縁切りのお守り
三河翠は、ずっと変だと思っていた。
神崎浩康。
同じ大学の男子学生。
LINEでは、よく喋る。
夜中までくだらない話をする。
授業の愚痴も言う。
好きな映画の話もする。
コンビニの新作スイーツの話で、三十分くらい盛り上がる。
なのに。
大学で会うと、彼はよそよそしかった。
エントランスホールですれ違っても。
食堂の前で目が合っても。
講義棟の階段ですれ違っても。
「あ、おはようございます」
そのくらい。
しかも、少し困った顔をする。
まるで、そこまで親しくない相手に挨拶されたみたいに。
翠は、それがずっと引っかかっていた。
⸻
【LINE】
23:41 翠
明日一限ある?
23:42 神崎
あります
正直きついです
23:42 翠
私も
朝起きられる気がしない
23:43 神崎
三河さんは起きられそう
23:43 翠
なんで
23:44 神崎
ちゃんとしてそうだから
23:44 翠
全然してない
23:45 神崎
じゃあ明日、起きられたら勝ちですね
23:45 翠
勝ったら褒めて
23:46 神崎
考えておきます
⸻
こんな感じで話していた。
少し距離はある。
でも、やさしい。
翠は毎晩、それを楽しみにしていた。
だから余計に、対面の態度が分からなかった。
⸻
その日の朝。
大学のエントランスホールは、いつも通り人で混んでいた。
自動ドアから学生が流れ込む。
掲示板の前で立ち止まる人がいる。
奥のベンチには、眠そうな顔でスマホを見る学生たち。
翠は、入口近くで神崎を見つけた。
白いシャツ。
黒いリュック。
少し眠そうな目。
いつもの神崎だった。
翠は、思い切って近づいた。
「神崎くん」
神崎は振り返った。
「あ、三河さん。おはようございます」
丁寧。
丁寧すぎる。
翠は、その距離感に少しだけ傷ついた。
でも、今日は逃げないと決めていた。
「ちょっと聞いていい?」
「はい」
「普段はLINEでよく話してくれるけど」
神崎の眉が、少し動いた。
「どうして対面だと、そんなによそよそしいの?」
言った。
言ってしまった。
心臓が変な音を立てた。
周りの学生の声が、急に遠くなる。
神崎は、困ったように翠を見た。
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃなくて」
「僕、前から思ってたんですけど」
「うん」
「あなたのこと、よく知らなくて」
翠は、言葉を失った。
「え?」
「毎朝、挨拶してくれますよね」
「うん」
「返さないのも失礼だと思って、返してたんですけど」
神崎は、申し訳なさそうに言った。
「三河さんと、ちゃんと話したことって、ほとんどないと思うんです」
翠は笑おうとした。
冗談だと思いたかった。
「いや、LINEしてるじゃん」
「LINE?」
「昨日も話したよね。一限起きられるかって」
神崎は、さらに困った顔をした。
「すみません」
「え?」
「僕、三河さんのLINE、知らないです」
その瞬間。
エントランスホールの音が、全部消えたような気がした。
⸻
【LINE】
09:12 翠
ちょっと待って
09:12 翠
神崎くんとのLINEがない
⸻
翠は、誰に送ったわけでもなかった。
ただ、メモ代わりに自分のトークへ打ち込んだ。
手が震えていた。
スマホを開く。
トーク一覧。
神崎浩康。
ない。
検索する。
神崎。
浩康。
かんざき。
ひろやす。
ない。
連絡先にもない。
ブロックリストにもない。
削除した履歴もない。
アルバムもない。
ノートもない。
通話履歴もない。
昨日の夜、あれだけ話したはずなのに。
何もない。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
翠は、エントランスの柱にもたれた。
気持ち悪い。
頭の奥が、すっと冷える。
神崎はまだ近くにいた。
心配そうにしている。
でも、それは恋人や友人を見る目ではなかった。
具合の悪そうな同級生を見ている目だった。
「三河さん、大丈夫ですか?」
その呼び方が、刺さった。
三河さん。
昨日のLINEでは、もっと近かった気がする。
いや。
本当に昨日、LINEしていた?
翠は、自分の記憶を疑い始めた。
覚えている記憶を書き出してみる。
⸻
【メモアプリ】
神崎くんとLINEしてた。
たぶん。
毎晩話してた。
でも履歴がない。
連絡先もない。
交換した記憶もない。
でも、毎朝挨拶してた。
彼は変な顔をしてた。
私は何と話してた?
