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怖い話_続  作者: 三葉


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10/27

ゴリラのキーホルダーと降りる階

朝から、気が重かった。


琢磨は駅のホームで、スマホを見ていた。


出勤前の人間は、だいたい顔が死んでいる。


その中でも、今の自分はだいぶひどい方だと思った。


会社が倒産したのは、三週間前。


今の職場は、紹介で入ったアルバイトだった。


まだ試用期間。


社員でもない。

安定もしていない。

給料日も遠い。


貯金は少ない。


一人暮らしの家賃は待ってくれない。


そのうえ、先週、彼女と喧嘩別れした。


別れ際に言われた。


「琢磨って、ずっと宙ぶらりんだよね」


その言葉だけが、頭に残っていた。


宙ぶらりん。


否定できなかったのが、一番きつかった。


⸻


【LINE】


08:12 詩音

兄ちゃん起きてる?


08:12 琢磨

起きてるよん

もう電車だし


08:13 詩音

えらい


08:13 琢磨

成人男性に言う言葉か〜?


08:14 詩音

今の兄ちゃんには必要


08:14 琢磨

否定できないのが腹立つなァ


08:15 詩音

昼、会社近く行くからご飯食べよ


08:15 琢磨

いいの?


08:16 詩音

慰め会


08:16 琢磨

情けな


08:17 詩音

情けなくても食べるものは食べな


⸻


詩音は、こういう時だけ妙に頼りになる。


妹なのに。


いや、妹だからかもしれない。


変に励まさない。

でも、見捨てもしない。


昼に会う約束があるだけで、少しだけ会社へ行ける気がした。


琢磨は駅を出て、会社の入ったビルへ向かった。


六階にある小さな事務所。


今はそこで、データ入力と雑務をしている。


社員証はまだ仮のもの。


プラスチックケースの中に、紙のカードが入っているだけ。


鞄には、ゴリラのキーホルダーがついていた。


詩音が昔、くれたものだ。


丸い顔のゴリラ。


妙に真顔。


腹立つくらい堂々としている。


「兄ちゃん、メンタルだけでもゴリラになれ」


そう言って渡された。


いらないと言いながら、ずっとつけている。


人間、いらないものほど手放せない。

めんどくさい構造でできている。


⸻


ビルのエントランスに入る。


自動ドア。

白い床。

受付横の観葉植物。


いつも通りだった。


琢磨はエレベーターに乗った。


他には誰もいない。


ボタンを押す。


六階。


のつもりだった。


その時、スマホが震えた。


⸻


【LINE】


08:43 詩音

昼なに食べる?


