手鏡のうしろ
朝から、嫌な感じがした。
大学へ向かう道。
駅までの、いつもの通学路。
いつも通りの時間。
いつも通りの信号。
いつも通りの人の流れ。
なのに。
見られている。
そう思った。
最初は、気のせいだと思った。
寝癖でもついてるのかな。
そう思って、三崎は歩きながら前髪を触った。
別に変じゃない。
むしろ、今日はちゃんと整えてきた。
アイロンもした。
薄くメイクもした。
リップも塗った。
大学一年になって、少しはちゃんとしようと思ったのだ。
その努力が裏目に出ること、人生には多すぎる。
人間、頑張った日に限って不安になる。面倒な生き物である。
三崎は、駅へ向かう人の流れの中を歩いた。
前から来たサラリーマンが、ちらっとこっちを見る。
自転車の高校生も見る。
犬の散歩をしているおばさんも見る。
コンビニ前にいた大学生っぽい男の人たちも、一瞬だけ会話を止めた。
「……なに」
声には出さなかった。
でも、心の中では叫んでいた。
私、何かした?
スカート?
三崎は足を止めかけた。
今日履いているのは、淡いグレーのスカート。
昨日買ったばかり。
裏返し?
まさか。
いや、ある。
自分ならやりかねない。
下着が見えてる?
もっと嫌。
化粧した記憶はある。
でも、もしかしたら寝ぼけてすっぴんのまま出てきた?
いや、リップは塗った。
でも、片眉だけ描き忘れたとか?
髪が変?
後ろだけ爆発してる?
考えれば考えるほど、全部ありそうだった。
三崎はバッグから小さな手鏡を出した。
歩きながら、こっそり顔を見る。
前髪。
眉。
目元。
リップ。
普通。
むしろ、普段よりちゃんとしている。
「なんで……」
小さく呟いた。
その時、手鏡の端に、後ろを歩く男の人が映った。
黒いキャップ。
白いマスク。
紺色のシャツ。
顔はよく見えない。
男は前を向いて歩いていた。
でも、視線だけは、明らかに三崎の方へ向いていた。
鏡越しに、目が合った気がした。
三崎は慌てて手鏡を閉じた。
汗が背中を流れた。
⸻
【LINE】
08:21 三崎
ねえ
08:21 蓮
なに
08:22 三崎
今日めっちゃ人に見られる
08:22 蓮
また?
08:22 三崎
またって何
08:23 蓮
姉ちゃんいつも気にしすぎ
08:23 三崎
今回はほんとに見られてる
08:24 蓮
スカート裏返しなんじゃね
08:24 三崎
やめてよ
今それ疑ってるんだから
08:25 蓮
トイレで確認したら?
08:25 三崎
駅着いたら見てみる
08:26 蓮
どうせ何もないって
08:26 三崎
雑
08:26 蓮
姉ちゃん陰キャだから視線に弱いだけだって
08:27 三崎
うるさい
⸻
弟は、いつもこうだ。
家では三崎のことを雑に扱う。
でも、完全に間違っているわけでもないのが腹立たしい。
三崎は確かに、外で人から見られるのが苦手だった。
内弁慶。
家ではよく喋る。
弟には遠慮なく文句も言う。
でも、外では急に弱くなる。
人の視線が刺さる。
自意識過剰だと分かっていても、気になる。
でも今日は違う。
本当に、みんな見ている。
駅に着いた。
改札前は混んでいた。
学生。
会社員。
年配の人。
観光客っぽい人。
その中でも、何人かが三崎を見た。
じっとではない。
一瞬。
でも、その一瞬が多すぎる。
視線は数が増えると音になる。
ざわざわと、肌に触ってくる。
三崎は改札を通り、ホームへ降りた。
ホームの柱の横で、もう一度手鏡を開く。
服。
髪。
顔。
やっぱり変じゃない。
スカートの前後も合っている。
裏返しでもない。
タグも出ていない。
「じゃあ何……?」
電車が来た。
ドアが開く。
三崎は乗り込んだ。
座席はほとんど埋まっていた。
仕方なく、ドア横に立つ。
向かいの窓に、自分の姿が映る。
普通。
少し小柄な大学生。
少し気合いを入れた服装。
それだけ。
なのに。
斜め前の女子高生が見ている。
座席のおじさんも見ている。
吊り革につかまった若い男も見ている。
老若男女問わず。
ちらちら。
ちらちら。
三崎はスマホを握りしめた。
⸻
【LINE】
08:41 三崎
電車でも見られるなんで
08:41 蓮
芸能人デビュー?
