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怖い話_続  作者: 三葉


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8/27

縁切りのお守り

三河翠は、ずっと変だと思っていた。


神崎浩康。


同じ大学の男子学生。


LINEでは、よく喋る。


夜中までくだらない話をする。

授業の愚痴も言う。

好きな映画の話もする。

コンビニの新作スイーツの話で、三十分くらい盛り上がる。


なのに。


大学で会うと、彼はよそよそしかった。


エントランスホールですれ違っても。


食堂の前で目が合っても。


講義棟の階段ですれ違っても。


「あ、おはようございます」


そのくらい。


しかも、少し困った顔をする。


まるで、そこまで親しくない相手に挨拶されたみたいに。


翠は、それがずっと引っかかっていた。


⸻


【LINE】


23:41 翠

明日一限ある?


23:42 神崎

あります

正直きついです


23:42 翠

私も

朝起きられる気がしない


23:43 神崎

三河さんは起きられそう


23:43 翠

なんで


23:44 神崎

ちゃんとしてそうだから


23:44 翠

全然してない


23:45 神崎

じゃあ明日、起きられたら勝ちですね


23:45 翠

勝ったら褒めて


23:46 神崎

考えておきます


⸻


こんな感じで話していた。


少し距離はある。


でも、やさしい。


翠は毎晩、それを楽しみにしていた。


だから余計に、対面の態度が分からなかった。


⸻


その日の朝。


大学のエントランスホールは、いつも通り人で混んでいた。


自動ドアから学生が流れ込む。

掲示板の前で立ち止まる人がいる。

奥のベンチには、眠そうな顔でスマホを見る学生たち。


翠は、入口近くで神崎を見つけた。


白いシャツ。

黒いリュック。

少し眠そうな目。


いつもの神崎だった。


翠は、思い切って近づいた。


「神崎くん」


神崎は振り返った。


「あ、三河さん。おはようございます」


丁寧。


丁寧すぎる。


翠は、その距離感に少しだけ傷ついた。


でも、今日は逃げないと決めていた。


「ちょっと聞いていい?」


「はい」


「普段はLINEでよく話してくれるけど」


神崎の眉が、少し動いた。


「どうして対面だと、そんなによそよそしいの?」


言った。


言ってしまった。


心臓が変な音を立てた。


周りの学生の声が、急に遠くなる。


神崎は、困ったように翠を見た。


「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃなくて」


「僕、前から思ってたんですけど」


「うん」


「あなたのこと、よく知らなくて」


翠は、言葉を失った。


「え?」


「毎朝、挨拶してくれますよね」


「うん」


「返さないのも失礼だと思って、返してたんですけど」


神崎は、申し訳なさそうに言った。


「三河さんと、ちゃんと話したことって、ほとんどないと思うんです」


翠は笑おうとした。


冗談だと思いたかった。


「いや、LINEしてるじゃん」


「LINE?」


「昨日も話したよね。一限起きられるかって」


神崎は、さらに困った顔をした。


「すみません」


「え?」


「僕、三河さんのLINE、知らないです」


その瞬間。


エントランスホールの音が、全部消えたような気がした。


⸻


【LINE】


09:12 翠

ちょっと待って


09:12 翠

神崎くんとのLINEがない


⸻


翠は、誰に送ったわけでもなかった。


ただ、メモ代わりに自分のトークへ打ち込んだ。


手が震えていた。


スマホを開く。


トーク一覧。


神崎浩康。


ない。


検索する。


神崎。

浩康。

かんざき。

ひろやす。


ない。


連絡先にもない。


ブロックリストにもない。


削除した履歴もない。


アルバムもない。

ノートもない。

通話履歴もない。


昨日の夜、あれだけ話したはずなのに。


何もない。


まるで、最初から存在しなかったみたいに。


翠は、エントランスの柱にもたれた。


気持ち悪い。


頭の奥が、すっと冷える。


神崎はまだ近くにいた。


心配そうにしている。


でも、それは恋人や友人を見る目ではなかった。


具合の悪そうな同級生を見ている目だった。


「三河さん、大丈夫ですか?」


その呼び方が、刺さった。


三河さん。


昨日のLINEでは、もっと近かった気がする。


いや。


本当に昨日、LINEしていた?


翠は、自分の記憶を疑い始めた。

覚えている記憶を書き出してみる。

⸻


【メモアプリ】


神崎くんとLINEしてた。

たぶん。

毎晩話してた。

でも履歴がない。

連絡先もない。

交換した記憶もない。

でも、毎朝挨拶してた。

彼は変な顔をしてた。

私は何と話してた?