08:43 琢磨

何でもいい


08:44 詩音

出た

一番困るやつ


08:44 琢磨

じゃあ定食


08:44 詩音

ざっくりすぎる


08:45 琢磨

揚げ物以外


08:45 詩音

胃もメンタルも弱ってるね


⸻


画面を見ながら、琢磨はエレベーターを降りた。


ドアが開いたから。


降りた。


それだけだった。


数歩歩いてから、違和感に気づいた。


暗い。


会社の六階は、朝から電気がついている。


誰かしらいる。


電話の音もする。

コピー機の音もする。

誰かの咳払いも聞こえる。


でも、そこは真っ暗だった。


完全な暗闇ではない。


非常灯だけが、ぼんやり廊下を照らしている。


薄い緑色の光。


壁も床も灰色に見える。


琢磨は顔を上げた。


目の前に、階数表示があった。


3F


「……あ」


三階を押していた。


六階じゃなくて。


ただの押し間違い。


そう思った。


二日酔いでもないのに、朝からこれか。


自分で自分にうんざりした。


琢磨は振り返った。


エレベーターのドアは、もう閉まっていた。


上ボタンを押す。


反応しない。


もう一度押す。


光らない。


「なんだよ」


ボタンが壊れているのかと思った。


でも、指先にはちゃんと押した感触がある。


ただ、ランプがつかない。


廊下の奥を見る。


人はいない。


三階って、何の会社が入っていたっけ。


思い出せない。


そもそも、三階で降りたことがない。


スマホを見る。


アンテナは一本。


ビルの中だし、そんなものか。


詩音にLINEした。


⸻


【LINE】


08:47 琢磨

間違えて3階で降りた


08:47 詩音

なにしてんの


08:48 琢磨

6階押したつもりだった


08:48 詩音

スマホ見ながら歩くから


08:48 琢磨

母親か


08:49 詩音

妹です


08:49 琢磨

エレベーター来ない


08:50 詩音

階段は?


08:50 琢磨

探す


⸻


琢磨は廊下を歩いた。


非常灯だけの廊下は、思ったより長かった。


左右に扉が並んでいる。


けれど、会社名のプレートがない。


普通なら、テナント名が貼ってあるはずだ。


代わりに、白い紙が貼られていた。


一枚目。


保留


二枚目。


仮置き


三枚目。


未決定


琢磨は足を止めた。


「なんだこれ」


紙は新しい。


印刷ではなく、手書きに見えた。


でも、字が妙にきれいすぎる。


人が書いたのに、人の癖がない。


さらに奥の扉には、こう書かれていた。


試用中


胸の奥が、嫌なふうに縮んだ。


試用中。


今の自分のことみたいだった。


気にしすぎだ。


ただの偶然。


琢磨はそう思おうとした。


でも、その奥の扉に貼られた紙を見て、足が止まった。


宙ぶらりん


その文字だけ、少し濡れていた。


黒いインクが下へ滲んでいる。


⸻


【LINE】


08:54 琢磨

変な階かも


08:54 詩音

何が?


08:55 琢磨

扉に保留とか仮置きとか書いてある


08:55 詩音

倉庫?


08:56 琢磨

分からん


08:56 琢磨

試用中って書いてる扉もある


08:57 詩音

兄ちゃん


08:57 琢磨

なに


08:58 詩音

戻った方がいいよ


08:58 琢磨

エレベーター来ないんだけど


08:59 詩音

階段探して


08:59 琢磨

探してるけどみなあたらない


⸻


送信した直後。


もう一通、詩音から来た。


⸻


08:59 詩音

そこは兄ちゃんみたいな人が降りる階だよ


⸻


琢磨は、画面を見つめた。


少し遅れて、詩音からまた来た。


⸻


09:00 詩音

ごめん

今の私じゃない


09:00 琢磨

は?


09:00 詩音

送ってない


09:01 琢磨

いや表示されてる


09:01 詩音

スクショ送って


09:01 琢磨

スクショ撮れない


09:02 詩音

なんで


09:02 琢磨

画面が暗くなる


⸻


実際、スクショを撮ろうとすると、画面が一瞬真っ暗になった。


スマホが古いわけじゃない。


壊れているわけでもない。


なのに、そのメッセージだけを残そうとすると、画面が消える。


琢磨は顔を上げた。


廊下が、さっきより暗い。


非常灯が遠くなっている。


いや、自分が奥へ進みすぎたのか。


戻ろう。


そう思って振り返った。


エレベーターの場所が見えなかった。


さっきまで真っ直ぐ歩いてきただけなのに。


廊下は、いつの間にか曲がっていた。


角なんてなかったはずなのに。


琢磨は喉が乾いた。


「嘘だろ」


声が、廊下に吸われた。


返ってこない。


普通、廊下なら少しは響く。


でも、音が布に吸われるみたいに消える。


スマホが震えた。


⸻


【LINE】


09:04 詩音

電話する


09:04 琢磨

待って


09:04 詩音

なんで


09:05 琢磨

音がしたら変なのも来そう


09:05 詩音

変なのって何


09:05 琢磨

分からん


09:06 詩音

兄ちゃん今、深呼吸して


09:06 詩音

ゴリラ持ってる?