08:41 三崎
笑えない
08:42 蓮
服変なん?
08:42 三崎
確認した
変じゃない
08:43 蓮
じゃあ顔に米粒ついてる
08:43 三崎
朝ごはんパン
08:44 蓮
じゃあパン粉
08:44 三崎
腹立つ
08:45 蓮
写真送れば?
08:45 三崎
電車で自撮り無理
08:45 蓮
じゃあトイレ行けよ
⸻
三崎は次の駅で降りることにした。
大学の最寄りまでは、まだ途中だった。
でも、もう無理だった。
一度、ちゃんと確認したい。
電車が駅に着く。
三崎は人の流れに紛れて降りた。
その時、ホームの向こう側に、黒いキャップの男が見えた。
さっき通学路で手鏡に映った男。
白いマスク。
紺色のシャツ。
距離はある。
でも、確かに同じ人に見えた。
三崎は立ち止まりそうになった。
男はこっちを見ていた。
周りの人と同じように、ちらっとではない。
まっすぐ。
動かずに。
「……最悪」
三崎は目を逸らし、女子トイレへ向かった。
駅のトイレは、朝で少し混んでいた。
三崎は個室に入り、鍵をかけた。
まずスカート。
裏返しじゃない。
タグも出ていない。
下着も見えていない。
ストッキングも破れていない。
次にメイク。
スマホのカメラと手鏡で確認する。
眉、両方ある。
アイラインも変じゃない。
リップもはみ出ていない。
髪型も崩れていない。
むしろ。
「……綺麗じゃん」
自分で言って、恥ずかしくなった。
でも本当に、今日はちゃんとしていた。
普段より気を使った。
服も、髪も、メイクも。
だからこそ分からない。
おかしいところがないのに、どうして見られるのか。
トイレの外から、女子たちの声が聞こえた。
「さっきの子、見た?」
「見た見た。めっちゃ可愛かった」
「ちっちゃい子でしょ?」
「そう。なんか人形みたいだった」
「大学生かな」
三崎は、個室の中で固まった。
え。
私?
いや、違うかもしれない。
でも、タイミング的にたぶん自分だ。
三崎は顔が熱くなった。
恥ずかしい。
怖い。
嬉しい、ではない。
いや、少しは嬉しい。
でもそれ以上に怖い。
可愛いから見る。
そういうことがあるのは分かる。
芸能人とか、モデルとか、そういう人なら慣れているのかもしれない。
でも、一般人は違う。
ただ大学へ行くだけで、人から見られる準備なんかしていない。
視線を受け止める筋肉なんて、鍛えていない。
人間の目、全部小さいライトみたいにこっちを照らしてくる。
しんどい。
三崎はトイレの個室で、深く息を吐いた。
⸻
【LINE】
08:59 三崎
一応異常なし
08:59 蓮
ほら
09:00 三崎
でも女子が可愛いって言ってた
09:00 蓮
よかったじゃん
09:00 三崎
よくない
怖い
09:01 蓮
褒められて怖がるな
09:01 三崎
人から見られるの怖いんだって
09:02 蓮
姉ちゃん、陰の者すぎる
09:02 三崎
うるさい
09:03 蓮
でも変なやつに見られてる感じなら駅員に言えよ
09:03 三崎
一人いるかも
09:04 蓮
は?
09:04 三崎
朝から同じ男がいる気がする
09:04 蓮
それは先に言え
⸻
急に弟の文面が変わった。
ふざけていない。
三崎は、少しだけ心細くなった。
⸻
09:05 蓮
どんな男
09:05 三崎
黒いキャップ
白マスク
紺のシャツ
09:06 蓮
距離取れ
09:06 蓮
人多いとこ歩け
09:06 蓮
できれば駅員か警察の近く
09:07 三崎
分かった
09:07 蓮
姉ちゃん、見られてるってだけで全部同じにするな
09:08 蓮
ただ見てる人と
狙って見てる人は違う
⸻
その文を読んで、三崎は喉がきゅっとなった。
弟のくせに、たまにまともなことを言う。
本当に腹立つ。
三崎はトイレを出た。
洗面台の鏡に、自分が映る。
やっぱり変じゃない。
でも、その後ろ。
入口の外を、黒いキャップの男が通った気がした。
女子トイレの中に入ってきたわけではない。
ただ、入口の外を横切った。
それだけ。
でも、通る速度が遅かった。
三崎は手鏡を握りしめた。
駅員に言おう。
そう思って、トイレから出た。
駅構内には、警察官が二人いた。
たぶん巡回中。
その姿を見て、少し安心した。
でも、その警察官たちも、三崎を見た。
一瞬だけ。
そして、何か話している。
こっちを見ながら。
三崎の心が折れかけた。
警官も?