⸻


講義は、ほとんど頭に入らなかった。


神崎は同じ講義にいた。


少し離れた席に座っていた。


翠が見ると、目が合った。


神崎は軽く会釈した。


やっぱり他人だった。


それが怖かった。


他人なのに。


私はこの人の好きな映画を知っている気がする。

苦手な食べ物も知っている気がする。

雨の日に頭痛が出ることも。

左利きなのに箸だけ右で持つことも。


知っている。


でも、どこで知ったのか分からない。


スマホには何も残っていない。


記憶だけが、輪郭のないまま残っている。


人間の記憶は、自分のもののくせに信用できない。

本当に面倒な管理システムである。


昼過ぎ。


翠は帰宅した。


大学にいるのが怖かった。


部屋に戻るなり、机の引き出しを開けた。


日記帳。


翠は高校の頃から、毎日ではないけれど日記を書いていた。


感情がぐちゃぐちゃになった時ほど書く。


書けば少し落ち着く。


そう思っていた。


水色の表紙の日記帳。


角が少し擦れている。


翠はそれを開いた。


一番最近のページを見る。


⸻


【日記】


七月十日


今日は浩康と映画を観に行った。

駅で待ち合わせ。

少し遅れてきたけど、汗だくで走ってきたから許した。

ポップコーンは塩。

浩康はキャラメル派だったけど、私に合わせてくれた。

帰りに手をつないだ。

少し恥ずかしかった。

でも嬉しかった。


⸻


翠は息を止めた。


浩康。


神崎浩康。


日記には、はっきり書いてある。


恋人みたいな内容。


いや、恋人だった。


そうだ。


だったはず。


胸の奥で、何かが動いた。


記憶が、沈んだ水底から浮かぶみたいに。


映画館。

手をつないだ帰り道。

神崎の照れた顔。


あった。


確かに、あった。


翠はさらにページをめくった。


⸻


【日記】


七月二十二日


浩康とまた喧嘩した。

私が悪い部分もある。

でも、浩康も悪い。

なんであんな言い方するの。

「翠はすぐ感情的になる」って言われた。

分かってる。

分かってるけど、好きな人に言われると余計に腹が立つ。

帰り道、涙が止まらなかった。


⸻


七月二十三日。


⸻


【日記】


浩康からLINEが来た。

謝ってくれてた。

でも既読をつけられなかった。

つけたら許さなきゃいけない気がした。

本当は仲直りしたい。

でも今は顔も見たくない。

こんな自分が嫌になる。


⸻


七月二十四日。


文字が少し乱れていた。


⸻


【日記】


家の近くの縁切り神社に行った。


ずっと前からある小さい神社。

お母さんは「あそこは軽い気持ちで行くところじゃない」と言っていた。

でも、今日は行ってしまった。


浩康のことが好き。

別れたいわけじゃない。

でも、つらい。

考えると胸が苦しい。

腹が立つ。

泣きたくなる。


だからお願いした。


「かみさま、かれとの縁を切ってください。辛いです」


お願いした後、縁切りのお守りを買った。

黒と白の紐がついている。

財布に入れた。


帰り道、少しだけ楽になった気がした。


でも、なんでだろう。

怖い。


⸻


翠は、財布を開けた。


中に、お守りが入っていた。


黒と白の紐。


小さな布袋。


表には、金色の糸でこう刺繍されている。


縁切守


見た瞬間、手が冷えた。


覚えていない。


いや、少しだけ覚えている。


雨上がりの夕方。

石段。

誰もいない境内。

鈴の音。

お守りを渡してくれた、顔の見えない社務所の人。


「切ってよろしいですね」


そう聞かれた気がする。


翠はその時、なんと答えた?


分からない。


分からないけれど、願った。


確かに願った。


⸻


スマホが震えた。


知らないアカウントからLINEが来ていた。


友だち追加した覚えはない。


名前は空白。


アイコンもない。


本文だけ。


⸻


【LINE】


16:38 

ひとつ、切れました。


⸻


翠は、スマホを落としそうになった。


すぐにトーク一覧を見た。


今のアカウントは、もう消えていた。


通知だけが残っている。


トークはない。


翠は日記に戻った。


次のページ。


七月二十五日。


⸻


【日記】


朝、浩康に会った。

挨拶したら、変な顔をされた。

昨日まで彼氏だったのに。

いや、彼氏だったよね?

浩康とのLINEが少し減っていた。

トーク履歴の上の方が消えていた気がする。

でもまだ残ってる。

怖い。


⸻


七月二十六日。


⸻


【日記】


浩康との写真が消えた。

スマホにない。

アルバムにもない。

でも日記には書いてある。

私は浩康と付き合っていた。

手をつないだ。

映画に行った。

喧嘩した。

好きだった。

好き、だった?


