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怖い話_続  作者: 三葉


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8/26

縁切りのお守り

三河翠は、ずっと変だと思っていた。


神崎浩康。


同じ大学の男子学生。


LINEでは、よく喋る。


夜中までくだらない話をする。

授業の愚痴も言う。

好きな映画の話もする。

コンビニの新作スイーツの話で、三十分くらい盛り上がる。


なのに。


大学で会うと、彼はよそよそしかった。


エントランスホールですれ違っても。


食堂の前で目が合っても。


講義棟の階段ですれ違っても。


「あ、おはようございます」


そのくらい。


しかも、少し困った顔をする。


まるで、そこまで親しくない相手に挨拶されたみたいに。


翠は、それがずっと引っかかっていた。



【LINE】


23:41 翠

明日一限ある?


23:42 神崎

あります

正直きついです


23:42 翠

私も

朝起きられる気がしない


23:43 神崎

三河さんは起きられそう


23:43 翠

なんで


23:44 神崎

ちゃんとしてそうだから


23:44 翠

全然してない


23:45 神崎

じゃあ明日、起きられたら勝ちですね


23:45 翠

勝ったら褒めて


23:46 神崎

考えておきます



こんな感じで話していた。


少し距離はある。


でも、やさしい。


翠は毎晩、それを楽しみにしていた。


だから余計に、対面の態度が分からなかった。



その日の朝。


大学のエントランスホールは、いつも通り人で混んでいた。


自動ドアから学生が流れ込む。

掲示板の前で立ち止まる人がいる。

奥のベンチには、眠そうな顔でスマホを見る学生たち。


翠は、入口近くで神崎を見つけた。


白いシャツ。

黒いリュック。

少し眠そうな目。


いつもの神崎だった。


翠は、思い切って近づいた。


「神崎くん」


神崎は振り返った。


「あ、三河さん。おはようございます」


丁寧。


丁寧すぎる。


翠は、その距離感に少しだけ傷ついた。


でも、今日は逃げないと決めていた。


「ちょっと聞いていい?」


「はい」


「普段はLINEでよく話してくれるけど」


神崎の眉が、少し動いた。


「どうして対面だと、そんなによそよそしいの?」


言った。


言ってしまった。


心臓が変な音を立てた。


周りの学生の声が、急に遠くなる。


神崎は、困ったように翠を見た。


「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃなくて」


「僕、前から思ってたんですけど」


「うん」


「あなたのこと、よく知らなくて」


翠は、言葉を失った。


「え?」


「毎朝、挨拶してくれますよね」


「うん」


「返さないのも失礼だと思って、返してたんですけど」


神崎は、申し訳なさそうに言った。


「三河さんと、ちゃんと話したことって、ほとんどないと思うんです」


翠は笑おうとした。


冗談だと思いたかった。


「いや、LINEしてるじゃん」


「LINE?」


「昨日も話したよね。一限起きられるかって」


神崎は、さらに困った顔をした。


「すみません」


「え?」


「僕、三河さんのLINE、知らないです」


その瞬間。


エントランスホールの音が、全部消えたような気がした。



【LINE】


09:12 翠

ちょっと待って


09:12 翠

神崎くんとのLINEがない



翠は、誰に送ったわけでもなかった。


ただ、メモ代わりに自分のトークへ打ち込んだ。


手が震えていた。


スマホを開く。


トーク一覧。


神崎浩康。


ない。


検索する。


神崎。

浩康。

かんざき。

ひろやす。


ない。


連絡先にもない。


ブロックリストにもない。


削除した履歴もない。


アルバムもない。

ノートもない。

通話履歴もない。


昨日の夜、あれだけ話したはずなのに。


何もない。


まるで、最初から存在しなかったみたいに。


翠は、エントランスの柱にもたれた。


気持ち悪い。


頭の奥が、すっと冷える。


神崎はまだ近くにいた。


心配そうにしている。


でも、それは恋人や友人を見る目ではなかった。


具合の悪そうな同級生を見ている目だった。


「三河さん、大丈夫ですか?」


その呼び方が、刺さった。


三河さん。


昨日のLINEでは、もっと近かった気がする。


いや。


本当に昨日、LINEしていた?


翠は、自分の記憶を疑い始めた。

覚えている記憶を書き出してみる。


【メモアプリ】


神崎くんとLINEしてた。

たぶん。

毎晩話してた。

でも履歴がない。

連絡先もない。

交換した記憶もない。

でも、毎朝挨拶してた。

彼は変な顔をしてた。

私は何と話してた?