最悪だよ。
私、何かした?
内心で悪態をつく。
でも、よく見ると、警察官の視線は三崎の後ろにも向いていた。
三崎は手鏡を開いた。
後ろを映す。
少し離れた柱の影。
黒いキャップの男がいた。
スマホを持っている。
画面をこちらへ向けているように見えた。
撮っている?
いや、分からない。
でも、男の姿勢は不自然だった。
他の人たちは、見て、すぐ逸らす。
可愛いと思っても、珍しいと思っても、普通は視線を外す。
でも男だけは違う。
見続けている。
こちらが気づいた後も。
ずっと。
三崎は警察官の近くへ歩いた。
すると、男はすっと柱の影に隠れた。
警察官の一人が三崎の方へ少し近づいた。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。
三崎は一瞬迷った。
でも、蓮のLINEを思い出した。
ただ見てる人と、狙って見てる人は違う。
「あの」
声が震えた。
「朝から、同じ男の人に見られてる気がして」
警察官の顔が少し真面目になった。
「どの人ですか」
三崎が柱の方を見る。
黒いキャップの男は、もういなかった。
「さっきまで、そこに」
「服装は?」
「黒いキャップ、白いマスク、紺色のシャツです」
警察官は頷いた。
「駅構内を確認します。今日は一人ですか?」
「はい。大学に行く途中で」
「できれば、人の多い場所を通ってください。大学に着いたら、友達か職員の近くに」
「はい」
「何かあればすぐ通報してください」
普通の対応だった。
それだけで、少し救われた。
三崎は頭を下げて、ホームへ向かった。
⸻
【LINE】
09:18 三崎
警察官に言った
09:18 蓮
えらい
09:18 三崎
えらい?
09:19 蓮
えらい
ちゃんと言えたならえらい
09:19 三崎
なんか小学生みたい
09:20 蓮
姉ちゃんは外だと小学生以下の時ある
09:20 三崎
殴る
09:21 蓮
元気出てきたな
⸻
次の電車に乗った。
やっぱり、人は三崎を見た。
でも、さっきより少しだけ冷静に見られた。
女子がちらっと見る。
若い男が一瞬見る。
おばあさんが微笑むように見る。
たぶん、変なところを見ているわけじゃない。
ただ、目に入っている。
珍しくちゃんと整えた自分が。
それでも怖い。
怖いものは怖い。
可愛いと思われているとしても。
その視線は、自分の上に勝手に乗ってくる。
三崎はドア横に立って、手鏡を握っていた。
鏡はもう開かなかった。
開くのが怖かった。
また、あの男が映りそうで。
大学の最寄り駅に着いた。
人の流れに合わせて改札を出る。
外はもう、夏の光で白っぽかった。
大学へ向かう坂道。
学生がたくさん歩いている。
三崎はその人混みの中を進んだ。
また見られる。
何人かが、やっぱり見る。
でも、もう少しだけ耐えられた。
大学の門が見えた時、スマホが震えた。
蓮からだった。
⸻
【LINE】
09:47 蓮
着いた?
09:47 三崎
もうすぐ
09:48 蓮
大学着いたら誰かといろ
09:48 三崎
友達まだ少ない
09:49 蓮
じゃあ購買とか学生課とか
人がいるとこ
09:49 三崎
分かった
09:50 蓮
あと今日の服、写真送れ
09:50 三崎
なんで
09:51 蓮
変じゃないか確認
09:51 三崎
今さら?