⸻


翠はページをめくる手を止められなかった。


七月二十七日。


⸻


【日記】


浩康の声を忘れかけている。


LINEはまだ来る。

でも、神崎浩康という名前じゃなくなっている。

表示名が空白。

それでも文面を見ると、浩康だと分かる。

たぶん。


「今日、大学来ますか」

「無理しないでください」

「ちゃんと食べてください」


こんなにやさしいのに。

私は何を願ったんだろう。


⸻


七月二十八日。


⸻


【日記】


浩康に挨拶した。

彼は「おはようございます」と言った。

他人みたいだった。

LINEでは「おはよう」と来ていた。

でも、大学で会うと他人。

どっちが本物?


お守りを捨てようとした。

でも捨てられなかった。

手から離れなかった。


⸻


七月二十九日。


今日の日付。


文字は、震えていた。


⸻


【日記】


もしこれを読んでいる私が、浩康のことを忘れていたら。


思い出して。


神崎浩康は、私の彼氏だった。


優しかった。

少し不器用だった。

怒ると黙るところが嫌だった。

でも、私が泣くといつも困った顔をして、ハンカチをくれた。

私のことを、翠と呼んでいた。


別れたかったわけじゃない。


縁を切りたかったわけじゃない。


ただ、つらくて、腹が立って、どうにかしてほしかっただけ。


神様は、たぶん本当に聞いてくれた。

でも違う。

そういう意味じゃない。


お願い。

忘れないで。


浩康を忘れないで。


⸻


その下に、違う筆跡で文字があった。


細く、丁寧な字。


翠の字ではない。


⸻


忘れれば、辛くありません。


⸻


翠は日記帳を閉じた。


部屋が静かだった。


エアコンの音だけがする。


外では蝉が鳴いている。


真夏の夕方。


普通の日。


なのに、机の上のお守りだけが、少しずつ熱を持っているように見えた。


翠はスマホを握りしめた。


神崎に連絡したい。


でも、連絡先がない。


大学のポータルサイトで名前を検索すれば、メールアドレスくらい見つかるかもしれない。


そう思って、ノートパソコンを開いた。


検索欄に打つ。


神崎浩康。


結果は出た。


同じ学部。


同じ学年。


存在している。


でも、プロフィールにはこう書かれていた。


三河翠との共通履修:なし


いや、あった。


一緒に受けた講義があった。


隣に座ったこともある。


ノートを見せてもらったこともある。


翠は必死で記憶を掴もうとした。


けれど、掴むそばから崩れていく。


神崎の笑い方。


声。


手の温度。


全部、輪郭が薄くなっていく。


「やだ」


翠は声に出した。


「忘れたくない」


その時。


日記帳が、机の上で少し動いた。


ず。


ほんの数センチ。


翠は固まった。


風はない。


窓も閉めている。


机は傾いていない。


日記帳が、もう一度動いた。


ず。


机の端へ。


「やめて」


翠は手を伸ばした。


日記帳を押さえる。


その瞬間、ページが勝手に開いた。


最後のページ。


さっきまでの文字が、薄くなっている。


神崎浩康は、私の彼氏だった。


その一文が、ゆっくり消えていく。


鉛筆を消しゴムで消すみたいに。


「やめて!」


翠はペンを取って、上から書こうとした。


でも、手が止まった。


神崎。


下の名前は?


浩康。


読み方は?


ひろやす。


本当に?


顔は?


どんな顔だった?


翠は、ペンを握ったまま震えた。


思い出せない。


さっきまで、思い出せていたのに。


日記の文字はさらに薄くなる。


映画に行った日。

手をつないだこと。

喧嘩したこと。

縁切り神社に行ったこと。


全部、少しずつ消えていく。


スマホが震えた。


⸻


【LINE】


17:02 

ふたつ、切れました。


⸻


翠は、泣きそうになりながら日記を抱えた。


「違う」


「違う、お願い」


「そういう意味じゃなかった」


部屋のどこかで、鈴の音がした。


ちりん。


縁切り神社の鈴。


翠は、お守りを財布から取り出した。


握りしめる。


熱い。


でも離せない。


「返してください」


誰に言っているのか分からなかった。


神様に。


日記に。


自分に。


「切らなくていいです。私が悪かったです。戻してください」


返事はなかった。


ただ、スマホにもう一通届いた。


⸻


【LINE】


17:05 

願いは、途中で戻せません。


⸻


翠は泣いた。


でも、涙が出ている理由も、少しずつ分からなくなっていった。


胸が苦しい。


でも、何が苦しいのか分からない。


神崎浩康。


名前は分かる。


顔は?