⸻
講義は、ほとんど頭に入らなかった。
神崎は同じ講義にいた。
少し離れた席に座っていた。
翠が見ると、目が合った。
神崎は軽く会釈した。
やっぱり他人だった。
それが怖かった。
他人なのに。
私はこの人の好きな映画を知っている気がする。
苦手な食べ物も知っている気がする。
雨の日に頭痛が出ることも。
左利きなのに箸だけ右で持つことも。
知っている。
でも、どこで知ったのか分からない。
スマホには何も残っていない。
記憶だけが、輪郭のないまま残っている。
人間の記憶は、自分のもののくせに信用できない。
本当に面倒な管理システムである。
昼過ぎ。
翠は帰宅した。
大学にいるのが怖かった。
部屋に戻るなり、机の引き出しを開けた。
日記帳。
翠は高校の頃から、毎日ではないけれど日記を書いていた。
感情がぐちゃぐちゃになった時ほど書く。
書けば少し落ち着く。
そう思っていた。
水色の表紙の日記帳。
角が少し擦れている。
翠はそれを開いた。
一番最近のページを見る。
⸻
【日記】
七月十日
今日は浩康と映画を観に行った。
駅で待ち合わせ。
少し遅れてきたけど、汗だくで走ってきたから許した。
ポップコーンは塩。
浩康はキャラメル派だったけど、私に合わせてくれた。
帰りに手をつないだ。
少し恥ずかしかった。
でも嬉しかった。
⸻
翠は息を止めた。
浩康。
神崎浩康。
日記には、はっきり書いてある。
恋人みたいな内容。
いや、恋人だった。
そうだ。
だったはず。
胸の奥で、何かが動いた。
記憶が、沈んだ水底から浮かぶみたいに。
映画館。
手をつないだ帰り道。
神崎の照れた顔。
あった。
確かに、あった。
翠はさらにページをめくった。
⸻
【日記】
七月二十二日
浩康とまた喧嘩した。
私が悪い部分もある。
でも、浩康も悪い。
なんであんな言い方するの。
「翠はすぐ感情的になる」って言われた。
分かってる。
分かってるけど、好きな人に言われると余計に腹が立つ。
帰り道、涙が止まらなかった。
⸻
七月二十三日。
⸻
【日記】
浩康からLINEが来た。
謝ってくれてた。
でも既読をつけられなかった。
つけたら許さなきゃいけない気がした。
本当は仲直りしたい。
でも今は顔も見たくない。
こんな自分が嫌になる。
⸻
七月二十四日。
文字が少し乱れていた。
⸻
【日記】
家の近くの縁切り神社に行った。
ずっと前からある小さい神社。
お母さんは「あそこは軽い気持ちで行くところじゃない」と言っていた。
でも、今日は行ってしまった。
浩康のことが好き。
別れたいわけじゃない。
でも、つらい。
考えると胸が苦しい。
腹が立つ。
泣きたくなる。
だからお願いした。
「かみさま、かれとの縁を切ってください。辛いです」
お願いした後、縁切りのお守りを買った。
黒と白の紐がついている。
財布に入れた。
帰り道、少しだけ楽になった気がした。
でも、なんでだろう。
怖い。
⸻
翠は、財布を開けた。
中に、お守りが入っていた。
黒と白の紐。
小さな布袋。
表には、金色の糸でこう刺繍されている。
縁切守
見た瞬間、手が冷えた。
覚えていない。
いや、少しだけ覚えている。
雨上がりの夕方。
石段。
誰もいない境内。
鈴の音。
お守りを渡してくれた、顔の見えない社務所の人。
「切ってよろしいですね」
そう聞かれた気がする。
翠はその時、なんと答えた?
分からない。
分からないけれど、願った。
確かに願った。
⸻
スマホが震えた。
知らないアカウントからLINEが来ていた。
友だち追加した覚えはない。
名前は空白。
アイコンもない。
本文だけ。
⸻
【LINE】
16:38
ひとつ、切れました。
⸻
翠は、スマホを落としそうになった。
すぐにトーク一覧を見た。
今のアカウントは、もう消えていた。
通知だけが残っている。
トークはない。
翠は日記に戻った。
次のページ。
七月二十五日。
⸻
【日記】
朝、浩康に会った。
挨拶したら、変な顔をされた。
昨日まで彼氏だったのに。
いや、彼氏だったよね?
浩康とのLINEが少し減っていた。
トーク履歴の上の方が消えていた気がする。
でもまだ残ってる。
怖い。
⸻
七月二十六日。
⸻
【日記】
浩康との写真が消えた。
スマホにない。
アルバムにもない。
でも日記には書いてある。
私は浩康と付き合っていた。
手をつないだ。
映画に行った。
喧嘩した。
好きだった。
好き、だった?