09:52 蓮
あと普通に気になる
09:52 三崎
きも
09:53 蓮
姉の服装確認でキモ扱いされる弟、不遇
⸻
三崎は少し笑った。
大学の門をくぐる。
その瞬間、少しだけ安心した。
大学の中なら大丈夫。
人も多い。
守衛もいる。
学生課もある。
そう思った。
バッグから手鏡を出す。
最後にもう一度だけ、髪を確認しようと思った。
手鏡を開く。
自分の顔が映る。
前髪は少し崩れていた。
でも、許容範囲。
目元も変じゃない。
リップも残っている。
「大丈夫」
小さく言った。
その時、手鏡の右端に、黒いものが映った。
三崎は息を止めた。
大学の門の外。
道路の向こう。
人混みの奥。
黒いキャップ。
白いマスク。
紺色のシャツ。
あの男が立っていた。
大学の敷地には入ってこない。
近づいてもこない。
ただ、遠くから見ている。
さっきまでと同じ姿勢で。
こちらが気づいたことにも、気づいているはずなのに。
逃げない。
隠れない。
見ている。
三崎は手鏡を閉じた。
スマホを開く。
蓮にLINEを打とうとした。
その時、近くを通った女子二人の会話が聞こえた。
「今の子、めっちゃ可愛くない?」
「あ、分かる。ちっちゃくて雰囲気ある」
「見ちゃうよね」
見ちゃうよね。
その言葉が、朝からの視線の答えみたいだった。
多くの人は、ただ見ていただけ。
三崎が思っていたほど、悪意はなかった。
見惚れていた。
珍しがっていた。
少し目を引かれていただけ。
でも。
その中に、一人だけ違うものが混じっていた。
たくさんの視線があったから。
男は近づけなかったのかもしれない。
声をかけられなかったのかもしれない。
人が多すぎて、何もできなかったのかもしれない。
そう考えた瞬間。
今朝、あれほど怖かった視線の群れが。
少しだけ、壁のようにも思えた。
怖い。
見られるのは怖い。
でも、誰も見ていなかったら。
あの男は、どうしていただろう。
三崎は大学の中へ急いだ。
学生課の前まで行って、蓮にLINEした。
⸻
【LINE】
09:58 三崎
大学着いた
09:58 蓮
よかった
09:59 三崎
でも男がいたんだよね
09:59 蓮
どこ
09:59 三崎
門の外
10:00 蓮
学生課か守衛に言え
10:00 三崎
今から言う
10:01 蓮
今日一人で帰るな
10:01 三崎
分かった
10:02 蓮
あと
10:02 三崎
なに
10:03 蓮
たぶん姉ちゃん今日かわいいんだろうけど
浮かれるなよ
10:03 三崎
浮かれてないし
10:04 蓮
怖がりすぎてもだめ
でも油断もだめ
10:04 三崎
むず
10:05 蓮
人生だいたいむずいから
⸻
学生課で事情を話すと、職員はきちんと対応してくれた。
守衛にも共有してくれることになった。
帰りは同じ授業の子に頼んで、一緒に駅まで歩いた。
その子は、三崎の話を聞いて言った。
「それは怖いよ。言ってくれてよかった」
その言葉で、少しだけ救われた。
その日は、黒いキャップの男をそれ以上見なかった。
でも、帰宅してからも、三崎は何度もカーテンを確認した。
スマホの通知にもびくついた。
手鏡は、机の引き出しにしまった。
もう見たくなかった。
でも、夜。
リップを落とす前に、どうしても気になって、もう一度だけ手鏡を開いた。
顔を見る。
疲れている。
朝よりだいぶ崩れている。
可愛いとか、そういう問題ではない。
普通に疲れた大学生の顔だった。
三崎は少し笑った。
「なんだったんだろ、今日」
その時。
鏡の端に、小さく黒い点が映った。
窓の外ではない。
部屋の中でもない。
鏡の奥。
ずっと遠く。
駅のホームの柱の影みたいな場所。
そこに、黒いキャップの男が立っているように見えた。
瞬きをしたら消えた。
たぶん、気のせい。
疲れているだけ。
そう思うことにした。
でも。
次の日から、三崎は大学へ行く時、少しだけ地味な服を選ぶようになった。
メイクも薄くした。
髪も、結んだ。
それでも時々、人は三崎を見る。
可愛いから。
小柄で目を引くから。
珍しいから。
ただ、それだけ。
たぶん。
でも、三崎は今でも、人の視線の中に一つだけ違うものが混ざっていないか探してしまう。
手鏡は、もう持ち歩いていない。
代わりに、スマホの黒い画面で後ろを見る癖がついた。
この前、大学の帰り。
消えた画面の端に、黒いキャップが映った気がした。
振り返ったら、誰もいなかった。
でも、その直後。
知らないアカウントから、DMが来た。
本文は、一行だけだった。
⸻
今日は、前より見つけにくかったです。
⸻
三崎はそれを、誰にも返していない。
スクショだけ撮って、学生課に出した。
弟にも送った。
蓮からは、すぐ電話がかかってきた。
それから三崎は、しばらく一人で登校していない。
ただ、今でも思う。
あの日、みんなが見ていたから、助かったのかもしれない。
けれど。
その中に、あの男の視線も混じっていた。
たくさんの目に紛れて。
ひとつだけ、ずっと。
三崎だけを見ていた。