⸻


ゴリラ。


琢磨は鞄を見た。


ゴリラのキーホルダーは、ちゃんとついていた。


非常灯の緑色の下で、真顔のゴリラが揺れている。


いつもなら間抜けに見える。


でも、その時は妙に安心した。


⸻


09:07 琢磨

持ってる


09:07 詩音

それ触って


09:07 琢磨

なんで


09:08 詩音

兄ちゃんがこっちの人間って分かるものだから


09:08 琢磨

雑な呪具みたいに言うな


09:08 詩音

真顔ゴリラを信じろ


09:09 琢磨

頼りなさすぎるって


09:09 詩音

今は頼れ

ゴリラは強いから


⸻


琢磨は、ゴリラのキーホルダーを握った。


硬い。


少し冷たい。


でも、ちゃんと手の中にある。


その感触だけが、妙に現実的だった。


会社が倒産したこと。

彼女と別れたこと。

今の仕事が試用期間なこと。


全部、ふわふわしていた。


でも、このゴリラだけは、昔から変わらず鞄についている。


詩音が笑いながら渡してきたことも覚えている。


「メンタルゴリラ計画」


そう言っていた。


馬鹿みたいな思い出だった。


その馬鹿みたいな記憶が、今はありがたかった。


廊下の奥から、音がした。


チン。


エレベーターの到着音。


琢磨は顔を上げた。


暗い廊下のずっと先。


エレベーターの扉があった。


いつの間に。


そこに。


表示はない。


上にも下にも、ランプはついていない。


ただ、扉だけが少し開いている。


中は暗い。


⸻


【LINE】


09:12 琢磨

エレベーターあった


09:12 詩音

乗らないで


09:12 琢磨

え


09:13 詩音

今の私じゃないかもしれないけど

乗らないで


09:13 琢磨

どういうこと


09:13 詩音

兄ちゃんから今LINE来た


09:14 詩音

「もう乗った」って


⸻


琢磨は、目の前のエレベーターを見た。


扉の隙間が、少し広がった。


まるで、待っているみたいに。


スマホに、またメッセージが来た。


詩音の名前で。


⸻


09:14 詩音

乗れば決まるよ


09:14 詩音

試用中じゃなくなるよ


09:15 詩音

保留じゃなくなるよ


09:15 詩音

どこにも戻らなくていいよ


⸻


琢磨の指が震えた。


それは少しだけ、甘い言葉だった。


戻らなくていい。


会社に行かなくていい。

金の心配もしなくていい。

彼女に言われたことも、思い出さなくていい。

何者でもないまま、どこかに置かれていればいい。


そういう誘惑だった。


情けないけれど。


一瞬、楽に見えた。


その時、詩音から本物のメッセージが来た。


なぜか、分かった。


文面が雑だったから。


⸻


09:16 詩音

兄ちゃん

そっちの私、文章きれいすぎ


09:16 詩音

私そんな丁寧に誘惑せん


09:17 詩音

戻って


09:17 詩音

昼ご飯食べるって言ったやろ

2人で食べにいこう


⸻


琢磨は、息を吐いた。


笑いそうになった。


泣きそうにもなった。


「そうだよな」


昼飯。


たかが昼飯。


でも、約束だった。


戻る理由としては、十分だった。


琢磨はエレベーターには近づかなかった。


ゴリラのキーホルダーを握ったまま、来た道を戻る。


廊下が曲がっている。


でも、歩く。


詩音にLINEを打つ。


⸻


【LINE】


09:18 琢磨

昼なに食うんだっけ


09:18 詩音

定食


09:18 琢磨

揚げ物以外


09:19 詩音

そう


09:19 琢磨

味噌汁ついてるやつ


09:19 詩音

弱った兄にやさしいやつ


09:20 琢磨

俺まだそっち戻れる?