⸻
翠はページをめくる手を止められなかった。
七月二十七日。
⸻
【日記】
浩康の声を忘れかけている。
LINEはまだ来る。
でも、神崎浩康という名前じゃなくなっている。
表示名が空白。
それでも文面を見ると、浩康だと分かる。
たぶん。
「今日、大学来ますか」
「無理しないでください」
「ちゃんと食べてください」
こんなにやさしいのに。
私は何を願ったんだろう。
⸻
七月二十八日。
⸻
【日記】
浩康に挨拶した。
彼は「おはようございます」と言った。
他人みたいだった。
LINEでは「おはよう」と来ていた。
でも、大学で会うと他人。
どっちが本物?
お守りを捨てようとした。
でも捨てられなかった。
手から離れなかった。
⸻
七月二十九日。
今日の日付。
文字は、震えていた。
⸻
【日記】
もしこれを読んでいる私が、浩康のことを忘れていたら。
思い出して。
神崎浩康は、私の彼氏だった。
優しかった。
少し不器用だった。
怒ると黙るところが嫌だった。
でも、私が泣くといつも困った顔をして、ハンカチをくれた。
私のことを、翠と呼んでいた。
別れたかったわけじゃない。
縁を切りたかったわけじゃない。
ただ、つらくて、腹が立って、どうにかしてほしかっただけ。
神様は、たぶん本当に聞いてくれた。
でも違う。
そういう意味じゃない。
お願い。
忘れないで。
浩康を忘れないで。
⸻
その下に、違う筆跡で文字があった。
細く、丁寧な字。
翠の字ではない。
⸻
忘れれば、辛くありません。
⸻
翠は日記帳を閉じた。
部屋が静かだった。
エアコンの音だけがする。
外では蝉が鳴いている。
真夏の夕方。
普通の日。
なのに、机の上のお守りだけが、少しずつ熱を持っているように見えた。
翠はスマホを握りしめた。
神崎に連絡したい。
でも、連絡先がない。
大学のポータルサイトで名前を検索すれば、メールアドレスくらい見つかるかもしれない。
そう思って、ノートパソコンを開いた。
検索欄に打つ。
神崎浩康。
結果は出た。
同じ学部。
同じ学年。
存在している。
でも、プロフィールにはこう書かれていた。
三河翠との共通履修:なし
いや、あった。
一緒に受けた講義があった。
隣に座ったこともある。
ノートを見せてもらったこともある。
翠は必死で記憶を掴もうとした。
けれど、掴むそばから崩れていく。
神崎の笑い方。
声。
手の温度。
全部、輪郭が薄くなっていく。
「やだ」
翠は声に出した。
「忘れたくない」
その時。
日記帳が、机の上で少し動いた。
ず。
ほんの数センチ。
翠は固まった。
風はない。
窓も閉めている。
机は傾いていない。
日記帳が、もう一度動いた。
ず。
机の端へ。
「やめて」
翠は手を伸ばした。
日記帳を押さえる。
その瞬間、ページが勝手に開いた。
最後のページ。
さっきまでの文字が、薄くなっている。
神崎浩康は、私の彼氏だった。
その一文が、ゆっくり消えていく。
鉛筆を消しゴムで消すみたいに。
「やめて!」
翠はペンを取って、上から書こうとした。
でも、手が止まった。
神崎。
下の名前は?
浩康。
読み方は?
ひろやす。
本当に?
顔は?
どんな顔だった?
翠は、ペンを握ったまま震えた。
思い出せない。
さっきまで、思い出せていたのに。
日記の文字はさらに薄くなる。
映画に行った日。
手をつないだこと。
喧嘩したこと。
縁切り神社に行ったこと。
全部、少しずつ消えていく。
スマホが震えた。
⸻
【LINE】
17:02
ふたつ、切れました。
⸻
翠は、泣きそうになりながら日記を抱えた。
「違う」
「違う、お願い」
「そういう意味じゃなかった」
部屋のどこかで、鈴の音がした。
ちりん。
縁切り神社の鈴。
翠は、お守りを財布から取り出した。
握りしめる。
熱い。
でも離せない。
「返してください」
誰に言っているのか分からなかった。
神様に。
日記に。
自分に。
「切らなくていいです。私が悪かったです。戻してください」
返事はなかった。
ただ、スマホにもう一通届いた。
⸻
【LINE】
17:05
願いは、途中で戻せません。
⸻
翠は泣いた。
でも、涙が出ている理由も、少しずつ分からなくなっていった。
胸が苦しい。
でも、何が苦しいのか分からない。
神崎浩康。
名前は分かる。
顔は?