講義は、ほとんど頭に入らなかった。


神崎は同じ講義にいた。


少し離れた席に座っていた。


翠が見ると、目が合った。


神崎は軽く会釈した。


やっぱり他人だった。


それが怖かった。


他人なのに。


私はこの人の好きな映画を知っている気がする。

苦手な食べ物も知っている気がする。

雨の日に頭痛が出ることも。

左利きなのに箸だけ右で持つことも。


知っている。


でも、どこで知ったのか分からない。


スマホには何も残っていない。


記憶だけが、輪郭のないまま残っている。


人間の記憶は、自分のもののくせに信用できない。

本当に面倒な管理システムである。


昼過ぎ。


翠は帰宅した。


大学にいるのが怖かった。


部屋に戻るなり、机の引き出しを開けた。


日記帳。


翠は高校の頃から、毎日ではないけれど日記を書いていた。


感情がぐちゃぐちゃになった時ほど書く。


書けば少し落ち着く。


そう思っていた。


水色の表紙の日記帳。


角が少し擦れている。


翠はそれを開いた。


一番最近のページを見る。



【日記】


七月十日


今日は浩康と映画を観に行った。

駅で待ち合わせ。

少し遅れてきたけど、汗だくで走ってきたから許した。

ポップコーンは塩。

浩康はキャラメル派だったけど、私に合わせてくれた。

帰りに手をつないだ。

少し恥ずかしかった。

でも嬉しかった。



翠は息を止めた。


浩康。


神崎浩康。


日記には、はっきり書いてある。


恋人みたいな内容。


いや、恋人だった。


そうだ。


だったはず。


胸の奥で、何かが動いた。


記憶が、沈んだ水底から浮かぶみたいに。


映画館。

手をつないだ帰り道。

神崎の照れた顔。


あった。


確かに、あった。


翠はさらにページをめくった。



【日記】


七月二十二日


浩康とまた喧嘩した。

私が悪い部分もある。

でも、浩康も悪い。

なんであんな言い方するの。

「翠はすぐ感情的になる」って言われた。

分かってる。

分かってるけど、好きな人に言われると余計に腹が立つ。

帰り道、涙が止まらなかった。



七月二十三日。



【日記】


浩康からLINEが来た。

謝ってくれてた。

でも既読をつけられなかった。

つけたら許さなきゃいけない気がした。

本当は仲直りしたい。

でも今は顔も見たくない。

こんな自分が嫌になる。



七月二十四日。


文字が少し乱れていた。



【日記】


家の近くの縁切り神社に行った。


ずっと前からある小さい神社。

お母さんは「あそこは軽い気持ちで行くところじゃない」と言っていた。

でも、今日は行ってしまった。


浩康のことが好き。

別れたいわけじゃない。

でも、つらい。

考えると胸が苦しい。

腹が立つ。

泣きたくなる。


だからお願いした。


「かみさま、かれとの縁を切ってください。辛いです」


お願いした後、縁切りのお守りを買った。

黒と白の紐がついている。

財布に入れた。


帰り道、少しだけ楽になった気がした。


でも、なんでだろう。

怖い。



翠は、財布を開けた。


中に、お守りが入っていた。


黒と白の紐。


小さな布袋。


表には、金色の糸でこう刺繍されている。


縁切守


見た瞬間、手が冷えた。


覚えていない。


いや、少しだけ覚えている。


雨上がりの夕方。

石段。

誰もいない境内。

鈴の音。

お守りを渡してくれた、顔の見えない社務所の人。


「切ってよろしいですね」


そう聞かれた気がする。


翠はその時、なんと答えた?


分からない。


分からないけれど、願った。


確かに願った。



スマホが震えた。


知らないアカウントからLINEが来ていた。


友だち追加した覚えはない。


名前は空白。


アイコンもない。


本文だけ。



【LINE】


16:38 

ひとつ、切れました。



翠は、スマホを落としそうになった。


すぐにトーク一覧を見た。


今のアカウントは、もう消えていた。


通知だけが残っている。


トークはない。


翠は日記に戻った。


次のページ。


七月二十五日。



【日記】


朝、浩康に会った。

挨拶したら、変な顔をされた。

昨日まで彼氏だったのに。

いや、彼氏だったよね?

浩康とのLINEが少し減っていた。

トーク履歴の上の方が消えていた気がする。

でもまだ残ってる。

怖い。



七月二十六日。



【日記】


浩康との写真が消えた。

スマホにない。

アルバムにもない。

でも日記には書いてある。

私は浩康と付き合っていた。

手をつないだ。

映画に行った。

喧嘩した。

好きだった。

好き、だった?