09:20 詩音

戻れる


09:20 琢磨

根拠は


09:21 詩音

私が昼ご飯おごるって決めたから


09:21 琢磨

雑だよな、、いつも


09:21 詩音

戻ってこい


⸻


廊下の扉が、次々に開き始めた。


中は見えない。


真っ暗だった。


ただ、扉の奥から声がした。


「仮のままでいい」


「保留でいい」


「決めなくていい」


「戻っても苦しい」


「戻っても何もない」


それは、誰かの声ではなかった。


琢磨自身の声に似ていた。


心の底で、ずっと思っていたことだった。


戻っても苦しい。


戻っても金はない。

仕事も不安定。

恋人もいない。

将来も見えない。


なら、ここで止まってもいいんじゃないか。


そんな考えが、足元から絡みつく。


琢磨は、ゴリラを握りしめた。


「いや」


声が出た。


「俺、昼飯食うから」


ひどい台詞だった。


でも、その瞬間。


扉の奥の声が、少しだけ遠ざかった。


スマホが震える。


⸻


【LINE】


09:24 詩音

兄ちゃん


09:24 琢磨

なに


09:25 詩音

今から電話する


09:25 琢磨

音が怖いんだけど


09:25 詩音

音じゃなくて振動を頼って


09:26 詩音

バイブ鳴った方に進んで


09:26 詩音

声がしても無視


⸻


すぐに着信が来た。


琢磨は電話に出なかった。


ただ、スマホを握った。


ぶー。


ぶー。


手の中で震える。


その振動が、少し右から来ているような気がした。


そんなわけない。


スマホは手の中にある。


それでも、感覚として分かった。


右。


琢磨は右へ曲がった。


そこに通路があった。


さっきまで壁だった場所。


ぶー。


ぶー。


今度は前。


進む。


薄暗い廊下。


扉。


非常灯。


ぶー。


ぶー。


左。


曲がる。


すると、見覚えのある場所に出た。


最初に降りたエレベーターホール。


三階の表示。


閉じたエレベーター。


上ボタン。


琢磨は駆け寄った。


ボタンを押す。


今度は光った。


赤く。


普通の光だった。


こんなに普通の赤いランプで安心する日が来るとは思わなかった。


エレベーターが来るまでの数秒が、異様に長かった。


背後から、声がした。


「保留のままでいいのに」


振り返らなかった。


「仮のままでいいのに」


振り返らない。


「戻っても、また落ちるよ」


振り返らない。


チン。


エレベーターが来た。


ドアが開く。


中は明るかった。


普通のエレベーター。


壁に少し傷があって、床に細かいゴミが落ちている。


現実の雑さだった。


琢磨は乗り込んだ。


六階を押す。


その下に、見覚えのないボタンがあった。


仮


そんなボタン、普通ない。


琢磨は見ないふりをした。


六階のランプがつく。


ドアが閉まる直前。


廊下の奥から、何かが言った。


「次は、決まらない時に」


ドアが閉まった。


エレベーターが動いた。


上へ。


普通に。


⸻


六階に着いた。


ドアが開く。


明るい廊下。


コピー機の音。

誰かの話し声。

電話の呼び出し音。


会社だった。


琢磨は、しばらくエレベーターの中から出られなかった。


上司が通りかかって言った。


「琢磨くん? 大丈夫?」


「あ、はい」


「顔色悪いよ」


「ちょっと、エレベーターで酔いました」


雑な嘘だった。


でも、上司は普通に信じた。


「朝から大変だね。無理しないで」


それだけ言って行った。


普通の会話。


普通の会社。


普通の試用期間。


戻ってきた。


琢磨はトイレへ行き、個室に入った。


スマホを見る。


詩音との通話は、不在着信になっていた。


一度も出ていない。


LINEには、さっきのやり取りが残っている。


ただし、変な文面だけが消えていた。


「そこは兄ちゃんみたいな人が降りる階だよ」


「乗れば決まるよ」


「保留じゃなくなるよ」


全部ない。


詩音の本物の言葉だけが残っていた。


⸻


【LINE】


09:32 琢磨

戻った


09:32 詩音

よかった


09:33 詩音

ほんまに戻った?


