赤鉛筆が引いた線
隆志は、大学を卒業して一年目だった。
社会人一年目。
言葉だけなら、まだ新鮮に聞こえる。
でも実際は違った。
毎日、朝六時に起きる。
満員電車に乗る。
九時前に出社する。
昼休みはだいたい削れる。
定時は形だけ。
帰宅は二十三時半。
風呂に入る。
明日の準備をする。
少しだけスマホを見る。
それで一日が終わる。
隆志は、八時間寝ないと体がもたない人間だった。
大学時代からそうだった。
寝不足になると、すぐ頭が重くなる。
ミスが増える。
胃が痛くなる。
人の声が遠くなる。
でも今は、五時間も寝られればいい方だった。
休日は、ほとんど寝ていた。
寝溜め。
そう呼んでいた。
けれど、実際は回復ではなかった。
ただ、借金みたいに積み上がった疲れの利息だけ払っている感じだった。
人間を月曜に再出荷するための雑な充電。
社会、もう少し丁寧に扱え。壊れ物だぞ。
⸻
【LINE】
22:58 真琴
今日もまだ会社?
22:59 隆志
今出た
22:59 真琴
遅すぎ
23:00 隆志
一年目だし仕方ないよ
23:00 真琴
仕方ないって考えなくていいけど、よくないって
23:01 隆志
大丈夫
23:01 真琴
大丈夫な人は毎日こんな時間に帰ってないよ
23:02 隆志
明日も早いから帰ったら寝る
23:02 真琴
本当に寝てね
23:03 真琴
スマホ見ずに寝て
23:03 隆志
努力する
23:04 真琴
努力じゃなくて寝ろ
⸻
隆志は改札を抜けた。
地下鉄のホームへ降りる。
深夜の駅は、人が少なかった。
昼間のざわめきが全部抜け落ちて、白い蛍光灯だけが残っている。
ホームドアの向こうに、黒い線路がある。
遠くから、電車の音がした。
風が先に来る。
ごう、と地下の空気が動く。
隆志はスマホを見たまま、ホームドアの前に立っていた。
足が重い。
目が乾く。
頭の奥がぼんやりしている。
電車のライトが、トンネルの奥に見えた。
白くて、眩しい光。
その光を見た瞬間。
ふっと、体が軽くなった。
あ。
もう、寝たい。
そう思った。
ベッドに入りたい。
何も考えたくない。
会社も。
明日の資料も。
上司の顔も。
未読のメールも。
全部、遠くへ行ってほしい。
ライトが近づいてくる。
隆志は、一歩前に出た。
ホームドアがあるのに。
さらに一歩。
肩が、ホームドアにぶつかった。
がん。
その衝撃で、隆志は我に返った。
目の前を、電車が通過した。
ほんの五十センチ先。
銀色の車体が、ものすごい速度で流れていく。
風が顔を打つ。
隆志は、足がすくんだ。
ホームドアがなかったら。
そう思った瞬間、胃が冷たくなった。
アナウンスが流れた。
『危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください』
きっと私のことだ。
隆志はぼんやり思った。
でも、日本では名指しされない。
「隆志さん、危ないですよ」とは言われない。
まあ、いいか。
そう思った。
思ってしまった。
その時。
通過したはずの電車が、いつの間にか止まっていた。
目の前に。
ホームに。
停車していた。
「……え?」
さっき、通過していったはずだ。
なのに、電車は目の前にある。
ドアは閉じている。
車内は薄暗い。
電光掲示板には、見たことのない行き先が出ていた。
終点 おつかれさま
隆志は、瞬きをした。
表示は変わらない。
ホームドアのランプが点滅する。
聞いたことのないメロディが流れた。
明るいのに、どこか古い。
子守唄みたいな音。
そして、ホームドアと車両のドアが同時に開いた。
車内には、人がいた。
座席に、何人も座っている。
スーツの男。
制服の女。
作業着の人。
白髪の男性。
若い会社員。
みんな、うつむいていた。
寝ているようにも見える。
でも、誰も揺れていなかった。
電車の中なのに。
全員が、ぴたりと止まっている。
隆志のスマホが震えた。
⸻
【LINE】
23:18 真琴
電車乗れた?