翠はページをめくる手を止められなかった。


七月二十七日。



【日記】


浩康の声を忘れかけている。


LINEはまだ来る。

でも、神崎浩康という名前じゃなくなっている。

表示名が空白。

それでも文面を見ると、浩康だと分かる。

たぶん。


「今日、大学来ますか」

「無理しないでください」

「ちゃんと食べてください」


こんなにやさしいのに。

私は何を願ったんだろう。



七月二十八日。



【日記】


浩康に挨拶した。

彼は「おはようございます」と言った。

他人みたいだった。

LINEでは「おはよう」と来ていた。

でも、大学で会うと他人。

どっちが本物?


お守りを捨てようとした。

でも捨てられなかった。

手から離れなかった。



七月二十九日。


今日の日付。


文字は、震えていた。



【日記】


もしこれを読んでいる私が、浩康のことを忘れていたら。


思い出して。


神崎浩康は、私の彼氏だった。


優しかった。

少し不器用だった。

怒ると黙るところが嫌だった。

でも、私が泣くといつも困った顔をして、ハンカチをくれた。

私のことを、翠と呼んでいた。


別れたかったわけじゃない。


縁を切りたかったわけじゃない。


ただ、つらくて、腹が立って、どうにかしてほしかっただけ。


神様は、たぶん本当に聞いてくれた。

でも違う。

そういう意味じゃない。


お願い。

忘れないで。


浩康を忘れないで。



その下に、違う筆跡で文字があった。


細く、丁寧な字。


翠の字ではない。



忘れれば、辛くありません。



翠は日記帳を閉じた。


部屋が静かだった。


エアコンの音だけがする。


外では蝉が鳴いている。


真夏の夕方。


普通の日。


なのに、机の上のお守りだけが、少しずつ熱を持っているように見えた。


翠はスマホを握りしめた。


神崎に連絡したい。


でも、連絡先がない。


大学のポータルサイトで名前を検索すれば、メールアドレスくらい見つかるかもしれない。


そう思って、ノートパソコンを開いた。


検索欄に打つ。


神崎浩康。


結果は出た。


同じ学部。


同じ学年。


存在している。


でも、プロフィールにはこう書かれていた。


三河翠との共通履修:なし


いや、あった。


一緒に受けた講義があった。


隣に座ったこともある。


ノートを見せてもらったこともある。


翠は必死で記憶を掴もうとした。


けれど、掴むそばから崩れていく。


神崎の笑い方。


声。


手の温度。


全部、輪郭が薄くなっていく。


「やだ」


翠は声に出した。


「忘れたくない」


その時。


日記帳が、机の上で少し動いた。


ず。


ほんの数センチ。


翠は固まった。


風はない。


窓も閉めている。


机は傾いていない。


日記帳が、もう一度動いた。


ず。


机の端へ。


「やめて」


翠は手を伸ばした。


日記帳を押さえる。


その瞬間、ページが勝手に開いた。


最後のページ。


さっきまでの文字が、薄くなっている。


神崎浩康は、私の彼氏だった。


その一文が、ゆっくり消えていく。


鉛筆を消しゴムで消すみたいに。


「やめて!」


翠はペンを取って、上から書こうとした。


でも、手が止まった。


神崎。


下の名前は?


浩康。


読み方は?


ひろやす。


本当に?


顔は?


どんな顔だった?


翠は、ペンを握ったまま震えた。


思い出せない。


さっきまで、思い出せていたのに。


日記の文字はさらに薄くなる。


映画に行った日。

手をつないだこと。

喧嘩したこと。

縁切り神社に行ったこと。


全部、少しずつ消えていく。


スマホが震えた。



【LINE】


17:02 

ふたつ、切れました。



翠は、泣きそうになりながら日記を抱えた。


「違う」


「違う、お願い」


「そういう意味じゃなかった」


部屋のどこかで、鈴の音がした。


ちりん。


縁切り神社の鈴。


翠は、お守りを財布から取り出した。


握りしめる。


熱い。


でも離せない。


「返してください」


誰に言っているのか分からなかった。


神様に。


日記に。


自分に。


「切らなくていいです。私が悪かったです。戻してください」


返事はなかった。


ただ、スマホにもう一通届いた。



【LINE】


17:05 

願いは、途中で戻せません。



翠は泣いた。


でも、涙が出ている理由も、少しずつ分からなくなっていった。


胸が苦しい。


でも、何が苦しいのか分からない。


神崎浩康。


名前は分かる。


顔は?