声は?
彼氏?
本当に?
もしかして、ただの同級生だったのでは。
毎朝挨拶していたから、勝手に親しいと思い込んだだけでは。
LINEで話していたと思ったのも、夢か妄想では。
翠は、自分が怖くなった。
日記帳には何か書いてある。
でも、文字が滲んで読みにくい。
本当に自分が書いたのかも分からない。
「私、何してたんだろ」
そう呟いた時。
不意に、胸の重さがすっと軽くなった。
まるで、きつく結ばれていた紐を切られたみたいに。
苦しさが消えた。
怒りも。
未練も。
怖さも。
ただ、空白だけが残った。
翠は、机の上のお守りを見た。
「なんでこんなの持ってるんだっけ」
縁切りのお守り。
そういえば、家の近くの神社で買った気がする。
何の縁を切りたかったのかは、思い出せない。
でも、少し気分が楽だった。
⸻
翌日。
大学のエントランスホールで、翠は神崎浩康とすれ違った。
彼が軽く会釈した。
翠も会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけ。
翠は、特に何も感じなかった。
知らない人ではない。
でも、親しくもない。
同じ大学の男子学生。
それだけ。
神崎は、少しだけ翠を見ていた。
何か言いたそうだった。
でも、結局何も言わなかった。
翠はそのまま講義棟へ向かった。
スマホには、新しいLINEが来ていた。
同じゼミの男子からだった。
最近よく話すようになった人。
名前は、瀬戸。
⸻
【LINE】
09:14 瀬戸
今日の講義終わったらカフェ行かない?
09:15 翠
いいよ
09:15 瀬戸
やった
09:16 翠
駅前のとこ?
09:16 瀬戸
そう
翠さん好きそうだと思って
09:17 翠
なんで分かるの
09:17 瀬戸
なんとなく
⸻
翠は少し笑った。
悪くない気分だった。
その日の帰り、瀬戸とカフェに行った。
それから少しずつ仲良くなった。
三ヶ月後には付き合い始めた。
瀬戸は穏やかで、翠が感情的になっても、強く責めなかった。
翠も、少しずつ落ち着いた。
縁切りのお守りは、いつの間にか財布から消えていた。
翠は気づかなかった。
神崎浩康とは、大学でたまにすれ違うだけになった。
彼も、そのうち翠に会釈しなくなった。
完全な他人。
そういう関係になった。
翠は幸せだった。
本当に。
たぶん。
⸻
ただ、一つだけ残ったものがあった。
翠の部屋の机の上。
水色の表紙の日記帳。
そこには、かつて神崎浩康との思い出が書かれていた。
でも、今はもうほとんど白紙だった。
映画のことも。
手をつないだことも。
喧嘩したことも。
縁切り神社のことも。
すべて薄くなり、読めなくなっていた。
翠は、その日記帳の存在を忘れていた。
机の端に置かれたまま。
誰にも開かれないまま。
ある夜。
翠が瀬戸と電話しながら笑っていた時。
日記帳が、机の上で少しだけ動いた。
ず。
誰も見ていない。
ず。
机の端へ。
ず。
床へ落ちる寸前で、黒と白の紐がどこからか伸びた。
縁切りのお守りについていた紐と同じ色だった。
その紐が、日記帳の表紙に絡みつく。
ず。
日記帳は、机の下へ引きずられた。
さらに奥へ。
カーテンの陰へ。
家具の隙間へ。
ゆっくり。
ゆっくり。
まるで、誰かが大事な証拠を片づけるみたいに。
最後に、日記帳のページが一枚だけ開いた。
そこには、まだ消え残った文字があった。
⸻
私は、別れたかったわけじゃない。
⸻
その一文も、数秒後には薄れて消えた。
部屋では、翠が電話口で笑っていた。
「うん、明日も会いたい」
幸せそうな声だった。
だから、きっとこれで良かったのだろう。
少なくとも、翠はそう思っている。
今の翠は、神崎浩康のことを知らない。
彼と恋人だったことも。
彼と喧嘩したことも。
彼を失いたくなかったことも。
神様に願ってしまったことも。
何も知らない。
知らないから、つらくない。
知らないから、幸せでいられる。
ただ、大学のエントランスホールで神崎浩康とすれ違うたび。
翠はほんの一瞬だけ、胸の奥が冷たくなる。
理由は分からない。
分からないまま、通り過ぎる。
神崎も、何も言わない。
二人の間には、もう何もない。
縁が切れたのだから。
きれいに。
何も残らないくらい。
きれいに。