23:18 隆志
たぶん
23:19 真琴
たぶん?
23:19 隆志
変な電車が止まってる
23:19 真琴
何それ
23:20 隆志
行き先が
おつかれさまって
23:20 真琴
なにそれ
乗らないで
23:20 隆志
でもドア開いてる
23:21 真琴
乗らないで
乗っちゃダメ
23:21 真琴
隆志、絶対乗らないで
⸻
乗らないで。
その文字を見ているのに。
隆志の足は、少しずつ前へ出ようとしていた。
車内は、静かだった。
冷房が効いていそうだった。
座れば眠れそうだった。
二度と起きなくていいくらい、深く眠れそうだった。
車内アナウンスが流れた。
『本日も、お仕事おつかれさまでした』
声は、優しかった。
『お座席に空きがございます』
『お荷物を置いて、お休みください』
隆志は、喉が渇いた。
休みたい。
本当に。
ただ、休みたい。
それだけだった。
その時。
鞄のポケットから、何かが落ちた。
からん。
足元に転がったのは、赤鉛筆だった。
短くなった、赤い鉛筆。
隆志は、それを見て息を止めた。
悠真の赤鉛筆。
大学時代の親友、悠真。
二年前、病気で亡くなった。
悠真は、いつも赤鉛筆を持っていた。
講義ノートにも。
試験勉強にも。
就活の予定表にも。
大事なところには赤で線を引け。
それが口癖だった。
卒業前、悠真は隆志に赤鉛筆を一本くれた。
「お前、見落とし多いから」
そう言って笑っていた。
その赤鉛筆を、隆志はずっと鞄に入れていた。
お守りみたいに。
いや。
ほとんど忘れていた。
忘れていたのに。
今、落ちた。
赤鉛筆は、床の上を転がった。
ころころ。
車内へ向かうのではなく。
ホームの内側へ。
そして、隆志の足元に一本の赤い線を引いた。
ありえない。
鉛筆が勝手に線を引くなんて。
でも、確かに見えた。
白いホームの床に。
赤い線。
ホームドアから離れる方向へ。
まるで、ここまで戻れ、と言っているみたいに。
スマホが震えた。
真琴ではない。
通知欄に、もう存在しない名前が出ていた。
悠真
そんな連絡先は、もうないはずだった。
本文は短かった。
⸻
【LINE】
23:22 悠真
それ、お前の乗る電車じゃない
⸻
隆志は、涙が出そうになった。
「悠真……?」
声に出した瞬間、車内の人たちが少しだけ動いた。
全員が、ゆっくり顔を上げた。
目がなかった。
暗い穴みたいな顔。
でも、口元だけは笑っていた。
『お連れ様も、すでにご乗車です』
アナウンスが言った。
車内の奥。
座席の端に、悠真が座っているように見えた。
大学時代と同じパーカー。
細い腕。
赤鉛筆を耳に挟んでいる。
でも。
隆志は分かった。
あれは悠真じゃない。
悠真なら、そんな顔で笑わない。
あんなふうに「こっちへ来い」とは言わない。
スマホに、また通知が出た。
⸻
【LINE】
23:23 悠真
俺のふりしたやつを見るな
23:23 悠真
赤い線のこっちに戻れ
⸻
隆志は、赤い線を見た。
足は、まだホームドアの近くにある。
線は、少し後ろ。
たった一歩分。
でも、その一歩が遠かった。
体が重い。
眠い。
眠くて、考えられない。
車内の声がする。
『お休みください』
『もう、起きなくて結構です』
『朝は来ません』
『六時に起きなくて結構です』
その言葉が、甘かった。
怖いくらいに。
隆志は、奥歯を噛んだ。
手を伸ばして、赤鉛筆を拾った。
指先に、木の感触。
少し削れた表面。
持った瞬間、記憶が戻った。
大学の図書館。
悠真と並んで勉強した夜。
卒業式の日。
病室で、悠真が笑っていた顔。
「隆志はさ」
