きをした。
「できるけど。もう決めたの?」
「うん。さっき考えた。後ろで見てるのも面白かったけど、私、前で戦いたいんだよね。絵美里とか千尋先輩みたいに、近くで相手の動き見て、自分でやってみたい」
紗希は手のひらのメダルを見てから、続けた。
「さっきのスライム、倒せたのがすげえ嬉しかった。でもラットには全然当てられなかったじゃん。ああいうの、できるようになりたい。……って、ジョブ取ったら全部できるわけじゃないのも分かってるけどさ」
「そうだね。ジョブは手助けになるけど、慣れるのはこれからかな」
「それでもやってみたい。……先輩たち、ちょっとだけ待っててもらっていいですか?」
紗希が四人へ向き直る。
「もちろん。せっかくだし、見ていこっか」
千尋が頷き、みつみは興味津々で紗希を見た。
「どんなジョブ出るかな?」
「まだ分かんないんだよね。希望したのが必ず出るわけじゃないから」
志帆がそう言うと、紗希は一度だけ深く息を吸った。
「そっか。じゃあ、まず適性見ないとですね」
受付で申し込みを済ませ、登録料を支払う。本人確認を終えると、紗希は施設内のジョブ取得用設備へ案内された。五人は少し離れた場所で待ち、紗希が画面に向かうのを見守る。
しばらくして、本人が取得できるジョブの候補が表示された。
「……あった」
紗希が小さく声を上げた。
「ファイター。ある!」
絵美里がほっとしたように笑う。
「よかったじゃん。どうする?」
「決まってる」
紗希は画面へ指を伸ばした。今日一日で、自分がどんなふうに戦いたいかは、もうはっきりしている。
ファイター。
選択を確定すると、表示が切り替わった。
「……取得、できた!」
紗希が振り返る。さっきまでゴールで握っていた記念メダルは、今はリュックのポケットにしまってある。
「レベル、一。あと、《パワーストライク》……これ、近接攻撃のスキルだよね?」
「そうだよ。実際に使うのは次にダンジョンへ入ったときだね」
千尋に言われ、紗希は画面と自分の右手を交互に見た。
「次、か……」
口にしてから、にっと笑う。
「よし。次はもっと、前で戦ってみたい」