声は?


彼氏?


本当に?


もしかして、ただの同級生だったのでは。


毎朝挨拶していたから、勝手に親しいと思い込んだだけでは。


LINEで話していたと思ったのも、夢か妄想では。


翠は、自分が怖くなった。


日記帳には何か書いてある。


でも、文字が滲んで読みにくい。


本当に自分が書いたのかも分からない。


「私、何してたんだろ」


そう呟いた時。


不意に、胸の重さがすっと軽くなった。


まるで、きつく結ばれていた紐を切られたみたいに。


苦しさが消えた。


怒りも。


未練も。


怖さも。


ただ、空白だけが残った。


翠は、机の上のお守りを見た。


「なんでこんなの持ってるんだっけ」


縁切りのお守り。


そういえば、家の近くの神社で買った気がする。


何の縁を切りたかったのかは、思い出せない。


でも、少し気分が楽だった。



翌日。


大学のエントランスホールで、翠は神崎浩康とすれ違った。


彼が軽く会釈した。


翠も会釈した。


「おはようございます」


「おはようございます」


それだけ。


翠は、特に何も感じなかった。


知らない人ではない。


でも、親しくもない。


同じ大学の男子学生。


それだけ。


神崎は、少しだけ翠を見ていた。


何か言いたそうだった。


でも、結局何も言わなかった。


翠はそのまま講義棟へ向かった。


スマホには、新しいLINEが来ていた。


同じゼミの男子からだった。


最近よく話すようになった人。


名前は、瀬戸。



【LINE】


09:14 瀬戸

今日の講義終わったらカフェ行かない?


09:15 翠

いいよ


09:15 瀬戸

やった


09:16 翠

駅前のとこ?


09:16 瀬戸

そう

翠さん好きそうだと思って


09:17 翠

なんで分かるの


09:17 瀬戸

なんとなく



翠は少し笑った。


悪くない気分だった。


その日の帰り、瀬戸とカフェに行った。


それから少しずつ仲良くなった。


三ヶ月後には付き合い始めた。


瀬戸は穏やかで、翠が感情的になっても、強く責めなかった。


翠も、少しずつ落ち着いた。


縁切りのお守りは、いつの間にか財布から消えていた。


翠は気づかなかった。


神崎浩康とは、大学でたまにすれ違うだけになった。


彼も、そのうち翠に会釈しなくなった。


完全な他人。


そういう関係になった。


翠は幸せだった。


本当に。


たぶん。



ただ、一つだけ残ったものがあった。


翠の部屋の机の上。


水色の表紙の日記帳。


そこには、かつて神崎浩康との思い出が書かれていた。


でも、今はもうほとんど白紙だった。


映画のことも。

手をつないだことも。

喧嘩したことも。

縁切り神社のことも。


すべて薄くなり、読めなくなっていた。


翠は、その日記帳の存在を忘れていた。


机の端に置かれたまま。


誰にも開かれないまま。


ある夜。


翠が瀬戸と電話しながら笑っていた時。


日記帳が、机の上で少しだけ動いた。


ず。


誰も見ていない。


ず。


机の端へ。


ず。


床へ落ちる寸前で、黒と白の紐がどこからか伸びた。


縁切りのお守りについていた紐と同じ色だった。


その紐が、日記帳の表紙に絡みつく。


ず。


日記帳は、机の下へ引きずられた。


さらに奥へ。


カーテンの陰へ。


家具の隙間へ。


ゆっくり。


ゆっくり。


まるで、誰かが大事な証拠を片づけるみたいに。


最後に、日記帳のページが一枚だけ開いた。


そこには、まだ消え残った文字があった。



私は、別れたかったわけじゃない。



その一文も、数秒後には薄れて消えた。


部屋では、翠が電話口で笑っていた。


「うん、明日も会いたい」


幸せそうな声だった。


だから、きっとこれで良かったのだろう。


少なくとも、翠はそう思っている。


今の翠は、神崎浩康のことを知らない。


彼と恋人だったことも。

彼と喧嘩したことも。

彼を失いたくなかったことも。

神様に願ってしまったことも。


何も知らない。


知らないから、つらくない。


知らないから、幸せでいられる。


ただ、大学のエントランスホールで神崎浩康とすれ違うたび。


翠はほんの一瞬だけ、胸の奥が冷たくなる。


理由は分からない。


分からないまま、通り過ぎる。


神崎も、何も言わない。


二人の間には、もう何もない。


縁が切れたのだから。


きれいに。


何も残らないくらい。


きれいに。

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