「しんどい時ほど、しんどいって言えよ」
「お前、なにも言わないで壊れるタイプだからさ」
あの時の声。
隆志は、赤鉛筆を握りしめた。
「しんどい」
初めて、声に出した。
「もう、しんどい」
車内の空気が揺れた。
人影たちの笑みが消えた。
真琴からLINEが来た。
⸻
【LINE】
23:24 真琴
隆志
23:24 真琴
今どこ
23:24 真琴
返事して
23:25 隆志
しんどい
23:25 真琴
うん
23:25 真琴
知ってる
23:25 真琴
ずっとしんどかったよね
23:26 隆志
会社行きたくない
23:26 真琴
行かなくていいよ
23:26 隆志
一年目なのに
23:27 真琴
一年目でも辞めていいって
23:27 隆志
逃げたことになる
23:27 真琴
逃げて生きて
23:28 真琴
お願いだから
⸻
その文字を見た瞬間。
隆志は、一歩下がった。
赤い線の内側へ。
ホームドアから離れる。
車内から、ざわ、と音がした。
『お客様』
アナウンスの声が低くなる。
『ご乗車の意思が確認できません』
『お疲れではありませんか』
『もう、十分がんばりました』
「がんばったよ」
隆志は言った。
「だから乗らないよ」
赤鉛筆の先が、ぽきっと折れた。
折れた芯が、床に落ちる。
その赤が、床に広がった。
赤い線が太くなる。
ホームドアの前に、はっきりと境界ができる。
電車の中の影が、こちらへ手を伸ばした。
でも、線を越えられない。
車内の奥に見えていた偽物の悠真が、顔を歪めた。
本物の悠真から、最後のLINEが届いた。
⸻
【LINE】
23:29 悠真
大事なところには赤で線を引け
23:29 悠真
ここが線だ
23:29 悠真
戻れ隆志
⸻
ドアが閉まった。
音もなく。
ホームドアも閉まる。
電車の行き先表示が、一瞬だけ変わった。
終点 未帰宅
そして、次の瞬間。
電車は消えていた。
音もなく。
風もなく。
ホームには、普通の地下鉄が入ってきた。
行き先は、いつもの駅名。
人も乗っている。
広告もある。
車内灯も普通。
隆志は、ホームの柱にもたれて座り込んだ。
駅員が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「すみません」
声が震えた。
「少し、体調が悪くて」
駅員はすぐに事務室へ案内してくれた。
水をもらった。
真琴に電話した。
電話に出た瞬間、真琴は泣いていた。
「今すぐ迎えに行く」
「ごめん」
「謝らなくていいから」
「俺、会社辞めたい」
言った。
ようやく言えた。
真琴は、少し黙ってから言った。
「うん」
「辞めよう」
その声は、怒っていなかった。
呆れてもいなかった。
ただ、安心している声だった。
⸻
その夜、隆志は真琴の家に泊まった。
眠れなかった。
でも、朝六時のアラームは鳴らさなかった。
真琴が言った。
「今日は会社に連絡しよう」
隆志はうなずいた。
怖かった。
でも、地下鉄のあの電車に乗るよりは怖くなかった。
赤鉛筆は、短くなっていた。
昨日より、明らかに。
先端は折れている。
握った部分には、隆志の爪の跡が残っていた。
赤鉛筆の側面に、小さく文字が刻まれていた。
前はなかったはずの文字。
寝ろ
それを見て、隆志は少し笑った。
悠真らしいと思った。
⸻
【LINE】
08:12 真琴
会社に連絡する?
08:12 隆志
する
08:13 真琴
文面一緒に考えるよ
08:13 隆志
助かる
08:14 真琴
今日は休む
その後、退職の相談
08:14 隆志
うん
08:15 真琴
罪悪感出てるの?