声は?


彼氏?


本当に?


もしかして、ただの同級生だったのでは。


毎朝挨拶していたから、勝手に親しいと思い込んだだけでは。


LINEで話していたと思ったのも、夢か妄想では。


翠は、自分が怖くなった。


日記帳には何か書いてある。


でも、文字が滲んで読みにくい。


本当に自分が書いたのかも分からない。


「私、何してたんだろ」


そう呟いた時。


不意に、胸の重さがすっと軽くなった。


まるで、きつく結ばれていた紐を切られたみたいに。


苦しさが消えた。


怒りも。


未練も。


怖さも。


ただ、空白だけが残った。


翠は、机の上のお守りを見た。


「なんでこんなの持ってるんだっけ」


縁切りのお守り。


そういえば、家の近くの神社で買った気がする。


何の縁を切りたかったのかは、思い出せない。


でも、少し気分が楽だった。


⸻


翌日。


大学のエントランスホールで、翠は神崎浩康とすれ違った。


彼が軽く会釈した。


翠も会釈した。


「おはようございます」


「おはようございます」


それだけ。


翠は、特に何も感じなかった。


知らない人ではない。


でも、親しくもない。


同じ大学の男子学生。


それだけ。


神崎は、少しだけ翠を見ていた。


何か言いたそうだった。


でも、結局何も言わなかった。


翠はそのまま講義棟へ向かった。


スマホには、新しいLINEが来ていた。


同じゼミの男子からだった。


最近よく話すようになった人。


名前は、瀬戸。


⸻


【LINE】


09:14 瀬戸

今日の講義終わったらカフェ行かない?


09:15 翠

いいよ


09:15 瀬戸

やった


09:16 翠

駅前のとこ?


09:16 瀬戸

そう

翠さん好きそうだと思って


09:17 翠

なんで分かるの


09:17 瀬戸

なんとなく


⸻


翠は少し笑った。


悪くない気分だった。


その日の帰り、瀬戸とカフェに行った。


それから少しずつ仲良くなった。


三ヶ月後には付き合い始めた。


瀬戸は穏やかで、翠が感情的になっても、強く責めなかった。


翠も、少しずつ落ち着いた。


縁切りのお守りは、いつの間にか財布から消えていた。


翠は気づかなかった。


神崎浩康とは、大学でたまにすれ違うだけになった。


彼も、そのうち翠に会釈しなくなった。


完全な他人。


そういう関係になった。


翠は幸せだった。


本当に。


たぶん。


⸻


ただ、一つだけ残ったものがあった。


翠の部屋の机の上。


水色の表紙の日記帳。


そこには、かつて神崎浩康との思い出が書かれていた。


でも、今はもうほとんど白紙だった。


映画のことも。

手をつないだことも。

喧嘩したことも。

縁切り神社のことも。


すべて薄くなり、読めなくなっていた。


翠は、その日記帳の存在を忘れていた。


机の端に置かれたまま。


誰にも開かれないまま。


ある夜。


翠が瀬戸と電話しながら笑っていた時。


日記帳が、机の上で少しだけ動いた。


ず。


誰も見ていない。


ず。


机の端へ。


ず。


床へ落ちる寸前で、黒と白の紐がどこからか伸びた。


縁切りのお守りについていた紐と同じ色だった。


その紐が、日記帳の表紙に絡みつく。


ず。


日記帳は、机の下へ引きずられた。


さらに奥へ。


カーテンの陰へ。


家具の隙間へ。


ゆっくり。


ゆっくり。


まるで、誰かが大事な証拠を片づけるみたいに。


最後に、日記帳のページが一枚だけ開いた。


そこには、まだ消え残った文字があった。


⸻


私は、別れたかったわけじゃない。


⸻


その一文も、数秒後には薄れて消えた。


部屋では、翠が電話口で笑っていた。


「うん、明日も会いたい」


幸せそうな声だった。


だから、きっとこれで良かったのだろう。


少なくとも、翠はそう思っている。


今の翠は、神崎浩康のことを知らない。


彼と恋人だったことも。

彼と喧嘩したことも。

彼を失いたくなかったことも。

神様に願ってしまったことも。


何も知らない。


知らないから、つらくない。


知らないから、幸せでいられる。


ただ、大学のエントランスホールで神崎浩康とすれ違うたび。


翠はほんの一瞬だけ、胸の奥が冷たくなる。


理由は分からない。


分からないまま、通り過ぎる。


神崎も、何も言わない。


二人の間には、もう何もない。


縁が切れたのだから。


きれいに。


何も残らないくらい。


きれいに。

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