09:33 琢磨

たぶん


09:33 詩音

今どこ


09:34 琢磨

会社のトイレ


09:34 詩音

現実っぽい


09:34 琢磨

判断基準が嫌だね


09:35 詩音

昼、絶対来て


09:35 琢磨

行くよ、かならず


09:35 詩音

ゴリラ持ってきて


09:36 琢磨

なんで


09:36 詩音

生還者確認


⸻


昼。


琢磨は詩音と定食屋に行った。


焼き魚定食を頼んだ。


味噌汁がついていた。


詩音は琢磨の鞄についたゴリラのキーホルダーを見て、眉をひそめた。


「これ、こんな傷あったっけ」


「え?」


ゴリラの腹のところに、細い傷がついていた。


白く削れたような傷。


そこに、小さく文字みたいなものが見えた。


琢磨は目を細めた。


仮


そう読めた。


詩音にも見えたらしく、顔をしかめた。


「捨てる?」


琢磨は首を振った。


「いや」


「怖くない?」


「怖いけど」


琢磨はゴリラを指で撫でた。


「これがあったから戻れた気がする」


詩音は少し黙ってから言った。


「じゃあ、次はもっと強そうなやつ買う?」


「ゴリラ以上って何だよ」


「金のゴリラ」


「成金すぎる」


二人は少し笑った。


久しぶりに、ちゃんと笑った気がした。


⸻


その日の帰り。


琢磨は、ビルの管理室に寄った。


「三階って、何が入ってるんですか」


管理人は、首をかしげた。


「三階?」


「はい」


「三階は今、空きフロアですよ。改装前で止めてます」


「止めてる?」


「ええ。エレベーターも三階には止まらない設定です」


琢磨は、何も言えなかった。


管理人は、操作盤の資料を見せてくれた。


確かに、三階は停止対象外になっていた。


ボタンを押しても、通常は反応しない。


「今朝、三階で降りたんですけど」


琢磨がそう言うと、管理人は困ったように笑った。


「押し間違いじゃないですか?」


「押し間違いです」


「なら、別の階だったのかもしれませんね」


その言い方が、何気なく怖かった。


別の階。


そう。


たぶん、別の階だった。


三階ではなく。


仮の人が降りる階。


⸻


それから、琢磨はエレベーターに乗る時、必ずボタンを確認するようになった。


スマホを見ながら降りない。


三階のボタンは押さない。


いや、押せない。


普通の操作盤には、ちゃんと三階のボタンがある。


でも、たまに朝だけ。


寝不足の日や、仕事の契約更新が近い日。


自分がまた宙ぶらりんになりそうな日に。


六階の下に、もう一つボタンが見える。


仮


指を近づけると、鞄のゴリラが小さく揺れる。


それで我に返る。


琢磨はそのたびに、詩音へLINEを送る。


⸻


【LINE】


08:41 琢磨

昼空いてる?


08:42 詩音

また?


08:42 琢磨

いや

確認


08:43 詩音

生存確認?


08:43 琢磨

現実確認


08:44 詩音

今日は無理

でも夜なら電話できる


08:44 琢磨

助かる


08:45 詩音

ゴリラ触っとけ


08:45 琢磨

お守り扱いになってる


08:46 詩音

真顔ゴリラ様やぞ


⸻


琢磨は笑って、エレベーターに乗る。


六階を押す。


今度は間違えない。


ドアが閉まる。


上へ動く。


普通に。


ただ、閉まる直前。


鏡の奥に、薄暗い廊下が映ることがある。


そこには、扉が並んでいる。


保留。

仮置き。

未決定。

試用中。


そして一番奥の扉に、まだ湿った字でこう書いてある。


琢磨


琢磨は、それを見ないふりをする。


見ないふりをして、ゴリラのキーホルダーを握る。


戻る場所があるうちは。


呼ばれても、降りない。

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