08:15 隆志
めちゃくちゃ
08:16 真琴
出てても送ることだね
08:16 隆志
分かった
08:17 真琴
生きてる方が優先
08:17 隆志
うん
⸻
その日、隆志は会社に休みの連絡をした。
翌日、退職の意思を伝えた。
揉めた。
かなり揉めた。
上司には引き止められた。
「一年目で辞めると経歴に傷がつくよ」
「今辞めたら、次も続かないよ」
「みんな大変なんだから」
どの言葉も、前なら刺さっていた。
でも、隆志は赤鉛筆をポケットに入れていた。
その感触があるたびに、地下鉄のホームを思い出した。
あの電車。
「おつかれさま」と書かれた行き先。
眠れば終わる、みたいな甘い声。
隆志は、静かに言った。
「辞めます」
声は震えた。
でも、撤回しなかった。
⸻
一ヶ月後。
隆志は会社を辞めた。
すぐに幸せになったわけではない。
貯金は減った。
手続きは面倒だった。
次の仕事もすぐ決まらなかった。
不安で夜中に目が覚めることもあった。
でも、朝六時に無理やり体を起こす日々は終わった。
夜、二十三時半に帰って、倒れるように寝る生活も終わった。
真琴と一緒に、昼の公園を歩いた。
ちゃんとご飯を食べた。
病院にも行った。
しばらく休んだ。
それから、前より勤務時間の短い仕事に就いた。
給料は少し下がった。
でも、帰宅してから夕飯を食べる時間があった。
風呂に入って、明日のことを考える余裕があった。
眠る前に、真琴と話す時間もあった。
それは、隆志にとって十分すぎるくらい幸せだった。
人間、給料明細だけで生きていない。
まあ社会はそこをすぐ忘れる。都合のいい健忘症である。
⸻
赤鉛筆は、今も机の上にある。
かなり短い。
もう削れないくらい。
でも捨てられない。
赤鉛筆の横には、小さなメモがある。
隆志が自分で書いたものだ。
しんどい時は、しんどいと言う。
赤鉛筆で、そこに何度も線が引いてある。
真琴は、それを見るたびに少し笑う。
「悠真さん、口悪そうだね」
「悪かったよ」
「でも、いい友達だったんだね」
「うん」
隆志はそう答える。
⸻
ただ、一度だけ。
退職から三ヶ月後。
隆志はまた、あの地下鉄に乗った。
昼間だった。
人も多かった。
普通の駅。
普通のホーム。
普通の電車。
何も起きないと思っていた。
でも、ホームの柱の影に、一瞬だけ行き先表示が見えた。
おつかれさま
隆志は立ち止まった。
ポケットの中の赤鉛筆が、かすかに熱を持った。
スマホが震えた。
通知はない。
でも、画面のメモアプリが勝手に開いていた。
そこには、赤い文字で一行だけ書かれていた。
⸻
そっちはまだ早い。
⸻
隆志は、笑った。
少しだけ泣きそうにもなった。
「分かってる」
小さく言って、黄色い線の内側に下がった。
普通の電車が入ってくる。
ドアが開く。
人が降りる。
人が乗る。
隆志も乗った。
行き先は、ちゃんと現実の駅名だった。
座席に座ると、真琴からLINEが来た。
⸻
【LINE】
14:06 真琴
帰り、スーパー寄れる?
14:06 隆志
寄れる
14:07 真琴
卵と牛乳
14:07 隆志
了解
14:08 真琴
あとアイス
14:08 隆志
自分が食べたいだけだろ
14:09 真琴
ばれた
14:09 隆志
買うよ
⸻
隆志はスマホを閉じた。
窓に、自分の顔が映る。
少し疲れている。
でも、前みたいな顔ではなかった。
電車が動き出す。
地下の暗闇を走る。
隆志は、ポケットの中の赤鉛筆に触れた。
短くて、頼りない。
でも、確かにそこにある。
あの日、赤い線を引いてくれたもの。
戻る場所を教えてくれたもの。
隆志は目を閉じた。
眠気が来た。
でも、今度は怖くなかった。
ただの眠気だった。
帰ったら、ちゃんと寝ればいい。
朝まで。
できれば八時間。
そう思えることが、こんなに幸せだとは知らなかった。




